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2012年8月27日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(5)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

青年内藤頼博と米国視察と太平洋戦争(1)

内藤頼博は明治41年(1908年)312日、東京市四谷区内藤町(現在の東京都新宿区内藤町)に生まれた。前述の通り、内藤頼博は新宿高遠藩内藤家第16代当主であり、内藤町は内藤家の氏を冠した町名である。祖父内藤頼直は最後の藩主であり、戊辰戦争で官軍につき、版籍奉還後高遠藩知事となり、廃藩置県(明治4年)により免官された。父内藤頼輔は生涯職業を持たず、「高等遊民」として生涯を送ったようである。廃藩置県で政治権力を失ったとは言え、内藤町一帯のほか、高遠市内、鎌倉などに不動産を所有していた内藤家藩主にとっては、口に糊するための職業という発想はなかったのかもしれない。

しかし、内藤頼博は、学習院を経て東京帝国大学法学部に入学し、裁判官を志す。この間、大正3年(1914年)には第一次世界大戦、大正6年(1917年)にはロシア革命が勃発し、日本が急速な経済成長を遂げ、大正14年(1925年)には男子の普通選挙が実現する中、大正デモクラシーと共産主義思想の洗礼を浴びる少年時代を送ったと思われる。

大学在学中の昭和5年(1930年)に高等文官試験司法科(今の司法試験)に合格し、翌年判事に任官。内藤頼博がなぜ判事を志したかを語る資料はない。後述するとおり、内藤頼博は、傑出した学力の持主であり、官僚や政治家を目指す能力に欠けるところはなかったはずだが、それでも政治権力を直接行使する途を選ばなかったのは、その出自が関係しているのかもしれないし、「高等遊民」として一生を送った父頼輔の影響かもしれない。いずれにせよ、内藤頼博は、判決を書いて事件を処理するだけの平凡な裁判官では終わらなかったし、そのつもりもなかったようである。

下の写真は、昭和11年ころの内藤頼博である。鼻の高い美丈夫だ。この容貌で、身長は170センチ、東大出の「殿様」と来れば、女性が放っておく筈もなく、裁判官時代の内藤頼博は相当モテた、という話もある。但し、酒は飲めなかったそうだ。

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