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2012年9月10日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(7)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「気骨の判決」と内藤頼博(1)

内藤頼博は、大正デモクラシーの洗礼を浴びて青春を送り、昭和6年に判事になるが、すでに昭和4年には大恐慌が、昭和7年には五・一五事件が、昭和11年には二・二六事件が起き、昭和151012日は大政翼賛会が設立され、昭和16128日、海軍機動部隊が真珠湾を奇襲して太平洋戦争が勃発した。つまり、内藤の任官と軌を一にして、時代は急速に暗転していく。

昭和17430日、第21回衆議院議員選挙が行われた。すでに共産党は非合法化されて事実上壊滅していたし、そのほかの政党も自主解散していた。立候補者は「翼賛政治体制協議会」の推薦を受けるか否かの選択しかなく、非推薦候補者には、露骨な妨害工作が行われた。いわゆる翼賛選挙である。

昭和17529日、鹿児島2区で落選した富吉栄二は、違反事実の詳細な調査書を添えて、選挙無効の訴訟を提起した。原告代理人には、「反軍演説」で衆議院を追われた齋藤隆夫[1]も弁護士として名を連ねた。訴状を見た大審院第三民事部部長の吉田久判事は、「これは容易ならぬ由々しき事件である。もし原告の主張する事実が真実であるとすれば、少なくとも鹿児島県第2区の選挙は衆議院議員選挙法に違反し無効とならざるを得ないと思った」という[2]

吉田は、昭和183月、担当部として187名もの証人調べを行うため、鹿児島出張を行った。選挙無効の裁判は他の部にも係属していたが、吉田の部ほど熱心に取り組む部はなかった。「本気で選挙無効の判決を出すつもりらしい」との噂は大審院内外に広がり、吉田の回りには憲兵がうろつくようになる。出張先の鹿児島では、翼賛選挙を支援する勢力もいるし、空襲の危険もある。出張に際し、吉田は遺書をしたためたという。

昭和2031日、吉田久は選挙無効の判決を言い渡した。具体的な選挙妨害の事実を認定したばかりか、翼賛選挙その者に対して「憲法上及び選挙法の精神に照らし(中略)大いに疑の存する所[3]」との踏み込んだ判断をも行っている。このときの心境について、吉田は「ちょうど大津事件で児島惟謙氏が判決をしたのと同じような心持ちじゃなかったろうか[4]」と述懐している。

判決の僅か9日後、東京大空襲により大審院の庁舎は焼失した。判決原本も行方不明になり、長い間「幻の判決」と呼ばれていたが、平成18年(2006年)、最高裁判所の倉庫から発見され、これをもとに平成21816日、『気骨の判決』と題したテレビドラマが放映された。

吉田自身は判決の4日後、判事を辞職して中央大学の講師を続け、戦後は日本自由党に入党し、同党の憲法改正要綱中の司法権に関する規程を起草したといわれる。本人は亡くなるまで『気骨の判決』原本は戦災で焼失したと思い込んでいたという。

判決から僅か19日後の320日、鹿児島2区では再選挙が行われた。原告の一人である富吉栄二は、大きく票を伸ばしたが落選した。戦後、日本社会党から出馬して、衆議院議員を4期務め、芦田内閣では逓信大臣として入閣したが、昭和29年(1954926日)、青函連絡船洞爺丸とともに津軽海峡に没した。享年55歳であった。


[1] 『気骨の判決』45

[2] 『気骨の判決』52

[3] 『気骨の判決』154

[4] 『法曹風雲録 上』236

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