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2012年7月27日 (金)

デモと暴動と広場について

首相官邸前では、毎週金曜日数万人規模のデモが行われているという。

だが、首相官邸前の道路は、車道こそ片側二車線の立派なものだが、歩道は狭いし、溜池からの急な坂道だ。しかも塀が高くて、官邸が見えない。見えない相手に対して、声を嗄らす参加者は、どういう気持ちなのだろう。

近代以降の日本で大規模デモが暴動に発展した最初の例は、1905年(明治38年)の日比谷焼討事件だ。その舞台となった日比谷公園は、噴水広場以外は巨木が鬱蒼と茂っており、今見ても、数万人規模の集会が可能だったとは思われない。しかし、開園は事件の3年前の1902年(明治35年)だから、当時は灌木も植えたばかりで低く、多人数の集結が可能だったと思われる。

ちなみに、この当時、国会議事堂は現在経産省の建つ場所にあり、日比谷公園の真正面だった。つまり、日比谷公園で行われた集会は、国会に向けられたものだったことがわかる。当時の首相官邸(桂太郎首相)はおそらく永田町1丁目にあり、日比谷公園からは遠い。

1952年(昭和27年)51日、日比谷公園から出発したデモ隊が皇居前広場で警官隊と大規模な衝突事件を起こした(血のメーデー事件)。このデモないし暴動が、GHQによる占領終了直後の皇居前広場、つまり、GHQの旧司令部があった第一生命ビルと皇居の中間地点で起きたことは、とても象徴的だと思う。

その後最大のデモと言えば、1960年の安保闘争だ。1960年(昭和35年)618日には、33万人(主催者発表)が国会議事堂を取り囲んだ。

当時の写真を見ると、興味深いことに、道路や国会議事堂の敷地のレイアウトが、現在と全然違う。当時の国会議事堂の敷地は、正面に向け三角形にとがっており、その両側を流れる道路と十字に交差する二本の道路が国会議事堂に向かっていたことが分かる。つまり、大きな×印の一画をなす三角地帯が国会議事堂の敷地だった。これなら包囲も楽だろうし、防衛するには敷地内に籠城するしかない。ちなみに、丸ノ内線の国会議事同駅周辺の路線図を見ると、かつての道路がどこを通っていたか分かる。

これに対して、現在の国会議事堂の敷地は四角形であり、正面からアクセスする道路は1本しかない。その両脇は巨木のつくる緑地帯だ。つまり、現在の国会議事堂はT字路の突き当たりにあり、横棒と縦棒の間に挟まれた三角地帯が緑地帯となっている。そのため、この両緑地帯に機動隊を配置し、議事堂敷地内部の別働隊と連携すれば、国会議事堂の正面を容易に守れる。このレイアウト変更は、議事堂の「防衛」を目的にしたものとみて間違いない。

さて、今回のデモに参加する人びとは、日比谷公園はもちろん、国会議事堂前でもなく、首相官邸前を選んだ。道が狭く、訴えの対象である官邸が見えないという悪条件にもかかわらず、この場所を選んだのはなぜなのだろう。今回のデモを、こういう視点から見てみるのも、面白い。

また、歴史上、日本のデモは国会と首相官邸前で行われたことはあるが、最高裁判所前では行われていないことが分かる。デモの歴史を場所の観点から見ると、どこに政治権力があったのか、如実に分かる、ともいえる。

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