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2012年9月 4日 (火)

司法試験抜本見直し問題の本質と「101回目のプロポーズ」

93日の読売新聞朝刊(杉浦まり記者)は、「司法試験抜本見直し」との記事を掲げた。法務省の「法曹養成制度検討会議」では、(司法試験合格者数年3000人の政府目標は)現実離れとの意見が強いとして、政府目標の下方修正が議論されるだろう、としている。

一方、829日の日本経済新聞(渋谷高弘記者)は、「法曹養成制度検討会議」の方向性として、質の悪い法科大学院の統廃合を促すとともに、司法試験合格者数年間2000人という現状維持か、それともさらに減らすかが焦点になる、としている。

両紙比べると、ニュアンスの違いが興味深い。読売は専ら人数論で、しかも「司法試験合格者数年3000人という政府目標を見直すかどうか」、具体的には2000人の現状を追認するかどうかを論点としているのに対して、日経は、2000人どころか、1500人もありうる、と書いている。また、読売新聞は法科大学院統廃合への言及はなく、日経は人数論より前に、法科大学院統廃合が言及されている。

他方、論調が共通しているところもある。「法科大学院の乱立により司法試験合格率が低下し、全体の合格率が23%にまで落ち込んでいる」のが根本問題としている点だ。この問題意識が正しいなら、法科大学院の定員削減、または合格者数の増加によって、全体の合格率を引き上げれば、問題は解決することになる。

だが、これは大間違いである。合格率が問題の本質ではないことは、少し考えれば分かることだ。

第一に、法科大学院の定数削減をしても、合格率は当分の間、上昇しない。何回も指摘していることだが、既に1万人以上発生している滞留受験生が受験資格を失って「捌ける」までの数年間は、合格率の上昇は微々たるものとなる。

第二に、司法試験志望者にとって大事なのは、「全体の合格率」ではなく、「自分の合格率」であり、これはすなわち「自分が所属する法科大学院の合格率」である。統廃合によって下位法科大学院が退場しても、合格可能性の初めから無い者が受験資格を失うだけのことだから、上位法科大学院の合格率は、ほとんど上昇しない。

第三に、法科大学院の統廃合は、国の思い通りには進まない。国はせいぜい補助金を打ち切れるだけで、独立採算を目指す下位法科大学院を潰すことはできない。また、「中の下」くらいのポジションにいる某宗教政党と関わりのある法科大学院を潰すような政策はとれない。法科大学院の統廃合は、結局のところ、自然淘汰に任せるしかない。

第四に、それならばと、合格率を上げるため司法試験合格者数を大幅に増やす選択肢は、法科大学院制度の自殺に直結する。年3000人を合格させたら、最低1000人は就職できない(=弁護士になれない)からだ。「法廷弁護士以外にも弁護士の活躍の場を求める」のは結構だが、その活躍の場なるものが、3年間の勉強期間と、500万円の学費(司法修習を入れるなら4年と800万円)に見合わない限り、弁護士を目指す人材が増えないことは、自明の理だからである。

1980年代後半、司法試験合格率は2%以下だった。合格率の低さが、志願者離れに繋がるなら、今よりよほど、司法試験を目指す人材は乏しかっただろう。だが、当時の受験生は25000人を超えていた(今は約9000人)。この一点だけでも、全体の合格率が問題の本質でないことは明白である。

1991年、視聴率37%を獲得した月9ドラマに、「101回目のプロポーズ」があった。トラックの前に立ちはだかり、「ボクは死にまっしぇん!」と叫んだ武田鉄矢は、女性の愛を勝ち取るため、会社員を辞め、命がけで司法試験に挑んだ。馬鹿馬鹿しいと言えばそれまでだが、当時の司法試験は、このような場面を成立させるだけの説得力を持っていた。

この説得力の失われてしまったことこそが、問題の本質である。記者諸氏には、もう少し、自分の頭で考えてほしいと申し上げたい。

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コメント

BLOGOSで拝読しました。

「当時の司法試験は、このような場面を成立させるだけの説得力を持っていた」がよくわからないのですが。要は、弁護士の供給過剰ということでしょうか?

投稿: 清高 | 2012年9月 4日 (火) 20時57分

コメントありがとうございます。「要は、弁護士の供給過剰と言うことでしょうか?」というお尋ねですが、そうではありません。あのドラマで武田鉄矢演じる主人公が司法試験を受験するという話は、後半突然出てきたと記憶していますが、そのような唐突な取り扱われ方をしても、当時は、司法試験は、主人公が全人生をなげうって挑戦する価値のある資格試験である、との共通認識なりお約束があったので、大した説明も要せず、ドラマとして成立したのです。あの当時、司法試験は、このような共通認識を視聴者にもたらすだけのパワーを持っていた、ということを言いたかったのです。

投稿: 小林正啓 | 2012年9月 5日 (水) 09時53分

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