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2012年7月19日 (木)

民主主義の要諦について

弁護士を依頼しない国民は淘汰されて当然」は、やや過激なタイトルのせいか、多くのアクセスとご批判をいただいた。

筋の通った批判は大歓迎だが、気になった1点について、述べておきたい。それは、「司法改革は、国民の選択したことだ」と記したことに対する、「そんな選択はした覚えがない」という批判だ。

実は上記エントリだけではなく、司法制度改革に反対の弁護士らには、同種の発言が多い。曰く、「私は反対していました」「知りませんでした」「それはカネボウだかナカボウだかという人が、勝手にやったことです」「私はまだ弁護士でなかったので、関係ありません」。

だが私は、ちょっと甘い、いや、甘すぎる、と思う。組織の選択を構成員の選択として引き受けるのが、民主主義の要諦だからである。

例えば河野真樹氏はこう述べる。「国民は、(司法改革のもたらす結果を)分かっていなくて当たり前です。こうなることをどこかの政党がマニフェストで具体的に提示したわけでも、大マスコミが懇切丁寧に解説し、『それでもよいか』と問い掛けたわけでもないからです。やったことはといえば、この国の専門家や有識者の方々が、『社会の隅々』に弁護士が登場する社会がいいことだと叫び、この国を『変えるのだ』といい、弁護士の激増政策を打ち出し、大マスコミも、そのきれいな絵をなぞって、国民に伝えただけのことです。つまり、別に国民は、頼んだ記憶がない。それが『弁護士を依頼しない国民は淘汰されて当然』な社会になるなんて、とんでもない、という感想になっても当然です」

しかし、そもそも国家の政策で、政党やマスコミが具体的に提示したり、懇切丁寧に解説したり、長所短所を正確公平に示して国民の選択を仰いだりするものなんて、あるのだろうか。この選択をすれば結局どうなるのか、国民が先の先まで見通して決断することなど、あるのだろうか。司法制度改革に限らず、そんなことは、まずない。それどころか、第一党のマニュフェストと正反対の政策さえ、国会を通ってしまうのが現実である。さらには、80年前の政府の馬鹿げた選択の尻ぬぐいを、われわれは未だに引き受けなければならない。

それでも、国家機関の意思決定を国民の選択として引き受けるのが、民主主義国家なのである。換言すれば、民主主義国家とは、国家の失敗を国民が引き受けることを正当化する政治体制なのだ。その意味で、司法改革は、国会と内閣の決定である以上、紛れもなく国民の選択である。同じ意味で、弁護士全員が引き受けるべき選択だ。

じゃあどうすれば良いのか。われわれは先祖や先輩の失敗を、いつまでも引き受けなければいけないのか?もちろんそんなことはない。政策を転換すればよい。但しその前に、自らを含む組織全体として間違った選択をした、と認める必要がある。それが、民主主義国家のあるべき姿である。

弁護士に最も足りないのは、この点だと思う。なぜ、かつての組織的選択を一度引き受けないのだろう。なぜ「私は反対していました」「支持した覚えはありません」「それは誰かが勝手にやったことです」「まだ私は弁護士でありませんでした」と言いつのるのだろう。これでは、他国民の支持は受けられない。彼らも馬鹿ではないから、この種の発言の胡散臭さ、嘘っぽさ、偽善を、本能的に嗅ぎとるからだ。教科書を墨で塗らせ、民主主義万歳と叫んだ教師を、子どもらが軽蔑したように。

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コメント

 宇都宮前会長が設置し、今はもう存在しない法曹人口問題政策会議では、日弁連は間違った選択をしたことを認め、謝罪して歩き直すべきという意見も何度も出ていたのですが、そういう意見を執行部が取り入れて下さることはなかったですね。

 これは質問になるのですが、小林先生は、かつての組織的選択を一度引き受けるべきとの御意見ですが、その組織的選択が誤っていると判断された場合であっても、その選択を誤ったことを認め、謝罪して歩き直す前に、一度は引き受けろとのご趣旨でしょうか。

 私自身は、組織的選択を一度してもそれを完全に引き受ける前に誤りだと判明した場合には、過ちを認め、謝罪すべき点があれば謝罪し、歩き直すことは許されても良いと思っているのですが。

投稿: 坂野真一 | 2012年7月19日 (木) 20時32分

「引き受ける」というのは、あまり適切ではなかったかもしれません。私が言いたいのは、組織的選択に対して、自分は反対した、誰かが勝手にやった、私は悪くないと、いわば「被害者面」することの欺瞞性です。日弁連政策会議内部の議論は知りませんが、「私たちは正しかった、あなたたちは間違っていた、だからあなたたちは私たちに謝罪しなさい」という主張が仮にあったとすれば、私はその論法そのものを支持しません。逆に、「われわれの選択は間違っていた。だから(例えば国民に)謝罪しよう」という主張であったとすれば、それはそれで一つの主張だと思います。「引き受ける」というのは、こういう意味でつかったものです。

投稿: 小林正啓 | 2012年7月19日 (木) 21時04分

小林先生、ご回答有り難うございました。
仰ることは理解できたつもりです。

私が、法曹人口問題政策会議でお聞きする限り、過ちを認め、国民の皆様に謝罪して、という趣旨での発言だったように思います。

ただ、、謝罪の前提である「過ちを認める」という点において、法科大学院導入など司法改革を推進し、今なお執行部の多数勢力である方々は、その気は、全くなさそうでしたね。

どうして自分の無謬性について、そこまで自信があるのか、謎ですが。

投稿: 坂野真一 | 2012年7月20日 (金) 12時43分

現時点では、国民は別に「司法改革」が失敗だと思っていないし、困ってもいませんから、仮に日弁連が誤りを認め、国民に謝罪したとしても、

「へっ? 俺たちには関係ないよ」

という反応にしかならないでしょうね。

結局、「改革」によって国民生活が決定的に破壊されるまでは、国民は「改革」に抵抗しない、それどころか積極的に加担し続けるのでしょう。
ちょうど、日本の原発で重大事故が起きるまで、国民が原発を漫然と容認していたように。あれほど警鐘が乱打され、スリーマイル、チェルノブイリ、JCOといった事故の前例もあったにもかかわらず。

もっとも、国民生活が決定的に破壊されるのは、そう遠くないことだと思いますが、その時に国民世論はどういう方向に転がるでしょうね。

投稿: ひとこと | 2012年7月23日 (月) 03時35分

「国家の意思決定を国民の選択として引き受ける」「民主国家は国家の失敗を国民が引き受ける体制」とのことですがこれらのご主張は観念論の域を出ないと言わざるを得ません。この論でゆけば、国の原子力政策は国民が選択し、大量の放射能をばらまいた原発事故という「国家の失敗」を国民全体で引き受けろということになります。果たしてそれが国民に受け入れられるでしょうか?それを大飯原発稼働反対の座り込みをした「国民」が受け入れるでしょうか?学者などが潜在的需要などといい加減なことを言い進めてしまった増員政策も原子力政策と進め方は同様です。違いは一般国民の関心度ぐらいでしょう。私は現状としては国民が政治家や官僚はもとよりメディアや専門家によって「国民の選択」という形にさせられていいようにやられてきたのではないかという疑問を少なからず国民自身が抱きはじめている段階と思います。日弁連とて果たして真に民主的なアプローチで増員政策に乗っかったのでしょうか?そうでないことはよくおわかりのはずです。なので甘くても辛くても「国家の失敗」を「受け入れろ」とのご主張には抵抗を感じるのが率直なところです。それから「私は反対だった」と主張すること大いに結

投稿: あさぎり | 2012年7月24日 (火) 23時18分

一般論として、故意または過失に起因して損害が発生したときには、その責任が問われるべきでしょう。
 福島原発事故が起きるまでの世論調査では、だいたい原発積極推進・容認が少なくとも6割を超えてました。原発推進政策は国民の支持のもとで行われてきたのであり、これが国民の故意または過失にあたらないとしたら、国民には主権者として政策決定に関与する資格がないと言わざるをえません。国民は具体的な政策決定からは一切排除して国民の政治的権限は選挙で投票するだけに制限し、具体的な政策決定は政治家や官僚などの「政治のプロ」だけが行い、誤りの責任も「プロ」だけが負うという政治の在り方にすべきでしょう。
 もっとも、「福島原発事故が起きたのは、安全対策を怠った東電・十分な規制をしなかった安全委と保安院・事故とに適切な対応をしなかった官邸の責任であり、原発推進政策そのものは正しい」という立場に立つのなら、国民が原発推進政策を支持していても過失ではなく責任を負う必要もないでしょう。しかしその場合は、今後も原発推進政策それ自体を転換する必要はなく、単に安全規制を強化すべきということになります。

投稿: ひとこと | 2012年7月26日 (木) 06時20分

民主主義のもとでは正当な選挙で選ばれた国会議員たちが多数決によって決めた政策については「引き受ける」のが原理原則だと思います。それはもともと一つのフィクション(観念論)だと言ってもいいものだと思います。

無数の課題とそれに対する政策が存在する現代の政治においては、それらを一人一人の国民が逐一把握することは現実問題として不可能です。本来マスコミが国の政策と国民を媒介する重要な役割を担っているはずですが、それも様々な形で変容を受けます。国民一人一人の意見や考え方が完全に政治的決定の中に反映されるなどということはあり得ません。

しかしそのような中でも現実の選択は待ってくれません。課題に対して応答しなければ何一つ前進しません。その結果が良いか悪いかは別の問題です。
民主主義ないし民主的な選択はその現実の中で一応の形(選挙における投票)を与えて政治を前進させるための一つの仕掛けであり、その意味でフィクションと言うこともできます。

国や組織の側がこのような民主的な決定に責任転嫁することは許されないでしょうが、選択の機会がある以上、ただ「そんなことは知らない、聞いたこともない」というのは、上記のような前提と自己の選挙における投票を無視するものだという点で、やはり一つの欺瞞であろうと思います。

投稿: y | 2012年7月26日 (木) 11時14分

昨日の私のコメント後のご意見を踏まえていくつかコメントしたく思います。まず国家政策の失敗にあたり「国民」の「故意過失」という括りは適当と思いません。この政策の失敗を踏まえてこれを転換ないし修正すべきか否かは過去の行為を特定して債務不履行や不法行為の賠償責任を問う話とは違います。それに責任が政治的責任であれば国民は主体ではなく名宛人です。次に「世論調査」は政策決定の判断材料にはなってもそれ以上のものではありません。調査の仕方もありますが民意は往々にして変化し続けるものです。これで国民の故意過失を問う決定打とし場合によって君主主権に戻してしまうかのような論には違和感を感じます。

投稿: あさぎり | 2012年7月26日 (木) 23時10分

続きになります。「代表民主政」のコメントを拝見しましたが「教科書的」にはその通りです。ただ、その論法は政策失敗の際に「国や組織の側の責任転嫁の言い訳」に使われてしまいます。ともすれば原発や法科大学院のような綻びが見えた政策の是非を論じるにあたり「国会で法案が通ったのだから国民が決めたのだ」「お前にも責任がある」となり政策決定にあたり想定が正しかったかや不都合な部分も踏まえたかといった点の議論が止まってしまいます。個人的にはネットの発達もあり国民は国を左右することには具体的な議論を尽くすことを望んでおり、それはこの国に足りなかったことと感じています。代表民主政の議論から「引き受けろ」とストレートに言われてもやはり抵抗感は残ってしまいます。

投稿: あさぎり | 2012年7月26日 (木) 23時40分

あさぎりさん

もちろん個々の政策の内容、手続その他の是非について批判をすることはもっともっと必要だと思います。ここでの問題はどのようなスタンスでモノを言うか、ということではないでしょうか。

私が今回のエントリを拝読して思ったのは、国や組織の決定を批判するとしても、「国民や構成員として選挙に参加した以上それは自分が選んだ人間がやったことになるのであって、自分とは何の関係もない人間が外から突然やってきて何かをしでかしたのではない」ということを前提にする必要があるのではないか、ということです(ただそれだけの話とも言えますが)。そうでなければ、国民(構成員)と政府(組織)が水掛け論的に互いに責任をなすりつけ合うというどうしようもない状態になってしまいかねません。
これはいわば民主主義における国民・構成員側の倫理的な問題と言うこともできる(小林先生の意図はわかりません。私の解釈です)ので、国や組織がその責任に対して何をすべきか、またそれに対してさらにどのような批判が可能か、ということとは分けて考えるほうがよいと思います。

教科書的な抽象論に終始しても大した意味がないとお感じになるのはわかります。ただ倫理に関わるならばそこに触れる必要があると思います。

投稿: y | 2012年7月27日 (金) 10時58分

 国家の失敗を国民が引き受けないのであれば、それはもはや国家といえないのではないかと思います。
 あさぎりさんが仰るように、このことを「国や組織の側の責任転嫁の言い訳」に使うのは言語道断ですが、国民が受け入られないのであれば国民は引き受けなくても良いとの結論は暴論と言わざるを得ません。引き受けた上でその後のことを考えるべきでしょう。

 およそ国民は受け入れたくないものは受け入れません。「受け入れて引き受けざるを得ないものであれば従容として受け入れる」なんて理性的な判断は国民の大半にはできません。
 増税、福祉の切下げ、仮に必要があったとしても「嫌なものは嫌」でおしまいです。ネットでの議論なんて感情論のぶつけ合いですから「議論」にすらなりません。
 
 日弁連も同じだと思います。過去に日弁連が行った政策決定を前提として、今後どのような方針で進めばよいかを前向きに考えることの方が重要だと思います。

投稿: 大阪の弁護士 | 2012年7月27日 (金) 11時47分

いくつかの新たなコメントを拝見させて頂きました。これを踏まえ私からいくつかコメントしたく思います。まず、ある政策につきその決定は「自分たちの選んだ人間がやったこと」であることを「踏まえ」て議論すべきというのは「代表民主政」というシステムでは「当然」です。ただ私が抵抗を感じるのはその教科書的な当然のことをあえて持ち出し国民は「引き受けろ」という言葉を使うことです。「踏まえ」るということと「引き受け」るでは聞く人の受けとめ方が変わります。この政策は「国民が引き受け」たのだからその失敗は「国民も同罪」だという意味に取れます。ある人は感情が先行し別の人はある種の責任を感じ発言を抑止されてしまいます。また、繰り返しですが政策の綻びが見えたとき急に代表民主政を持ち出すのは「言い訳」に使われてしまうのです。

投稿: あさぎり | 2012年7月27日 (金) 22時46分

続きになります。次に対話が「議論」になるか「責任のなすりあい」になるか「感情のぶつけ合い」になるかは詰まる所は議論する者の「成熟度」になると感じています。現にこの場での対話もネットでなければ生じていません。個人的な感覚ですが今でもなお自らの立場や役職から「発言したい」と思っても「黙ってしまう」人がかなり多いのではないでしょうか。私は重要なのは観念論で「国家の失敗を国民が引き受けろ」とことさらに強調するのではなくそう言われることで「黙ってしまう」人たちの意見を引き出すことと思っています。私が発した「抵抗感」というのは代表民主政を否定することではありません。「国家の失敗を国民が引き受ける」という表現をことさらに強調するのは「議論」しようとする人に対してともすれば心理的な抑止につながってしまうことになると考えたからです。

投稿: あさぎり | 2012年7月27日 (金) 23時23分

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