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2012年7月25日 (水)

エネルギーへの渇望は人類の原罪か

養老孟司氏が、エネルギー問題に関して、や対談、講演等で、斬新なご意見を述べている。私が見たのはロータリーの』7月号の講演録だが、その要旨はこうだ。

(要旨ここから)3.11以後、われわれはエネルギー問題に直面したが、そもそも20世紀はエネルギーの世紀だった。エネルギー革命は、生活を豊かにしたが、戦争の原因にもなった。日本では今、一人が一日につくり出すエネルギーの40倍の外部エネルギーを消費しているといわれている。江戸時代は2倍だった。

では、エネルギーを消費しない社会は悪い社会なのか。外部エネルギーを40倍も消費する社会では、人のエネルギーを無視できる。逆に、外部エネルギーを消費しない社会では、人の価値が上がるということだ。消費できるエネルギーが減り、人の労働に頼る割合が増えた社会では、人生の意義も増すだろう。

消費エネルギー量を下げることは、今の若い人には悲劇に映るだろう。だが、(戦後の飢餓を経験し)消費エネルギー量の非常に低い時代を生きた私には、悲劇とも思われない。そのことを若い人に伝えてあげたい。(要旨ここまで)

どう思われるだろうか。

「外部エネルギーを消費しない社会では、人の価値が上がる」という視点は、とても新鮮だ。だが、私の肌感覚では、氏の主張は受け入れられない。受け入れてはいけない気がする。なんとなく、本当に「なんとなく」なのだが、偽善というか、詭弁というか、胡散臭いと思う。

2001物語』(星野之宣)というSFコミック第1巻に『悪魔の星』という話がある。近未来、太陽系外縁に発見された反物質星「魔王星」をめぐる話だ。ローマ法王庁の科学顧問として調査に派遣されたラモン神父は、「魔王星」の持つ無尽蔵のエネルギーと、その発する禍々しい放射能との板挟みになり、人類の取るべき道を求め苦悩する。そして最後に、魔王星を封印しようとする法王庁に逆らい、反物質エネルギーと共存する途を選んで言う。「それが、人間の原罪なんだよ」と。

私には、ラモン神父の選択の方が、心に落ちる気がする。プロメテウスから火を与えられたときから、より強いエネルギーを求めることは、人類のDNAに深く刻印された本質的な要求なのだと思う。たとえそれが、どんなに危険であろうとも。

もちろん、養老孟司氏の主張は、エネルギー至上主義に対する警鐘として、大いに拝聴に値するし、原発政策が従前の通りで良いとは思われない。だが、消費エネルギーを失っていくことを是ととらえることは、やはりできない。養老氏の主張は、下品な言い方を許していただければ、老人の身勝手に聞こえてしまうのだ。彼らがまずなすべきことは、若人のエネルギー的困窮を慰めることではなく、自分たちのしてきた贅沢を反省することではないのか。

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コメント

この文脈で「人の価値が上がる」とは、「人の商品価値が上がる」という意味にほかなりませんが、値段をつけるのは多くの場合本人ではないでしょうから、小林先生が胡散臭いと思われたのは当然です。

投稿: | 2012年8月12日 (日) 00時37分

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