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2012年8月20日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(4)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

大津事件(3

大津事件において、児島惟謙大審院長が戦った相手は、大国ロシアによる非難を恐れるあまり、法を曲げて適用しようとした明治政府の軟弱な外交姿勢であり、護ろうとしたものは、立憲主義だった。立憲主義とは、「国王といえども神と法の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺に象徴される体制であり、当時の西欧における最先端の政治思想だった。すなわち、児島惟謙にとって最も重要なことは、日本が西欧列強と同様の立憲主義国家であると内外に示すことであり、司法権や裁判官の独立や、ましてや被告人の人権など、二の次三の次であった。

立憲主義は、論理的には司法権の独立を帰結するし、人権尊重主義と密接な関係にあるけれども、児島の目的は、司法権独立の厳守にはなく、被告人の人権尊重にもなかった。だから、立憲主義国であることを内外に示すという至高の目的のためには、個々の裁判官に対する干渉という違法行為は取るに足らぬことだったのである。「大津事件」と聞くと、誰しも最初に「司法権の独立」を想起するが、それは、児島にとって最も重要なものではなかった。「司法権の独立」は立憲主義を守るための手段に過ぎなかったのである。

児島は、当時の日本が立憲主義国家であることを内外に(とりわけ西欧列強に)示すことが、最も国益に適うと確信して行動した。ロシアから武力行使の威嚇を受けるリスクや、個々の裁判官に対する干渉が裁判所構成法違反になることを考慮してもなお、日本は立憲主義国であることを示すべきだと考えた。その意味において、これは政治的行動であり、政府内では退けられた立場(津田三蔵の処遇については政府内でも意見が割れ、最終的に天皇の裁可を仰いだという事実は、政府内にも、『皇室に対する罪』の適用を不当とする勢力があったことを示している)を明確に支持したという点においても、やはり政治的であった。

しかし重要な点は、児島大審院長の行動が、司法府の長という立場でありながら政治的であったとの点をもって、非難する見解は、知る限り皆無ということである。児島の行動は、「多少の問題はあるにせよ、全体としては正しかった」という点において、すべての評価は一致しているように思われる。その意味するところは、司法府も、ある条件なり目的なりの下では、政治的に行動することが許され、あるいは期待されている、ということである。そして、このような司法の役割論は、明治憲法施行後間もなき時点ですでに見られ、戦前・戦後を通じ、わが国において共有されてきた。

「司法権の独立」それ自体が司法の目的なのではなく、より大きな正義のための手段であるとの視点は、例えば内藤頼博らの行動を理解するうえでも、必要なものと思われる。

児島惟謙は、明治41年(1908年)に72歳で死亡した。この年は、内藤頼博誕生の年でもある。

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