« 弁護士を依頼しない国民は淘汰されて当然 | トップページ | 民主主義の要諦について »

2012年7月17日 (火)

内藤頼博の理想と挫折(2)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

大津事件(1

占領下の日本における内藤頼博の業績を一言で言えば、司法権独立の制度的基盤を確立させたことだ。そして、わが国で司法権の独立といえば、大津事件を避けて通ることはできない。

明治24年(1891年)511日午後150分ころ、滋賀県大津市において、遊覧中のロシア皇太子が、警備中の津田三蔵巡査に襲われ頭部を負傷した。これが大津事件である。

当時世界一の陸軍を誇る超大国ロシアの皇太子が、世界デビューを果たしたばかりの極東の弱小国日本の、しかも警備担当の警察官に襲われたとあっては、いかなる国家的災厄が降りかかるか分からない(ちなみに日清戦争は明治27年(1894年)、日露戦争は明治37年(1904年)である)。天皇は直ちに詔勅を発し内外に遺憾の意を表明したうえ、自ら見舞いのため京都に赴いた。一方政府内では、津田三蔵を通常の謀殺罪(現在の故意殺人罪)ではなく皇室罪で罰すべしとの意見が出るが、14日になっても纏まらず、結局西郷従道内務大臣、青木周蔵外務大臣、三好退蔵検事総長の3名が天皇に奏聞した結果「皇室に対する罪」を適用することで決着した。

ここに「皇室に対する罪」とは旧刑法116条「皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處ス」であり、殺人未遂であっても、適用刑は死刑しかない。これに対して、謀殺未遂罪の最高刑は無期徒刑である。つまり、津田三蔵を死刑にするためには、「皇室に対する罪」を適用するほかはない。

ところが大津地方裁判所は本件を通常の殺人未遂罪として処理しようとしていたため、政府は裁判所長に圧力をかけて大審院での審理に変更させるとともに、皇室に対する罪を適用するよう画策した。その結果、大審院の担当判事の大勢は、皇室に対する罪の適用に傾いていたという。

そこで、児島惟謙大審院長は、518日に起草した意見書を携えて東京から大津に向かい、堤裁判長ら担当判事に対して、皇室に対する罪は適用できないと説得した。こうして、527日午後630分、津田三蔵被告を謀殺未遂罪(旧刑法292条、113条、112条)により無期徒刑に処するとする判決が言い渡された。

これが、大津事件の概要である。

|

« 弁護士を依頼しない国民は淘汰されて当然 | トップページ | 民主主義の要諦について »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/192469/55212004

この記事へのトラックバック一覧です: 内藤頼博の理想と挫折(2):

« 弁護士を依頼しない国民は淘汰されて当然 | トップページ | 民主主義の要諦について »