« 竹生島問題、韓国軍と強制執行部隊にらみ合い | トップページ | 司法試験抜本見直し問題の本質と「101回目のプロポーズ」 »

2012年9月 3日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(6)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

青年内藤頼博と米国視察と太平洋戦争(2)

 

内藤頼博は、大学在学中の昭和5年(1930年)に高等文官試験司法科(今の司法試験)に合格し、翌年判事に任官した。東京・千葉と関東地区のみ赴任し、昭和15年(1940年)には、堀内信之助とともに、米国に半年間派遣され、家庭裁判所制度の視察を行った[1]。現代と異なり、もちろん船旅だし、莫大な費用がかかったはずだ。これらの経歴が示すことは、内藤頼博が、将来を嘱望された、ものすごく優秀な判事だったということである[2]

もっとも、内藤が米国に派遣されたのには、もう一つ別の理由があるようだが、それは後述することにする。

内藤は、1976年、野村二郎のインタビューに答え、「(1940年の)米国出張は、その後の私の裁判官生活に大きな影響を与えました」と語っている[3]。「(一番感銘を受けたのは)アメリカでは最高裁の裁判官の一人一人の名前を一般の人が知っている」ことだったという[4]。米国では、司法の権威が高く、裁判官の地位が高い。その裁判官の選任方法について内藤は、「アメリカでは、我判官の選任(Selection of Judges)ということは、司法制度の最も基本的な最も重大な問題の1つとされている。『法による、人によらない統冶』を理想とする民主法冶国においては、結局、裁判官の地位につく人の人格、智性、経験が極めて大切なこととされるのである。ちょう度日本では、従来、訴訟手統に関する法律をどう定めて、裁判官をどう拘束したら、裁制の公正が得られるか、と考えたところを、アメリカでは、どういう人を戴判官にしたら、裁判の公正が得られるかと考えるように思われる[5]。」と述べている。この経験が、戦後の司法制度改革当時、内藤をして裁判所と裁判官の地位向上に注力させる背景になったことは間違いないだろう。また、進んだ民主主義国である米国において、必ずしも民主的基盤を持たない裁判官が、なぜ国民の圧倒的な信頼を得ているのか、考えるところはあっただろう。

さて、このとき内藤らを米国に派遣した司法省にも触れておきたい。というのは、昭和15年という年は、日米開戦の前年だからである。すでに日中戦争は泥沼化し、内藤らが米国滞在中であった9月には、日本軍が北仏印(フランス領インドシナ)に進駐して、「援蒋ルート」を遮断した。この「援蒋ルート」とは、米国が蒋介石率いる中国軍を援助するための兵站線である。つまり日米は間接的にはすでに戦争状態にあり、この対立は決定的な局面を迎えつつあった。平たくいうと、米国との直接対決は時間の問題だった、ということだ。このような時局において、戦争相手の制度を勉強させるという司法省の判断は、軍を初め、関係各署の不興を買ったと思われる。それでもあえて調査を断行するあたり、司法権の独立は、昭和15年という時代においてなお、比較的良く保たれていたともいえるだろう。

また、内藤は米国視察中、アメリカ国会図書館東洋部長として勤務していた坂西志保にお世話になったと述懐している[6]。坂西志保は、当時すでに、「最も優秀なスパイ」として米政府にマークされており、開戦と同時に身柄を拘束され、日本に強制送還された人物である。スパイといっても諜報員ではなく、極めて優秀な情勢分析能力を有していたということだろう。坂西が個人的に米国に敵対する人物でなかったことは、戦後GHQに勤務した事実からも知られる。

米国滞在中の内藤らは、坂西から、米国との開戦は不可避であることや、勝ち目がないことを聞かされていたと思われる。これを内藤がどう受け取ったかを知る術はないが、内藤は、坂西と知己のあったことを、晩年まで自慢していたという。

 

 


[1] 『法の支配』30号(昭和52年)

[2] 高野耕一元判事『裁判官の生き方―鈴木忠一判事の場合―』(判例タイムズ910号)によると、鈴木忠一判事は、内藤頼博の3年前である明治38年に静岡県伊東市に出生し、内藤頼博と同年である昭和6年に判事に任官した。初任は盛岡地裁一関支部だったという。「つまり二回試験の成績が悪かったんですね」と高野はいう。「当時は、司法省が裁判官の人事を握っていまして、しかもご承知かもしれませんが、二回試験の成績が、大体その後の裁判官の進路につきまとうという時代でした」

[3] 『法学セミナー』19768月号「内藤頼博氏に聞く」

[4] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」

[5] 『法律時報』235号(昭和265月)「アメリカ司法制度の概観」

[6] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」(高野耕一)

|

« 竹生島問題、韓国軍と強制執行部隊にらみ合い | トップページ | 司法試験抜本見直し問題の本質と「101回目のプロポーズ」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/192469/55552866

この記事へのトラックバック一覧です: 内藤頼博の理想と挫折(6):

« 竹生島問題、韓国軍と強制執行部隊にらみ合い | トップページ | 司法試験抜本見直し問題の本質と「101回目のプロポーズ」 »