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2012年8月29日 (水)

竹生島問題、韓国軍と強制執行部隊にらみ合い

2024815日、国際司法裁判所の強制執行部隊が、竹生島(滋賀県)を包囲して一週間が過ぎた。島に駐留する韓国軍は籠城を続けており、一触即発の状態が続いている。

冷戦終結後、国境紛争が頻発したことを受け、国際連合は国際司法裁判所に強制執行権限を付与するとともに、国境紛争訴訟法を整備。以前は、両当事国が合意しなければ、国際司法裁判所が国境紛争に関わることはなかったが、2020年から、国連加盟国同士の国境紛争は、一方当事国の訴えによる裁判が可能になった。わが国でも、日弁連は「法の支配を世界の隅々に」と訴え、国際法の制定に全面協力を行った。

何といっても、国際司法裁判所の判決に強制執行力が付与されたことが大きい。当事国を除く国連加盟国軍によって編成される強制執行部隊が、敗訴国の意思にかかわらず、強制的に明け渡しを行う。強制執行部隊は軽武装しかしていないが、敗訴国が発砲でもしようものなら、直ちに国連軍が投入されるとあっては、抵抗できる国は少ない。

琵琶湖に浮かぶ竹生島は、韓国が1954年から実効支配しているが、日本政府は2021年、領有権を主張して提訴。国際司法裁判所は20246月、明らかに日本の領土であるとして、韓国に対して明け渡しを命じた。韓国政府は猛反発しているが、日本政府は「明け渡しは時間の問題」と静観し、強制執行部隊を鮒寿司で歓待している。

竹生島裁判では全面勝訴を勝ち取った日本だが、喜んでばかりもいられない。「北海四島裁判」では、ほぼ完敗したからだ。この敗訴が、時の政府を総辞職させ、政権交代をもたらしたことは、記憶に新しい。裁判をサポートした「最強弁護士チーム」は、国内右翼の襲撃を恐れ、いまだ帰国できずにいる。

現政権にとって頭痛の種は、「三角諸島裁判」の判決が、今年中にも出される見通しであること。表向き「勝訴確実」と強気だが、「実際は五分五分」(与党幹部)という。三角諸島は1895年以降、日本が実効支配しているが、「万一敗訴したら、国際法に従って粛々と明け渡すしかない」(同幹部)という。

このような政府の態度を「腑抜け」と叱りつけるのが、もと東京都知事の石原進次郎氏(92歳)。三角諸島を死守するとして、島内の別荘に立て籠もる日々が続く。もっとも、ここ三日ほど電話に出ないため、安否を心配する声も出ている。

日弁連評論家の小林正啓弁護士「裁判なんだから、勝つことだってあれば、負けることだってありますよ。それが法の支配です」

 

注:このエントリは全部フィクションです。実在の国家、個人や団体と一切関係ありません。

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2012年8月27日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(5)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

青年内藤頼博と米国視察と太平洋戦争(1)

内藤頼博は明治41年(1908年)312日、東京市四谷区内藤町(現在の東京都新宿区内藤町)に生まれた。前述の通り、内藤頼博は新宿高遠藩内藤家第16代当主であり、内藤町は内藤家の氏を冠した町名である。祖父内藤頼直は最後の藩主であり、戊辰戦争で官軍につき、版籍奉還後高遠藩知事となり、廃藩置県(明治4年)により免官された。父内藤頼輔は生涯職業を持たず、「高等遊民」として生涯を送ったようである。廃藩置県で政治権力を失ったとは言え、内藤町一帯のほか、高遠市内、鎌倉などに不動産を所有していた内藤家藩主にとっては、口に糊するための職業という発想はなかったのかもしれない。

しかし、内藤頼博は、学習院を経て東京帝国大学法学部に入学し、裁判官を志す。この間、大正3年(1914年)には第一次世界大戦、大正6年(1917年)にはロシア革命が勃発し、日本が急速な経済成長を遂げ、大正14年(1925年)には男子の普通選挙が実現する中、大正デモクラシーと共産主義思想の洗礼を浴びる少年時代を送ったと思われる。

大学在学中の昭和5年(1930年)に高等文官試験司法科(今の司法試験)に合格し、翌年判事に任官。内藤頼博がなぜ判事を志したかを語る資料はない。後述するとおり、内藤頼博は、傑出した学力の持主であり、官僚や政治家を目指す能力に欠けるところはなかったはずだが、それでも政治権力を直接行使する途を選ばなかったのは、その出自が関係しているのかもしれないし、「高等遊民」として一生を送った父頼輔の影響かもしれない。いずれにせよ、内藤頼博は、判決を書いて事件を処理するだけの平凡な裁判官では終わらなかったし、そのつもりもなかったようである。

下の写真は、昭和11年ころの内藤頼博である。鼻の高い美丈夫だ。この容貌で、身長は170センチ、東大出の「殿様」と来れば、女性が放っておく筈もなく、裁判官時代の内藤頼博は相当モテた、という話もある。但し、酒は飲めなかったそうだ。

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2012年8月24日 (金)

専門職大学院と法科大学院とフランス並みの論理

8月23日の日本経済新聞朝刊1面「大学開国」は、「グローバル社会に対応した高度専門人材を養成しようと設立された専門職大学院が苦境に立たされている」と報じた。「実務と理論の融合」が看板倒れになっており、学者が自分の学説を一方的に講義するだけ。人材育成機関の体をなしていないと手厳しく批判している。

だが、この批判はピントがずれていると思う。大学はもともと、高度専門人材を養成しようなどと思っていなかったのだから。大学数が過剰気味だったところへ持ってきて、急速に進む少子化と長引く不況は、進学者数の減少となってあらわれ、大学経営を直撃した。そこで、少ない入学者数を長く教育することによって、学費収入と補助金を維持し、高齢化する教員の職場を確保する必要が発生した。これが専門職大学院設置の動機である。

動機が不純なら、専門職大学院制度などなくしてしまえばよい、という意見もあろうが、そうは行かない。専門職大学院制度が無くなり、大学を4年で卒業した若者が社会に出たら、国家が困るからだ。破綻しかけている年金と社会保証制度を維持するには、高齢者が年金に頼らず生活できる社会、つまりは高齢者に仕事のある社会を維持する必要がある。しかし国内産業は急速に空洞化しており、働き口は減る一方。その中で、高齢者の働き口を確保するためには、若者の社会人化を遅らせる必要があるのだ。また、学生は親の仕送りで生活するし、貯金せず使うから、地域経済の活性化に貢献する。かくして専門職大学院制度は、少子高齢化問題と過疎解決の切り札として位置づけられたのである。そのためには、学生を長く大学に置き、仕送りをどんどん使って貰えばよい。専門技能を身につけさせたり、実務と理論を融合する必要など、どこにもない。老教授の天下り先として機能すれば十分なのだ。

ところで、専門職大学院制度の嚆矢となったのは、法科大学院制度である。法科大学院制度は、司法試験合格者数を年1000人にするのか、1500人にするのかという、法曹三者に経済界を交えたせめぎ合いの中、浮上した構想だった。しかし、この程度の人数では、従前の法曹養成制度に替えて、法科大学院制度を創設する必要性に乏しい。「法曹人口拡大の規模が小さければ、法科大学院を新設するよりも現行制度を改良する方が費用対効果という観点から優れているという議論が成り立ち、法科大学院設立への根拠とはなりにくい」からである(石井美和法曹養成をめぐる制度と政策法曹三者の力学を中心として)。そこで、法科大学院構想を現実化するためには、法曹人口増員の程度を、飛躍的に高める必要があった。だから、司法試験合格者数年3000人の決定により、司法研修所の容量を明らかに超え、これに代わる法曹養成制度が必要となり、法科大学院構想が「一挙に具体化することとなった」のだ。

では、この3000人を導き出した理屈は何か。それは「フランス並み」という基準であった。なぜフランスかと言えば、先進国の中で、弁護士の人口比が最も少なかったからである。すなわち、先進国の最低レベルをクリアーすべし、という論理であった。日本人に染みついた劣等感を直接刺激する論理によって、他のすべての議論は捨象され、「3000人」が一人歩きをしていくことになる。

日弁連の山岸会長はなぜ日本の法曹界がフランス並みの法曹人口にならなければいけないのか問われそれは、はっきりしないと答えている。本当は分かっていて、とぼけているのだろうが、日弁連会長の立場としては、悪質な責任放棄ともいえる。

一方で、法科大学院は失敗したのだから廃止すればよい、と無邪気に主張する弁護士も多いが、無知にして無責任な議論との誹りを免れないだろう。まずは、法科大学院問題は、それ自身にとどまらないことを認識していただく必要がある。法科大学院制度の創設は、わが国家の構造変化と密接に結びついた歴史的な事象であり、その改変は、大学制度全体に対する大打撃となるから、おいそれとは廃止などできないのだ。

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2012年8月22日 (水)

士族の商法

「ご隠居さん、暑いですね」

「おや、熊さんか。まあお上がり。冷たい麦茶でも飲みなよ。何か面白い話でも見つけたのかい」

「実は、面白いものを見てね。是非ご隠居さんに言わなきゃなんねえ、と思って」

「ほう、何だね?」

「うちの長屋の西の端と東の端に、弁護士事務所がありますな」

「ああ、西弁護士と、東弁護士だな。どちらも弁護士さんは一人じゃったな」

「その西弁護士事務所の前に、大きな看板が出てたんでさ。『離婚専門』って」

「ほう?熊さんは前に、西先生にお世話になったことがあったな」

「そうなんですよ。恥ずかしい話ですが、親の相続でちょっとモメましてね。でも、『離婚専門』と聞いてちょっとがっかりですよ。相続は専門じゃなかったのかなって」

「東弁護士の方はどうなんだね」

「俺もそう思って、見に行ったんですよ。そしたら驚いたのなんのって。こっちも大きな看板が出てましてね、『離婚専門、相続専門、交通事故専門、特許専門、債権回収専門、倒産専門、労働問題専門、医療過誤専門』その他もろもろ、専門ばっかりなんで」

「それで分かった。日弁連専門弁護士制度がはじまったのだよ。日弁連が認めれば、専門分野の看板を掲げてもよいことになったんだ。医者にも内科とか、皮膚科とかあるじゃろう。弁護士も同じように、専門弁護士の表示が認められるようになったようだな」

「でも、内科といえば、外科はやらないでしょう?『離婚専門』ということは、ほかはやらない、やれない、ということなんですかね?」

「そうでもなかろう。特殊な知識や経験が必要な分野もあるだろうが、弁護士の仕事の大半は、これができるが他はできない、というものではないのだ。西弁護士も、『離婚専門』という看板を掲げたからといって、相続事件ができないということはあるまい」

「でもやっぱし、『離婚専門』と看板が出ていたら、相続や交通事故で相談してはダメじゃないかって思いますよね」

「そうだな。東弁護士が、たくさんの専門分野を掲げたのは、そのあたりを気にしたからかもしれんな」

「ですがね、あんなにたくさん専門、専門と書かれると、実はどれも大したものじゃない、って気がしてきませんかね。ほら、いうじゃないですか。『多勢に無勢』って」

「それを言うなら『多芸は無芸』じゃな。だが熊さんの言うことにも一理ある。同じ『離婚専門』とあるなら、東弁護士より西弁護士の方が、腕利きのように見えるな」

「するってーと、こういうことですかい?たくさんの専門分野を掲げると、『多芸は無芸』と思われるし、一つの専門分野に絞ると、他の分野のお客さんが来てくれないと。なんだ。日弁連も中途半端なことをやりますなあ。頭のいい弁護士が集まって、なんでそんな中途半端なことしかできないんですかね?」

「その理由は、こんな日弁連に誰がしたという本に詳しく書いてあるから読んでみるとよろしい。それはさておき、日弁連としては、おおかた医師会の真似をしたつもりだろうが、医者の場合、内科にしろ皮膚科にしろ、専門分野一つで食っていけるじゃろう。だが弁護士の場合、離婚事件を多く手がける弁護士ですら、それだけでは食っていけないのが実情じゃ。難しくいうと、市場規模が全然違うのだな」

「たしかに、西弁護士も東弁護士も、儲かっているようには見えませんね。この間、庭先から覗いてみたら、傘貼りの内職をしてましたよ」

「弁護士と言えば、昔は儲かる商売だったようだが、落ちぶれたのう。食うに困っていろいろ考えているようだが、所詮、医者の真似をする程度では、成功はおぼつかないな」

「ご隠居さん、そういうの、なんて言うか知ってますぜ」

「なんだい?」

「士族の商法」

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2012年8月20日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(4)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

大津事件(3

大津事件において、児島惟謙大審院長が戦った相手は、大国ロシアによる非難を恐れるあまり、法を曲げて適用しようとした明治政府の軟弱な外交姿勢であり、護ろうとしたものは、立憲主義だった。立憲主義とは、「国王といえども神と法の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺に象徴される体制であり、当時の西欧における最先端の政治思想だった。すなわち、児島惟謙にとって最も重要なことは、日本が西欧列強と同様の立憲主義国家であると内外に示すことであり、司法権や裁判官の独立や、ましてや被告人の人権など、二の次三の次であった。

立憲主義は、論理的には司法権の独立を帰結するし、人権尊重主義と密接な関係にあるけれども、児島の目的は、司法権独立の厳守にはなく、被告人の人権尊重にもなかった。だから、立憲主義国であることを内外に示すという至高の目的のためには、個々の裁判官に対する干渉という違法行為は取るに足らぬことだったのである。「大津事件」と聞くと、誰しも最初に「司法権の独立」を想起するが、それは、児島にとって最も重要なものではなかった。「司法権の独立」は立憲主義を守るための手段に過ぎなかったのである。

児島は、当時の日本が立憲主義国家であることを内外に(とりわけ西欧列強に)示すことが、最も国益に適うと確信して行動した。ロシアから武力行使の威嚇を受けるリスクや、個々の裁判官に対する干渉が裁判所構成法違反になることを考慮してもなお、日本は立憲主義国であることを示すべきだと考えた。その意味において、これは政治的行動であり、政府内では退けられた立場(津田三蔵の処遇については政府内でも意見が割れ、最終的に天皇の裁可を仰いだという事実は、政府内にも、『皇室に対する罪』の適用を不当とする勢力があったことを示している)を明確に支持したという点においても、やはり政治的であった。

しかし重要な点は、児島大審院長の行動が、司法府の長という立場でありながら政治的であったとの点をもって、非難する見解は、知る限り皆無ということである。児島の行動は、「多少の問題はあるにせよ、全体としては正しかった」という点において、すべての評価は一致しているように思われる。その意味するところは、司法府も、ある条件なり目的なりの下では、政治的に行動することが許され、あるいは期待されている、ということである。そして、このような司法の役割論は、明治憲法施行後間もなき時点ですでに見られ、戦前・戦後を通じ、わが国において共有されてきた。

「司法権の独立」それ自体が司法の目的なのではなく、より大きな正義のための手段であるとの視点は、例えば内藤頼博らの行動を理解するうえでも、必要なものと思われる。

児島惟謙は、明治41年(1908年)に72歳で死亡した。この年は、内藤頼博誕生の年でもある。

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2012年8月10日 (金)

ニュースを読む視点(5)

8月5日の時事通信は、「政府は5日、司法試験合格者数の目標を現行の年間3000人から2000人に引き下げる方針を固めた」と報じた。「弁護士の過剰が問題」となったためで、今後は「法相を中心とする関係閣僚会議と下部組織の有識者会議を設置」して、「法科大学院の統廃合の是非についても協議」するという。

年間3000人の政府目標は閣議決定だから、これを覆すには再度の閣議決定が必要だ。したがって、「政府は…方針を固めた」と報じたところで、決まったわけではない[i]。だが、時事通信は昨年84日、第4回法曹養成フォーラム開催直後の午後1229分に、給費制打ち切り決定を報じた実績がある。時事通信は、法務省幹部と強いパイプを持っている、と考えられるから、この報道の確度は高いと思う。

ところで、この記事は表向き、「政府」を主語にしているが、実質的な主語は「法務省」である。「法相を中心とする関係閣僚会議」という書きぶりや、「法科大学院の統廃合」を協議するのに、監督官庁である文科省の「も」の字すら出てこないことからも、法務省発の記事であることは明白だ。

つまり、この報道には、法務省の意思が強く反映されている。

そこで中身を見ると、「司法試験合格者数の目標を年2000人に引き下げる」理由は、「弁護士の過剰が問題」となったためだという。だが、司法試験の合格者数はすでに、ここ数年2000人前後であり、この数が、深刻な就職難を初めとする過剰問題を引き起こしている。したがって、目標値を2000人に引き下げたからと言って、「弁護士の過剰問題」が緩和される筈がない。

次に、「法相を中心とする関係閣僚会議」と下部組織とで「法科大学院の統廃合の是非」を協議するという。「是非」とあるのは、文科相の顔を立てたにすぎず、方向性は「是」しかない。統廃合の目的は、法科大学院生数(=受験資格者数)を減らすことによって、司法試験の合格率を上げることにある。

だがこの作戦には、致命的な欠点が二つもある。一つは、既に1万人以上存在する法科大学院卒業生、すなわち滞留受験資格者がいるために、法科大学院生数を減らしても、直ちには合格率上昇の効果が得られない点だ。もう一つは、法科大学院の統廃合、すなわち下位校の退場によって上がる合格率は、見かけ上の合格率に過ぎない、という点だ。すなわち、およそ合格可能性のない受験生が退場するだけであって、一定以上の実力者にとって、環境は何ら改善しないのである(『こん日』231頁)。彼らにとって重要なのは、全体の合格率ではない。所属校の合格率なのだ。所属校の合格率、特に、上位校の合格率が格段に上昇しない限り、司法試験界から人材は流出し続けるだろう。

司法試験合格者数2000人では弁護士過剰問題は解決しないことと、法科大学院の統廃合を進めても見かけ上の合格率が上がりうるに過ぎないこととは、法務官僚も当然分かっていることだ。それでも、法務官僚が時事通信の記者を通じ、冒頭の報道をさせる趣旨は、「われわれも努力していますよ」というアピールでしかない。この度の報道は、「現時点では打つ手はない、だが、将来のため、法曹養成問題の主導権は確保しておきたい」という法務省の意思のあらわれと読むべきだと思う。


[i] 87日の法務大臣記者会見では、次の問答がなされている。

法曹養成制度に関する質疑について

【記者】

 法曹養成の問題に関係して,一部報道では司法試験合格者の数について,政府の方で2000人を目標にするという案を示し,法務省の方も今度の法曹養成の新組織では2000人とする案を提示するとありましたが,その点の事実関係はいかがでしょうか。

【大臣】

 まだまだそういう具体的な数字を検討しているという段階ではありません。現状では,この2,3年が2000人台で行きつ戻りつしていることは事実として当然押さえておかなければいけませんけれども。

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2012年8月 6日 (月)

レアアース問題と法の支配

注;本エントリの記載に誤りがあるとご指摘を受けたので、訂正しました。訂正したのは、輸出貿易管理令別表16項(1)は大量破壊兵器キャッチオール規制ではなく、通常兵器キャッチオール規制である、という点です。ただ、この点を訂正しても、全体の文意には全く変更がないので、下記のとおり、加筆と抹消線で対応することとしました。ご指摘ありがとうございました。

TDKと昭和電工が中国企業と合弁して進めようとしていた高性能磁石生産計画が暗礁に乗り上げているという。その背景は、こうである。

エコカーのモーターに使われる高性能ネオジム磁石は、日立金属、TDK、信越化学の3社が世界シェアを独占しているが、その原料となるジスプロシウムというレアアースの大半は、中国で生産される。しかも、ネオジム磁石の基本特許は、20147月に期限切れを迎える。また、中国の輸出制限により、ジスプロシウムの価格高騰が続いている。

日本企業から見れば、ジスプロシウムの価格高騰と特許期限切れのダブルパンチによって、このままではネオジム磁石の国際競争力を失うことは必至。その足下を見た中国が、同国企業との合弁による現地生産を誘っている。つまり、中国進出企業にジスプロシウムを安く供給する代わり、製造技術を手に入れようというわけだ。日本企業は、将来的にはジスプロシウムに頼らない高性能磁石の開発を目指しつつも、短期的には、中国企業との合弁もやむなしと判断していた。

一方、日本企業の動きに神経をとがらせたのが経産省である。中国企業との合弁は中国の「思うつぼ」であるとして、中国進出を思いとどまるよう、上記メーカーを説得する(20111112日週間東洋経済)とともに、2012313日、欧米とともに中国をWTO提訴した。

しかし、「(WTOで)仮に主張が認められても中国が規制を解除するには時間がかかるとみられる」(325日日経)。一方日本の自動車メーカーは相次いで中国に進出し、エコカーの製造に着手している。待っていられないと判断した日本企業は、中国企業との合併に動いた。322日の日経朝刊は、「信越化学、中国にレアアース合金工場」と報じ、427日には、TDKと昭和電工が中国企業との合弁事業の検討に入ったと報じた。日立金属もこのころ、中国企業との合弁に動き出した。

だが、TDKらの行為は、ネオジム磁石生産技術の囲い込みを狙う経産省の逆鱗に触れた。経産省は、輸出貿易管理令の改正に着手し、7月13日閣議決定、19日の公布を経て、8月1日に施行した。改正点は、輸出貿易管理令の別表16に掲げる禁輸品(米国など一部の国と地域を除く)として、「焼結磁石」及び、その「製造用の装置又はその部分品」を加えたうえ、その仕様として、「輸出貿易管理令別表第一及び外国為替令別表の規定に基づき貨物又は技術を定める省令及び貿易関係貿易外取引等に関する省令の一部を改正する省令」によって、「残留磁束密度が800ミリテスラ以上のもの」と定めた。

要するに、ネオジム磁石、その製造装置及び部品の輸出を禁止し、経産省の許可がなければ中国に輸出できないようにしたのである。

初めから規制していたというならまだしも、これは明白な「後出しジャンケン」である。

その結果、ネオジム磁石の製造シェアを独占する日立金属、TDK、信越化学は、中国企業との合弁を断念し、「工場建設の無期限延期」を伝えることとなった。728日の日本経済新聞朝刊は、「自動車メーカーなどへの安定供給を優先する企業と、先端技術の中国流出を懸念する経産省との立場の違いが浮き彫りになった」と報じ、また、「(輸出)貿易管理令の改正に中国側は反発を強めている」として、日本企業から中国への磁石半製品等の輸出が事実上のストップをうけていると報じた。84日の日経社説は、経産省の対応を批判している。

さて、以上の経緯を法律的な観点から見ると、どうなるのだろう。

最も重要な視点は、本来自由であるべき日本企業の経済活動を、なぜ経産官僚の「後出しジャンケン」で禁止できるのか?という点だ。なるほど、中国企業との合弁を阻止することは、国益に合致するかもしれない。だが、純然たる私企業であるTDKらに、自らの利益を犠牲にしてまで国益に殉じる義務はない。そもそも、経産官僚の考えの方が国益に合致すると、誰が決めたのか。政令と省令の制定手続さえ適法ならいいのか。その政省令によって利益を奪われる国民に、異議を述べる機会が保障されなくて良いのか。

ところで、経産省による禁輸処置の根拠法は外為法である。この法律は、国際安全保障以外にわが国経済の健全な発展をも目的にしている(1条)から、同法に基づき、経済発展目的に基づく規制を加えることは可能だ。

だが、この法律は貿易の自由を前提とし、必要最小限の規制のみを許しているから、これに反する規制は違法となる。

ネオジム磁石に関する、輸出貿易管理令の改正は、同令別表第116項を改正する形で行われた。しかしここは本来、通常大量破壊兵器の開発製造等に用いられる製品や技術の輸出規制(キャッチオール規制)の根拠条項である。経産省は表向き、兵器転用のおそれを輸出貿易管理令改正の根拠に掲げているが、一般民生品をも規制する運用がなされていることは、これにより日本企業が中国企業との合弁を事実上断念した経緯からして明白であろう。

このような、建前と運用が分裂した法律は、建前の部分においては、必要最小限の規制であることを疑わせる。日経社説が指摘するとおり、高性能磁石と通常大量破壊兵器との関係が疑問だからだ。また、通常大量破壊兵器規制の建前でありながら、エコカー用磁石を規制する運用は、目的に反するとして違法とされる可能性が高い。

また、「残留磁束密度が800ミリテスラ以上の」ネオジム磁石を禁輸品とする以上、形式的には、該当磁石を使用する自動車の輸出も禁止されることになる。だが実際にはもちろん、このような運用はなされないだろう(中国側が、日本から輸入したプリウスをバラして磁石を取り出し、それを部品として通常大量破壊兵器を製造する「おそれ」は否定できないのに!)。そうだとするなら、なぜ中国企業との合弁だけが許されないのか、疑問である。

より大きな問題は、日本企業に、違法の疑いのある法運用を争う方法が存在しない、ということだ。経産省の説得を無視してまで、中国企業との合弁に踏み切った日本企業が、輸出貿易管理令が改正されるや、唯々諾々とこれにしたがうのは、争う方法が存在しないからだ。日本企業にとって、政府の命令(=政令)は絶対なのである。だが、この態度は、日本人の美徳かもしれないが、民主主義国国民の態度ではない。民主主義国家と言えるためには、法令の制定に国民が関与することのみならず、法令の適用に国民が異議を唱える権利が、実質的に保証されなければならないからである。

だが、外為法の適用に関して、日本企業が政府に楯突くことはない。かつて政府は、政省令のかなり無理な解釈を強弁して、ヤマハ発動機による中国向け無線操縦ヘリ輸出を摘発し、数人の社員を拘束した上、会社を起訴して罰金に処した。この時以来、日本の企業は、政府の決定がどんなに横暴であろうと、それに従う以外の選択肢を失ったのである。

この国は、われわれが思うほど、文明国ではないのである。

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2012年8月 1日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(3)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

大津事件(2

大津事件に関する論考は、戦前戦後を通じ、多数存在する。その全てに目を通すことはできないし、本稿の目的でもない。平成4年(1992年)、児島惟謙が創設者の一人に名を連ねる関西大学が刊行した『危機としての大津事件』(関西大学法学研究所)と、同大学山中敬一法学部教授著『論考 大津事件』が、事実関係や学説を網羅的にまとめている。その後に出版されたものとしては、被告人弁護の視点で故鎌倉利行弁護士(ご指摘により関係者にお詫びして訂正いたします)が著した『大津事件考』がある。興味のある人はそちらに当たってほしい。

ここでは、昭和47年(1972年)に刊行された田岡良一大阪経済法科大学教授(当時)の『大津事件の再評価』をご紹介しておきたい。というのは、田岡教授の思考過程を辿ることが、論点の理解に有益と考えられるからである。

その思考過程というのは、こうである。児島惟謙はなぜ当時の政府と戦ったのか。それは、「法の厳格適用」のためではないか。だがそれなら、堤裁判長ら個別の裁判官を説得した行為は、裁判所構成法143条の明白な違反だし、その他にも、法律上疑義のある児島の行為はいくつもある。何より児島は、故意で法律違反を犯しているから、「法の厳格適用」が守るべき最高の価値であったとは思われない。

では、罪刑法定主義に基づき旧刑法116条を限定的に解釈し、被告人の人権を守ることが目的だったのか。だが児島惟謙は、どうしても津田三蔵を死刑にしたければ緊急勅令を発すれば良いと政府に具申しており、この発言は明白に罪刑法定主義(法律不遡及の原則)に違反する。だから児島惟謙が被告人の人権を第一に考えていたとはいえない。

以上の考察を経て、田岡がたどり着いた児島の動機は、西欧特にロシアに対する軟弱外交に終始してきた政府が、大津事件という未曾有の国難に際して法を曲げて適用することによりロシア皇帝の歓心を買おうとしたことへの反発にあるという。児島が「わが民族の独立と興隆のため是非護らなければならぬ重大な価値と考えているものが、政府の便宜主義によって押し潰されようとするのを見て、身を挺してこの価値を救おうとしたこと、これが、児島の政府に対する抗争の真因であると私は確信する」と田岡教授は結ぶ[1]

このいささか感情的な結語に刺激されてか、山中敬一教授は「児島の思想に過度にナショナリスティックなものを見る観点は、そのナショナリズムが排外主義的なものを意味していると解する限り、疑問である」と批判している[2]。しかし、「児島の行動を支えた、根源的な思想的動因は、対内的・対外的な明治立憲国家と憲法秩序の維持にあった」[3]とする山中教授の結論と、田岡教授の見解に、実質的な差異は無いと思う。


[1] 『大津事件の再評価』283

[2] 『論考 大津事件』219

[3] 『論考 大津事件』219

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