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2012年9月24日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(8)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「気骨の判決」と内藤頼博(2)

昭和17年の翼賛選挙無効訴訟が係属したのは、大審院第3民事部(吉田久部長)だけではない。第1民事部(岡村玄治部長)、第2民事部(矢部克己部長)、第4民事部(古川源太郎部長)にも、同様の訴訟が係属した。しかし、選挙無効の判決を言い渡したのは、第3民事部だけだった。吉田久の勇気はたたえられるべきではあるが、かかる判決をなしえた原因は、一人吉田や、同部の担当裁判官にのみあるのではない。

この点に触れた文献は見当たらないが、まず注目すべきは、人事上の圧力が一切加わっていないということだと思う。

清水聡著『気骨の判決』(新潮新書)によれば、選挙無効事件係属中、吉田久の第3民事部では、箕田正一と古川鈊一郎二人の裁判官が転出し、武富義雄と松尾實友の二人が着任している[1]。この人事が選挙無効事件に対する圧力としてなされた形跡は見られないし、新任の二人はいずれも、翼賛選挙に対する否定的発言を残している。東條政権が、吉田久判事に神経をとがらせていたにも関わらず、同判事の更迭を含め、人事上一切の介入をなしえなかった点は、明記されるべきである。

また、『気骨の判決』は、判決当時の大審院長霜山精一をめぐる、次のエピソードを紹介している。

前述の通り、選挙無効訴訟が係属していたのは吉田久が部長を務めていた第3民事部だけではなく、第1、第2、第4民事部にも同様であった。このうち第2民事部は早々に選挙無効の訴えを退けたが、残る3部は、選挙区こそ違え、同じ鹿児島の事件を抱えているため、それぞれ結論が異なる判決を出すことはいかにも不自然であった。そこで第1、第3、第4部の部長が会議を開いたが、「無効にするまでもない」とする第1民事部長の岡村玄治部長、第4民事部の古川源太郎部長に対し、吉田は選挙無効との意見を曲げなかった。困り果てた古川は、霜山精一大審院長の意見を仰いだところ、霜山は「みんな、思うとおりにやられたらよかろう」と答えたという[2]。「これこそ、『裁判官の職権の独立』を守ることばとして語り継がれている」と、夏樹静子は『裁判百年史物語』に記している[3]

このように、裁判官の職権の独立は、時局にもかかわらず、よく保たれていた。戦時色一色で語られることの多い当時であるが、実情はそう単純ではない。吉田久個人の気骨とともに、当時の裁判所が組織としての独立を保っていたことは、もっと注目されてよい。

もちろん、裁判官の中には、具体的な圧力などなくとも、時局に迎合した判決を書く者が多かったことは事実である。しかし逆に、吉田久判事を応援し、司法権の独立を守るべきだとの論陣を張った裁判官もいた。

その裁判官の一人に、当時35歳の内藤頼博もいた。


[1] 『気骨の判決』140

[2] 『気骨の判決』152頁、『法窓風雲録(上)』219頁(古川源太郎)

[3] もっとも、筆者としては、生え抜きのエリート街道を駆け上がった霜山が、政治的な考慮を一切せずこう発言したとは思われない。敗色濃厚な戦局の中、各部別々の判決を出させることによる、組織としてのリスク分散を考えていた可能性さえ否定できない。いずれにせよ証拠のないことなので、ここでは疑問をとどめるだけにしておく。

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