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2012年7月30日 (月)

日米弁護士市場比較

727日、大阪大学が主催するトランスプロフェッショナルリテラシー科研の第3回拡大ワークショップに参加して、「訴訟リスクは次世代ロボット開発を阻害しているのか?」という話をした。

参加者は、参議院議員の鈴木前文部科学副大臣をはじめ、先日6歳児の心臓移植手術を執刀した澤芳樹教授ら。何を話せばいいのかと悩んだのだが、結局こんな話をしてきた。

次世代ロボット(非製造部門)の市場規模は、2010年には2兆円に達すると予測されていたが、実際には数十億円にしかならなかった。その原因として、PL訴訟リスクが研究開発者を萎縮させているという指摘もあるが、賛成できない。試しに日米のPL訴訟リスクを比較してみると、大雑把な比較ではあるが、日本のPL訴訟提起件数は1年で多くて100件。これに対してアメリカでは数万件から十数万件。つまり提訴件数では数百倍から一千倍以上違う。

また、PL法施行後10年間で内閣府が把握した90件の訴訟のうち、和解額又は判決額として原告への支払いが命じられた金額は合計7億円余。これに対して、アメリカで提起されるPL訴訟全体のうち、判決に至るのが約5%(提訴件数を10万件として約5000件)あり、このうち13%(先の仮定で約650件)が懲罰的損害賠償を命じられ、その賠償額の中央値が約3700万円という。ここから、ごく大雑把な計算で割り戻すと、懲罰的損害賠償の総額が約240億円、仮に懲罰的損害賠償事案の3倍(1950件)で原告が勝訴し、1件当たりの賠償額が懲罰的賠償額の3分の1として約240億円、締めて480億円となる。

つまりはアメリカの賠償額は、日本のそれの60倍以上。これに、トライアル以前に和解した金額を入れたら、100倍を軽く超えることは間違いない。

つまるところ、アメリカのPL訴訟リスクは日本の100倍以上ある。では、アメリカにおける次世代ロボットの開発は、日本より100倍遅れているのか。そんなはずはない。それどころか、アメリカの方が進んでいる。そうだとすれば、PL訴訟リスクが次世代ロボットの研究開発者を萎縮させているという指摘は、およそ間違いということになる。

ちなみに、アメリカの弁護士数は日本の約30倍だ。日本の弁護士は仕事がなくて苦労しているが、PL訴訟だけで日本の百倍の市場規模があるなら、アメリカの弁護士は食うに困らないはず。弁護士から見ると、実にうらやましい話である。

打ち上げでは鈴木寛議員らと遅くまで飲んだ。鈴木議員と話をするのは初めて(民主党の法曹養成PTのメンバーとして、5月30日の私の話は聞いて下さったとのこと)だったが、議員というよりは教師に近い印象の方である。基調講演で、これからの国民に必要な素養として「哲学」を掲げたことには少し驚いた。趣旨には賛成なのだが、政治家の口から「哲学」という言葉を聞くとは思わなかったからだ。

法曹養成問題についても、興味深い話を伺ったが、それはオフレコである。

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2012年7月27日 (金)

デモと暴動と広場について

首相官邸前では、毎週金曜日数万人規模のデモが行われているという。

だが、首相官邸前の道路は、車道こそ片側二車線の立派なものだが、歩道は狭いし、溜池からの急な坂道だ。しかも塀が高くて、官邸が見えない。見えない相手に対して、声を嗄らす参加者は、どういう気持ちなのだろう。

近代以降の日本で大規模デモが暴動に発展した最初の例は、1905年(明治38年)の日比谷焼討事件だ。その舞台となった日比谷公園は、噴水広場以外は巨木が鬱蒼と茂っており、今見ても、数万人規模の集会が可能だったとは思われない。しかし、開園は事件の3年前の1902年(明治35年)だから、当時は灌木も植えたばかりで低く、多人数の集結が可能だったと思われる。

ちなみに、この当時、国会議事堂は現在経産省の建つ場所にあり、日比谷公園の真正面だった。つまり、日比谷公園で行われた集会は、国会に向けられたものだったことがわかる。当時の首相官邸(桂太郎首相)はおそらく永田町1丁目にあり、日比谷公園からは遠い。

1952年(昭和27年)51日、日比谷公園から出発したデモ隊が皇居前広場で警官隊と大規模な衝突事件を起こした(血のメーデー事件)。このデモないし暴動が、GHQによる占領終了直後の皇居前広場、つまり、GHQの旧司令部があった第一生命ビルと皇居の中間地点で起きたことは、とても象徴的だと思う。

その後最大のデモと言えば、1960年の安保闘争だ。1960年(昭和35年)618日には、33万人(主催者発表)が国会議事堂を取り囲んだ。

当時の写真を見ると、興味深いことに、道路や国会議事堂の敷地のレイアウトが、現在と全然違う。当時の国会議事堂の敷地は、正面に向け三角形にとがっており、その両側を流れる道路と十字に交差する二本の道路が国会議事堂に向かっていたことが分かる。つまり、大きな×印の一画をなす三角地帯が国会議事堂の敷地だった。これなら包囲も楽だろうし、防衛するには敷地内に籠城するしかない。ちなみに、丸ノ内線の国会議事同駅周辺の路線図を見ると、かつての道路がどこを通っていたか分かる。

これに対して、現在の国会議事堂の敷地は四角形であり、正面からアクセスする道路は1本しかない。その両脇は巨木のつくる緑地帯だ。つまり、現在の国会議事堂はT字路の突き当たりにあり、横棒と縦棒の間に挟まれた三角地帯が緑地帯となっている。そのため、この両緑地帯に機動隊を配置し、議事堂敷地内部の別働隊と連携すれば、国会議事堂の正面を容易に守れる。このレイアウト変更は、議事堂の「防衛」を目的にしたものとみて間違いない。

さて、今回のデモに参加する人びとは、日比谷公園はもちろん、国会議事堂前でもなく、首相官邸前を選んだ。道が狭く、訴えの対象である官邸が見えないという悪条件にもかかわらず、この場所を選んだのはなぜなのだろう。今回のデモを、こういう視点から見てみるのも、面白い。

また、歴史上、日本のデモは国会と首相官邸前で行われたことはあるが、最高裁判所前では行われていないことが分かる。デモの歴史を場所の観点から見ると、どこに政治権力があったのか、如実に分かる、ともいえる。

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2012年7月25日 (水)

エネルギーへの渇望は人類の原罪か

養老孟司氏が、エネルギー問題に関して、や対談、講演等で、斬新なご意見を述べている。私が見たのはロータリーの』7月号の講演録だが、その要旨はこうだ。

(要旨ここから)3.11以後、われわれはエネルギー問題に直面したが、そもそも20世紀はエネルギーの世紀だった。エネルギー革命は、生活を豊かにしたが、戦争の原因にもなった。日本では今、一人が一日につくり出すエネルギーの40倍の外部エネルギーを消費しているといわれている。江戸時代は2倍だった。

では、エネルギーを消費しない社会は悪い社会なのか。外部エネルギーを40倍も消費する社会では、人のエネルギーを無視できる。逆に、外部エネルギーを消費しない社会では、人の価値が上がるということだ。消費できるエネルギーが減り、人の労働に頼る割合が増えた社会では、人生の意義も増すだろう。

消費エネルギー量を下げることは、今の若い人には悲劇に映るだろう。だが、(戦後の飢餓を経験し)消費エネルギー量の非常に低い時代を生きた私には、悲劇とも思われない。そのことを若い人に伝えてあげたい。(要旨ここまで)

どう思われるだろうか。

「外部エネルギーを消費しない社会では、人の価値が上がる」という視点は、とても新鮮だ。だが、私の肌感覚では、氏の主張は受け入れられない。受け入れてはいけない気がする。なんとなく、本当に「なんとなく」なのだが、偽善というか、詭弁というか、胡散臭いと思う。

2001物語』(星野之宣)というSFコミック第1巻に『悪魔の星』という話がある。近未来、太陽系外縁に発見された反物質星「魔王星」をめぐる話だ。ローマ法王庁の科学顧問として調査に派遣されたラモン神父は、「魔王星」の持つ無尽蔵のエネルギーと、その発する禍々しい放射能との板挟みになり、人類の取るべき道を求め苦悩する。そして最後に、魔王星を封印しようとする法王庁に逆らい、反物質エネルギーと共存する途を選んで言う。「それが、人間の原罪なんだよ」と。

私には、ラモン神父の選択の方が、心に落ちる気がする。プロメテウスから火を与えられたときから、より強いエネルギーを求めることは、人類のDNAに深く刻印された本質的な要求なのだと思う。たとえそれが、どんなに危険であろうとも。

もちろん、養老孟司氏の主張は、エネルギー至上主義に対する警鐘として、大いに拝聴に値するし、原発政策が従前の通りで良いとは思われない。だが、消費エネルギーを失っていくことを是ととらえることは、やはりできない。養老氏の主張は、下品な言い方を許していただければ、老人の身勝手に聞こえてしまうのだ。彼らがまずなすべきことは、若人のエネルギー的困窮を慰めることではなく、自分たちのしてきた贅沢を反省することではないのか。

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2012年7月23日 (月)

「男やもめ製造機来るな」地元市民ホスプレイ反対へ

「弁護士になんか来てほしくない。特にホスプレイは危険だ」(43歳男性)

「ホスプレイ法律事務所」(本店東京)の進出に、地元沖縄県××市民の批判が強まっている。かつては歓迎された弁護士の地方進出だが、何があったのか。

2000年代前半は、裁判所所在地に弁護士が一人しか、あるいは一人もいない「ゼロワン地区」が多かったため、自治体はこぞって、弁護士の地方進出を求めた。また、地方には債務整理案件が大量にあったため、依頼した市民から感謝の声も多く聞かれた。

しかし、2010年代になり、債務整理案件数が減ると、状況は一変。地方の法律事務所は離婚や相続、地域開発をめぐる事件を多く取り扱うようになったが、これが地元住民の反発を呼んだのだ。

「(弁護士が来てから)離婚が増えた」

「妻に弁護士がついて、身ぐるみ剥がされた夫がいる」

「嫁に出たくせに(弁護士が)相続を主張するとはけしからん」

「道路やマンションの建設反対が増えた。弁護士が知恵を付けている」

など、反発の中身は様々。要は、法律通りに権利を主張する弁護士のやり方が、地域社会になじまないということのようだ。

都市が飽和状態であることから、地方にニーズを求め進出する弁護士数はここ数年、急増している。中でもホスプレイ法律事務所は、積極的に離婚案件を掘り起こし、夫に高額の慰謝料や財産分与を請求する営業手法で急成長。一部には「男やもめ製造機」という評価もある。

ホスプレイ法律事務所××支店の開所は一週間後に迫った。配属される弁護士4名は既に東京を出発し、なぜか山口県岩国市で一泊したのち、現地入りするという。

地元市民の陳情を受けた日弁連会長の山串弁護士は、「法の支配を地域の隅々まで広げるのが弁護士の使命。今どき嫁には相続権が無いなどという考えこそ改めてほしい」と反論した。

また、野田首相は「弁護士増員はアメリカと約束したこと。いまさら、撤回などできないし」と困惑顔だ。

日弁連評論家の小林正啓弁護士「(ホスプレイの弁護士が)なぜ岩国に寄るのかって?そりゃ錦帯橋を見たいからでしょう」

注;このエントリはフィクションです。

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2012年7月19日 (木)

民主主義の要諦について

弁護士を依頼しない国民は淘汰されて当然」は、やや過激なタイトルのせいか、多くのアクセスとご批判をいただいた。

筋の通った批判は大歓迎だが、気になった1点について、述べておきたい。それは、「司法改革は、国民の選択したことだ」と記したことに対する、「そんな選択はした覚えがない」という批判だ。

実は上記エントリだけではなく、司法制度改革に反対の弁護士らには、同種の発言が多い。曰く、「私は反対していました」「知りませんでした」「それはカネボウだかナカボウだかという人が、勝手にやったことです」「私はまだ弁護士でなかったので、関係ありません」。

だが私は、ちょっと甘い、いや、甘すぎる、と思う。組織の選択を構成員の選択として引き受けるのが、民主主義の要諦だからである。

例えば河野真樹氏はこう述べる。「国民は、(司法改革のもたらす結果を)分かっていなくて当たり前です。こうなることをどこかの政党がマニフェストで具体的に提示したわけでも、大マスコミが懇切丁寧に解説し、『それでもよいか』と問い掛けたわけでもないからです。やったことはといえば、この国の専門家や有識者の方々が、『社会の隅々』に弁護士が登場する社会がいいことだと叫び、この国を『変えるのだ』といい、弁護士の激増政策を打ち出し、大マスコミも、そのきれいな絵をなぞって、国民に伝えただけのことです。つまり、別に国民は、頼んだ記憶がない。それが『弁護士を依頼しない国民は淘汰されて当然』な社会になるなんて、とんでもない、という感想になっても当然です」

しかし、そもそも国家の政策で、政党やマスコミが具体的に提示したり、懇切丁寧に解説したり、長所短所を正確公平に示して国民の選択を仰いだりするものなんて、あるのだろうか。この選択をすれば結局どうなるのか、国民が先の先まで見通して決断することなど、あるのだろうか。司法制度改革に限らず、そんなことは、まずない。それどころか、第一党のマニュフェストと正反対の政策さえ、国会を通ってしまうのが現実である。さらには、80年前の政府の馬鹿げた選択の尻ぬぐいを、われわれは未だに引き受けなければならない。

それでも、国家機関の意思決定を国民の選択として引き受けるのが、民主主義国家なのである。換言すれば、民主主義国家とは、国家の失敗を国民が引き受けることを正当化する政治体制なのだ。その意味で、司法改革は、国会と内閣の決定である以上、紛れもなく国民の選択である。同じ意味で、弁護士全員が引き受けるべき選択だ。

じゃあどうすれば良いのか。われわれは先祖や先輩の失敗を、いつまでも引き受けなければいけないのか?もちろんそんなことはない。政策を転換すればよい。但しその前に、自らを含む組織全体として間違った選択をした、と認める必要がある。それが、民主主義国家のあるべき姿である。

弁護士に最も足りないのは、この点だと思う。なぜ、かつての組織的選択を一度引き受けないのだろう。なぜ「私は反対していました」「支持した覚えはありません」「それは誰かが勝手にやったことです」「まだ私は弁護士でありませんでした」と言いつのるのだろう。これでは、他国民の支持は受けられない。彼らも馬鹿ではないから、この種の発言の胡散臭さ、嘘っぽさ、偽善を、本能的に嗅ぎとるからだ。教科書を墨で塗らせ、民主主義万歳と叫んだ教師を、子どもらが軽蔑したように。

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2012年7月17日 (火)

内藤頼博の理想と挫折(2)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

大津事件(1

占領下の日本における内藤頼博の業績を一言で言えば、司法権独立の制度的基盤を確立させたことだ。そして、わが国で司法権の独立といえば、大津事件を避けて通ることはできない。

明治24年(1891年)511日午後150分ころ、滋賀県大津市において、遊覧中のロシア皇太子が、警備中の津田三蔵巡査に襲われ頭部を負傷した。これが大津事件である。

当時世界一の陸軍を誇る超大国ロシアの皇太子が、世界デビューを果たしたばかりの極東の弱小国日本の、しかも警備担当の警察官に襲われたとあっては、いかなる国家的災厄が降りかかるか分からない(ちなみに日清戦争は明治27年(1894年)、日露戦争は明治37年(1904年)である)。天皇は直ちに詔勅を発し内外に遺憾の意を表明したうえ、自ら見舞いのため京都に赴いた。一方政府内では、津田三蔵を通常の謀殺罪(現在の故意殺人罪)ではなく皇室罪で罰すべしとの意見が出るが、14日になっても纏まらず、結局西郷従道内務大臣、青木周蔵外務大臣、三好退蔵検事総長の3名が天皇に奏聞した結果「皇室に対する罪」を適用することで決着した。

ここに「皇室に対する罪」とは旧刑法116条「皇族ニ對シ危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處ス」であり、殺人未遂であっても、適用刑は死刑しかない。これに対して、謀殺未遂罪の最高刑は無期徒刑である。つまり、津田三蔵を死刑にするためには、「皇室に対する罪」を適用するほかはない。

ところが大津地方裁判所は本件を通常の殺人未遂罪として処理しようとしていたため、政府は裁判所長に圧力をかけて大審院での審理に変更させるとともに、皇室に対する罪を適用するよう画策した。その結果、大審院の担当判事の大勢は、皇室に対する罪の適用に傾いていたという。

そこで、児島惟謙大審院長は、518日に起草した意見書を携えて東京から大津に向かい、堤裁判長ら担当判事に対して、皇室に対する罪は適用できないと説得した。こうして、527日午後630分、津田三蔵被告を謀殺未遂罪(旧刑法292条、113条、112条)により無期徒刑に処するとする判決が言い渡された。

これが、大津事件の概要である。

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2012年7月13日 (金)

弁護士を依頼しない国民は淘汰されて当然

差し障りがあるので固有名詞は伏せるが、私が所属する某ADR(裁判外紛争解決機関)では、事件数が急増している。それも、弁護士が一方当事者の代理人として申し立てる事件が増えている。そのため、仲裁を申し立ててから、第一回目の期日が入るまでの日数が、50日から100日かかってしまう事態となった。本来、仲裁担当弁護士を増やして対応すべきだが、予算の関係もあり、ままならない。

そこで、このADRの首脳は何を考えたか。

「弁護士申立事件を受けつけない。または、弁護士申立回数を制限する」ことを、全国会議に諮る、というのである。その理由は、「弁護士が申立をすることによって、弁護士を依頼しない一般市民が(第1回期日の遅延という)不利益を被っているから」というのである。

常日頃温厚で有名な私だが、この発言を聞いたときには怒った。発言を求めて、こう言った。「国民は司法改革で弁護士を増やしたのだから、弁護士申立事件が増えて当たり前だ。それを受けつけないとか、回数制限するとか言うのは、司法制度改革の否定に等しい」。出席した他の弁護士は笑ったが、なぜだろう。

「法の支配を社会のすみずみに」とは司法改革の理念である。法の支配を社会のすみずみに行き渡らせるため、わが国は弁護士を大幅に増やした。つまり、弁護士こそが、法の支配の担い手である。国民は、弁護士に依頼することによって、法の支配の恩恵を受けるのである。

その意味するところは、こういうことである。すなわち、弁護士に依頼しない国民は、弁護士に依頼した国民に比べ、法の支配の恩恵を受けられないという不利益を被る。これは司法改革の理念から導かれる、至極当然の結論だ。だからこのADRでも、弁護士に依頼しない者は、不利益な扱いを受けて当然である。

もちろん、経済的な事情等により、直ちに弁護士を依頼できない者もいる。そこで司法改革は、法テラスを充実させた。経済的理由で弁護士を依頼できない人はいなくなった。それでも弁護士を使わないなら、使わない方が悪い。

司法改革で弁護士を増やせば、そこには当然、優勝劣敗が生じる。弁護士本人に限らず、その弁護士を依頼した国民も一蓮托生だ。最近、中央大学の安念潤司教授が「(司法試験)合格者数をどんどん増やせばよい。平均的な法曹の質は当然低下するが、誰が困るというのか。上位合格者の質は変わらないだろうし、良い弁護士に相談したければ、医者や歯医者と同じように、自分で探せばよい」と発言したとかで、一部弁護士の怒りを買っているが、司法改革の理念に照らせば、当たり前のことを言っているに過ぎない。弁護士を探せなかった国民や、悪い弁護士に当たった国民は、司法改革の理念に照らし、淘汰されて当たり前なのである。

これは善し悪しの問題ではない。大事なことは、このような社会を、日本国民自身が選択したということだ。「それでいいのか?」と問うことも大事だが、いっぺん選択し、撤回されていない国家政策である以上、上記ADRの如き公的機関としては、国民の選択に従うのが、あるべき姿である。

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2012年7月12日 (木)

日経『大詭小詭』

710日の日本経済新聞『大機小機』は、食料品の消費税に軽減税率を導入すると、かえって高所得層に恩恵を与える(隅田川氏)と主張している。

記事によると、月収20万円、食料支出4万円の低所得家庭の場合、食料品にかかる消費税額は10%として400円、家計に占める割合は2%となるのに対して、月収60万円、食料品支出8万円の高所得家庭の場合、消費税額は800円、家計に占める割合は1.3%となって、逆進性(低所得者ほど税負担が重くなること)が生じる。

ここまでは、ごく普通の解説だ。違うのは、これからである。

…そこで、逆進性を回避するため、食料品の消費税を5%に据え置くと、月収20万円家庭の食料品にかかる消費税額は200円となり、「得する額」は200円(400円-200円)となるのに対して、月収60万円家庭の消費税額は400円、「得する額」は400円(800円-400円)となって、後者の方が、「得する額」が多くなる。したがって、「軽減税率適用は、低所得層を助ける以上に高所得層に恩恵を与えてしまう」というのだ。

なんだって?

この主張は第1に、「逆進性を回避するため、食料品の消費税を5%に据え置く」という前提が間違っている。当たり前のことだが、食料品に消費税を課す限り、エンゲル係数の高い家庭(低所得層)の税負担率が重くなるから、消費税率を5%にしたところで、逆進性は回避できない。

2に、消費税を5%に据え置いた場合、10%にした場合に比べ、一般的に支出金額の多い高所得家庭の方が、金額的なメリットが大きいのは、当たり前のことだ。それを不平等だというなら、消費税率は永遠に下げられない。隅田川氏は、それで良いのだろうか。

第三に、消費税率を「据え置く」ことは、国民に対する「恩恵」でも何でもない。むしろ、必要最低限のコストで国家を運営しろと政府に命じるのは、民主主義国国民の権利である。隅田川氏は、軽減税率の問題点を指摘する便法として、軽減分を「国庫からの補助金」と喩えているが、同様に間違いだ。

要するに、隅田川氏の論法は詭弁である。軽減税率の当否について、それぞれの立場から議論することは大いに結構だ。でも、詭弁はいけませんよ。詭弁は。

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2012年7月11日 (水)

次世代ロボットの安全認証機関について

次世代ロボットの安全性認証機関を設立したらどうか、という話がある。

次世代ロボットがいま一つブレイクしない理由の一つは、事故による訴訟リスクを恐れているからだ。そこで、安全認証機関を設立して、安全性を保障してやれば、企業も安心してロボットを販売するのではないか、というわけだ。

わが国において、訴訟リスクはほとんどないことは以前書いたが、訴訟リスクがない、ということと、訴訟リスクを恐れている、ということとは別次元の話だから、実際にメーカーが訴訟リスクを恐れてロボットを作らないという現実があるなら、安全認証機関を作るのも、一つの解決策だろう。

問題は、安全認証機関が安全を認証する、ということに、どのような効果を持たせるかである。

もう数年前のことだが、ある安全工学の学者さんは、「安全認証を受けたロボットが事故を起こしても、メーカーは法的責任を免除されるようにすればよい」と述べた。しかしこれは大間違いである。行政機関や第三者機関の安全認証は、裁判所を拘束しないから、欠陥があると裁判所が認定すれば、メーカーは責任を免れない。もし法的責任を免れさせたいなら、原子炉のように、特別法を制定するほかないが、現実的ではない。

次に考えられるのは、安全を保障する以上、万一事故が起きたときには、認証機関が賠償責任を負う、という制度だ。要するに保険である。保険事業は、本来、損保が担うべきだが、現時点では、次世代ロボットの市場がないので、保険リスクの算定のしようがない。そこで当面は、国家予算を引当にして、安全認証機関がリスクを引き受けるわけだ。

産業発展のために、黎明期のリスクを国家が引き受けるというのは、ありうる考え方だとは思うが、問題は、財政逼迫のおり、そんな予算がでるか、という点だろう。

そこで次善の策として、規格認証、というやり方がある。これは、一定の安全規格を公定し、当該ロボットがその規格を満たしていることを証明するやり方だ。この認証方法は、直接的には安全を保障しているわけではない。だが、安全であるための規格は満たしていると宣言することで、間接的には、安全を保障しているともいえる。もっとも、万一事故を起こしても、規格認証機関が責任を負うことはない。

規格認証は、一時、ISO何とかで大いに流行ったが、最近はあまり聞かない。結局のところ、ISO何とかを取得したところで、安心・安全やコンプライアンスが実体的に保障されたわけではなく、宣伝効果も薄いので、企業が興味を失いつつあるのだろう。このように、実体のない規格認証は、すぐ飽きられるし、次世代ロボット産業の発展には寄与しないと思われる。

ちなみに、原発については、政府自身が安全認証機関となり、原発は絶対安全ですと保証してみせた、本当に重大事故が起きたとき誰が最終責任を負うか(保険金を支払うか)を中途半端にしか決めなかったので、今になって、被害者そっちのけで、東電と責任の押し付け合いをしているわけである。酷い話だが、「原発政策推進」を是とする限りにおいては、国家が安全を宣言することには意味があったとも言える。ちなみに次世代ロボットは、どんな大事故を起こしたところで原発メルトダウン級の被害は起きないのだし、米国に比べたら、人の命の値段など、安いものだ。次世代ロボット産業を育成する気があるのなら、安全認証機関が事故の損害を引き受けるのが、最善の策だと思う。

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2012年7月 9日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(1)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

信州高遠藩内藤家について

内藤頼博は、明治41年(1908年)312日、東京市四谷区内藤町(今の新宿区内藤町)で出生した[1]

内藤が「内藤町」で生まれたのは偶然ではない。内藤頼博は、信州高遠藩内藤家の16代当主であり、戦前は子爵[2]だった。内藤町は、内藤家の氏を冠した町名である。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けたのが、甲州街道の江戸側の起点一帯の広大な土地だった。内藤町にある多武峯内藤神社境内には、家康に「馬で一息に廻れた土地をつかわそう」と言ったため、清成が白馬にまたがり、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保と駆け抜けて戻ると、馬は泡を吹いて息絶えた、という伝説と、駿馬塚とが残る。新宿御苑はもともと内藤家の江戸屋敷であり、明治政府に上納されたものだ。

内藤新宿が甲州街道の東の起点なら、西の終点は長野県諏訪郡下諏訪町である。甲州街道は下諏訪で中山道と合流し、妻籠・馬籠や関ヶ原を経て京都に向かう。1691年(元禄4年)に内藤清枚(きよかず)が封ぜられ、現代は桜の名所として知られる信州高遠城は、下諏訪の南に位置し、甲州街道と中山道の両方を睨む戦略上の要衝であって、山本勘助も改築に関わったとされる名城だ。つまり、内藤氏は甲州街道の起点と終点の防衛を任せられたのである。

内藤氏は清枚以後8代にわたり高遠藩主を務めるが、系図[3]を見ると養子が多い。直近では、第11内藤頼以(よりもち)は陸奥福島藩主、板倉勝矩の五男である。板倉家の宗家は、歴史上の名裁判官である板倉勝重だが、この血縁を内藤頼博が知っていたかどうかは分からない。

内藤頼博は、この血統と、身長170センチという、当時としては大柄な体格、貴族的な風貌と温厚な性格から、裁判官仲間からも「殿様」と呼ばれて親しまれていた[4]

後に登場し、戦前・戦中における日本政界のフィクサーと呼ばれた伊沢多喜男は、明治2年(1869年)1124日、信州高遠藩士の子として生まれた。つまり内藤頼博とは「殿様」と「家来」の関係になる。


[1] 大日本法曹大観

[2] 法学セミナー19768月号「内藤頼博氏に聞く」(野村二郎)

[3] 長谷川正次著『高遠藩』(現代書館)

[4] 法学セミナー19768月号「内藤頼博氏に聞く」(野村二郎)

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2012年7月 4日 (水)

株主総会定足数排除の定款について

先日の株主総会終了後の茶飲み話で話題となったネタ。

会社法は、株主総会の定足数を、「議決権を行使することができる株主の過半数」と定めている(3091項)。しかし、同条項には「定款に別段の定めがある場合を除き」とあるから、定款に定めれば、この定足数要件を排除できる。では、会社法の定める定足数要件を排除したいとき、定款にどう定めればよいか。

どのサイトを見ても、ひな形の文章は同一だ。

「株主総会の決議は、法令又は定款に別段の定めがある場合のほか、出席した議決権を行使することができる株主の議決権の過半数をもって決する」とある。

この文言に、取締役の一人が疑問を述べた。「この定款には、『法令に別段の定め』がある場合は法令が優先すると書いてある。すると、会社法の規定があれば、それが優先することになる。だが、会社法3091項には、『定款に別段の定めがある場合を除き』と書いてあるから、定款が優先する。これでは、どちらが優先するのか、分からないじゃないか」

この取締役の疑問は、実にもっともだと思う。確かに、詳細は省くが、解釈論を駆使すれば、定款の規定は、会社法3091項を排除する趣旨と読むことができる。しかし、株主総会の定足数要件は、「基本中の基本」のルールだ。交通法規でいうなら「車は左側通行」や「赤は止まれ」に匹敵する。このような基本的なルールは、一義的に明確でなければならない。ごく平均的な日本語能力を持つ者が理解できなかったり、解釈論を持ち込まなければ正しい答えが出なかったりというのは、基本的ルールのあり方として、根本的に間違っていると思う。

問題の定款の規定は、例えば、こう定めたら良い。「株主総会の決議は、会社法3091項の規定にかかわらず、出席した議決権を行使することができる株主の議決権の過半数をもって決する」。こう定めれば、解釈の余地は一切なく、会社法の規定を排除できる。

あるいは、「株主総会の決議は、会社法の規定にかかわらず、出席した議決権を行使することができる株主の議決権の過半数をもって決する」でもよい。

こう定めれば、もし会社法改正により条文の位置がずれても、定款変更をしないで済む。一方、特別決議に関する定足数の定めは強行法規であって、当然に定款より優先するから、不都合は起きない。

「株主総会の決議は、法令又は定款に別段の定めがある場合のほか、出席した議決権を行使することができる株主の議決権の過半数をもって決する」という定款の定めは、どのサイト、どの会社でも同一のようだ。そうだとすると、この定めは、特定のひな形を倣っているのだろう。だが、このひな形は、解釈の余地を残す点で、かなりデキが悪い。

こんなデキの悪いひな形を作った方も作った方だが、定款作成時、何の疑問も差し挟まなかった弁護士たちも、何をチェックしていたのだろう。

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2012年7月 2日 (月)

桜と牛レバ

牛レバ刺しの飲食店での提供が71日から禁止されるため、630日の焼き肉店は、「食べ納め」の客で賑わったという。「もう食べられないのは悲しい」。新聞に載る客のコメントには、悲痛なものが多い。

だが、テレビで見る客の顔はどれも笑顔だ。最後の1枚を写メに撮って愛おしみ、名残惜しそうな笑顔で口に運ぶ。笑顔といっても、歓喜とは違う、一種独特の表情だ。どこかで見たような気がする。

何だろう、と考えてみて気がついた。これは、花見の顔だ。人びとは、散る桜を惜しむように、食えなくなるレバ刺しを惜しんでいるのだ。その意味で、これは極めて日本的な風景かもしれない。だが、桜は来年見られるけれど、レバ刺しにはたぶん、日本では一生お目にかかれない。

ところで、法律家としては、「レバ刺し禁止令」の合憲性について、検討しなければならない。そのためには、「レバ刺しを食べる自由は憲法上保障されているか」を論じる必要がある。この論点に類似する判例としては、「喫煙の自由が憲法上保障されているか」に関する最高裁判所大法昭和45年9月16判決がある。未決拘禁者の喫煙禁止が問題となったこの事件で、最高裁は、必要かつ合理的な制限と判断した。だが、店舗で牛レバ刺しを食する自由が、拘置所で喫煙する自由より強く制限されて良い理屈はない。それならば、我々はレバ刺しを食する自由を求めて裁判に訴えるべきではないのか。それこそ、民主主義のあるべき姿、法の支配のあるべき姿ではないのか。笑ってレバ刺しを食べている場合だろうか。

「逮捕・起訴されておいて、拘置所でタバコを吸う権利を保障しろだと?ふざけるな」と思うかもしれない。だが、この一見馬鹿げた主張に、最高裁が大法廷判決で応えた事実は軽視されてはならない。この事実は、現代より、昭和45年の裁判所の方が、人権感覚に敏感だったことを示している。

「レバ刺し禁止令」を是非もないと諦め、せめて散る桜のように惜しむ感覚は、日本人が備える美徳の一つかもしれない。だが、納得できないとき、しっかり異議を述べることと、異議を述べる人を、きちんと受け止めることとも、大事な「美徳」だと思う。そして、日本と日本人は、こちらの「美徳」をも、かつては、持っていたのだ。

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