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2012年9月28日 (金)

おまえの家(中島みゆき『おまえの家』より)

この町も久しぶりだし、おまえの家を 訪ねることにした

けれどおまえの家は なんだかどこかが しばらく見ないまに変わったみたい

邪魔だからと短かった髪の毛を伸ばしているし

煙草は そんなにふかさなかった

何よりドアを開けた おまえの凍りついた顔が

来てはいけなかったと あたしに告げていた

ビールでも飲むかと聞かれて

ホテルで仕事なんだ 思わず言い訳をした

じゃあお茶でも入れるよ ぼつりとおまえは言う

喫茶店に来てる気は ないさ

ねぇ 昔よく飲んだあいつと裁判所で会ってさ、と

わざと明るくきり出したとき おまえの涙を見る

弁護士は やめたんだ 食っていけないもんな と

それきり 黙って 煙草をふかしている

部屋の隅には 赤い ランドセルが一つ

リコーダーを 差したまま 休んでる

電気ポットが わめき立てるのを ああと気がついて

おまえは 笑ったような 顔になる

なにげなく 本棚の 茶色い表紙を

あたしは ふと見つめて 思わず目をそむけた

ぼろぼろに ふくらんだ 司法試験六法

おまえは まだ持っているんだ

あんまり ゆっくりも してはいられないんだ

今度 また来るからと おまえの目を見ずに言うと

そうか 忙しいんだな がんばれよと

そのとき おまえは 昔の顔だった

コートの衿を立てて あたしはホテルへ向かう

指先も 衿元も 冷たい

今夜は、どんな勇ましい書面を書いても

しめっぽい 音を キーボードは 出すだろう

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2012年9月26日 (水)

ヤマハ発動機不正輸出事件のまとめ(4)

しかし実際には、逮捕されたヤマハ発動機の従業員3名は不起訴ではなく起訴猶予となり、会社は起訴されて有罪判決を受けた。2007317日付朝日新聞によれば、捜査本部は、「機体に簡単な改造を加えれば」「ロ」の要件を充たすとして、起訴に踏み切ったという。

この点については、経産省の公表する該非判定のマトリックスにも、「解釈」として、「容易に入手可能な通信装置を容易に装着することにより実際にその機能が発現する場合を含む」とあり、当時の捜査当局と同じ見解が記載されている。

しかし、外為法は刑法であり、罪刑法定主義に服するところ、「改造」して初めて当該貨物に該当する場合も含むという解釈は、「容易な改造」に限定したところで、罪刑法定主義に違反することは明らかである。刑罰規定の運用でそのような例はないと思う。例えば銃刀法で処罰の対象になる模造拳銃とは、拳銃ではないが、改造すれば拳銃に該当しうる物、すなわち改造前の物そのものを処罰の対象にしているのであり、その是非は別にして、罪刑法定主義上は何の問題もない。これに対して、改造すれば外為法の定める貨物に該当するとして処罰対象にすることは、たとえるなら、模造拳銃所持を処罰する規定がないにもかかわらず、殺傷力のない模造拳銃を拳銃と強弁して処罰するようなものだ。

「経産省が『解釈』として公表しているではないか」とのご指摘もあろうが、法律を解釈する権限があるのは裁判所であり、裁判所を拘束するのは、法律と政省令までであって、行政官庁の「解釈」が裁判所を拘束することは、三権分立の建前上、あり得ない。いうまでもなく、法律でも何でもない経産省の「解釈」は、国民を拘束しない。それが民主主義であり、法治主義だからである。

また、私自身は未確認だが、ヤマハ発動機事件の当時、この「解釈」は存在せず、その後公開されたものだ、という指摘がある。しかし、前述の通り、そもそも、解釈には法的拘束力がないのだから、公開前だろうが後だろうが、関係ない。

輸出先が中国軍の関連企業だったという報道もあるし、中国軍が関心を示しているのに輸出するのはけしからん、という意見もあるが、これらはいずれもモラルないし企業倫理の問題であり、刑事罰則が適用されるか否かとは別問題だ。

以上により、本件で問題となった3機種は、いずれも貨物等省令3条の定めに該当しないから、逮捕された3人の従業員も、起訴されたヤマハ発動機も、本来、嫌疑なし及び無罪、ということになる。

それにもかかわらず、実際には3人の従業員は起訴猶予となり、会社が有罪となったのは、おそらく、振り上げた手の下ろしどころを探る捜査当局と、従業員を早く解放したい会社側との「手打ち」があったのだろう。

なお、上記3機種の「輸出」については、輸出貿易管理令11項に定める別表第一の412の「無人航空機」に該当するか否か、という論点の外に、同別表第一の16項による「キャッチオール規制」によって輸出規制を受けるのではないか、という論点がある。しかし、本件刑事手続では、一切この論点に触れられていないので、本エントリでも言及しない。

以上により、ヤマハ発動機事件は、法的には、法治主義及び罪刑法定主義の見地からは、わが国の刑事司法に重大な汚点を残した恥ずべき事件であるとともに、経済的には、先端工業製品の製造企業に重大な萎縮効果を与え、わが国の輸出産業に多大な損失を及ぼしたものと総括されるであろう。

追記;このエントリを作成するにあたっては「きすか」さんのブログ「Spiritと一緒」を参考にさせていただいた。きすかさんの法解釈力は、弁護士顔負けである。この場を借りて御礼を申し上げたい。

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2012年9月24日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(8)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「気骨の判決」と内藤頼博(2)

昭和17年の翼賛選挙無効訴訟が係属したのは、大審院第3民事部(吉田久部長)だけではない。第1民事部(岡村玄治部長)、第2民事部(矢部克己部長)、第4民事部(古川源太郎部長)にも、同様の訴訟が係属した。しかし、選挙無効の判決を言い渡したのは、第3民事部だけだった。吉田久の勇気はたたえられるべきではあるが、かかる判決をなしえた原因は、一人吉田や、同部の担当裁判官にのみあるのではない。

この点に触れた文献は見当たらないが、まず注目すべきは、人事上の圧力が一切加わっていないということだと思う。

清水聡著『気骨の判決』(新潮新書)によれば、選挙無効事件係属中、吉田久の第3民事部では、箕田正一と古川鈊一郎二人の裁判官が転出し、武富義雄と松尾實友の二人が着任している[1]。この人事が選挙無効事件に対する圧力としてなされた形跡は見られないし、新任の二人はいずれも、翼賛選挙に対する否定的発言を残している。東條政権が、吉田久判事に神経をとがらせていたにも関わらず、同判事の更迭を含め、人事上一切の介入をなしえなかった点は、明記されるべきである。

また、『気骨の判決』は、判決当時の大審院長霜山精一をめぐる、次のエピソードを紹介している。

前述の通り、選挙無効訴訟が係属していたのは吉田久が部長を務めていた第3民事部だけではなく、第1、第2、第4民事部にも同様であった。このうち第2民事部は早々に選挙無効の訴えを退けたが、残る3部は、選挙区こそ違え、同じ鹿児島の事件を抱えているため、それぞれ結論が異なる判決を出すことはいかにも不自然であった。そこで第1、第3、第4部の部長が会議を開いたが、「無効にするまでもない」とする第1民事部長の岡村玄治部長、第4民事部の古川源太郎部長に対し、吉田は選挙無効との意見を曲げなかった。困り果てた古川は、霜山精一大審院長の意見を仰いだところ、霜山は「みんな、思うとおりにやられたらよかろう」と答えたという[2]。「これこそ、『裁判官の職権の独立』を守ることばとして語り継がれている」と、夏樹静子は『裁判百年史物語』に記している[3]

このように、裁判官の職権の独立は、時局にもかかわらず、よく保たれていた。戦時色一色で語られることの多い当時であるが、実情はそう単純ではない。吉田久個人の気骨とともに、当時の裁判所が組織としての独立を保っていたことは、もっと注目されてよい。

もちろん、裁判官の中には、具体的な圧力などなくとも、時局に迎合した判決を書く者が多かったことは事実である。しかし逆に、吉田久判事を応援し、司法権の独立を守るべきだとの論陣を張った裁判官もいた。

その裁判官の一人に、当時35歳の内藤頼博もいた。


[1] 『気骨の判決』140

[2] 『気骨の判決』152頁、『法窓風雲録(上)』219頁(古川源太郎)

[3] もっとも、筆者としては、生え抜きのエリート街道を駆け上がった霜山が、政治的な考慮を一切せずこう発言したとは思われない。敗色濃厚な戦局の中、各部別々の判決を出させることによる、組織としてのリスク分散を考えていた可能性さえ否定できない。いずれにせよ証拠のないことなので、ここでは疑問をとどめるだけにしておく。

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2012年9月21日 (金)

ヤマハ発動機不正輸出事件のまとめ(3)

ヤマハ発動機事件において、捜査当局は逮捕時、貨物等省令第3条「イ」に該当するとしていた。しかし、本件無人ヘリが「自律的な飛行制御及び航行能力を有する」との要件を満たさないことは、前述の通り明白だった。そこで捜査当局は、会社を起訴するときは、上記「ロ」に該当するとしている(2007317日朝日新聞)。

では、本件無人ヘリが、「ロ 視認できる範囲を超えて人が飛行制御できる機能を有する」にあたるかを検討しよう。

この「視認できる範囲を超えて」という文言の解釈は、具体的事例をいろいろ想定してみると、なかなかやっかいだ。たとえば、「視認できる範囲を超えて」とは、操縦者の肉眼で視認できる範囲を超えることを意味するのか、双眼鏡で視認できる場合はどうなのか、航空機にカメラを積んだり、目標地点の地上に監視カメラを設置したりする場合はどうか、等々。

貨物省令3条は、当該無人航空機が、サリンなどの有毒物質を散布する方法によるテロや軍事行動に使用されることを防止する趣旨であって、操縦者の安全を確保するために操縦者と無人航空機が相当程度離れることを想定していることから、「ロ」に「視認できる範囲を超えて」とは、当該無人航空機が操縦者の肉眼または双眼鏡など機械的方法をもっても直接に視認できないほど物理的又は距離的に離れていることをいい、当該無人航空機がカメラを装着した結果、操縦者がカメラを通じて当該航空機を視認できる場合は、「視認できる範囲を超えて」に該当するだろう。

他方、目的地の地上にカメラを設置するなどして、当該カメラを通じて間接的に当該無人航空機を視認できる場合は、当該貨物自体が所定の機能を「有する」とはいえないから、貨物省令3条にいう「貨物」には該当しないと考える。

したがって、「視認できる範囲を超えて人が飛行制御できる」とは、当該貨物にカメラや、GPSと距離計を装着するなどして、操縦者が直接目視しなくても、手元のモニターや計器を目視することによって操縦することが可能であることを意味すると解される。なお、「イ」は「飛行制御及び航行能力」とあるのに対して「ロ」には「飛行制御」とのみあることから、「ロ」の場合には「航行」を制御できなくてもよいことになるが、上述した目的からすれば、単に姿勢や方向や高度を制御できるだけでは足りず、操縦者が意図する地点に当該貨物を移動させられる機能を備えていることは必要だろう。

また、GPSを備えるだけで距離計等を備えない無人航空機は、操縦者の視認できない範囲において山や木、建物等の障害物を把握し回避することが不可能であって、上述した目的を達成することはできないから「ロ」の要件を充たさない。さらに、これらの機器を装着した結果、ペイロードが20㎏を下回ってしまう場合にも「ロ」の要件を充たさないことはいうまでもない。

さて、本件で問題となった無人ヘリコプターであるRMAX L181(RMAX type)と、RMAX L175(RMAX typeG)は、いずれもカメラ等を備えておらず、そのままでは、「視認できる範囲を超えて人が飛行制御」することはできない(ちなみにRMAX G1は、自律飛行が可能である上、カメラを搭載して「視認できる範囲を超えて人が飛行制御」することが可能だが、ペイロードが10㎏なので、貨物等省令3条本文の要件を充たさないことは、前述した通りである)。RMAX L175は、GPSを備えてはいるが、その情報を操縦者に伝える機能はないと思われるし、仮に高度を含めた位置情報を操縦者に伝える機能を有していたとしても、障害物を把握する機能を有しない以上、「視認できる範囲を超えて人が飛行制御できる」にはあたらないと解される。

以上により、結局のところ、ヤマハ発動機が輸出したのがRMAX L181であろうが、RMAX L175であろうが、RMAX G1であろうが、いずれも、貨物等省令3条の定める貨物には該当せず、同条項によっては輸出を規制されないことになる。

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2012年9月14日 (金)

ヤマハ発動機不正輸出事件のまとめ(2)

ヤマハ発動機製RMAX L181(RMAX type)RMAX L175(RMAX typeG)は、

イ 自律的な飛行制御及び航行能力を有する

ロ 視認できる範囲を超えて人が飛行制御できる機能を有する

かのいずれかの要件を満たせば、外為法481項の定める「特定の種類の貨物」に該当し、許可を得ずに輸出すれば、外為法違反の犯罪行為になる。

そこでまず、「自律的な飛行制御及び航行能力を有する」か否かを検討してみる。

「自律的な飛行制御及び航行能力」とは、「自律的な飛行制御能力」と「自律的な航行能力」の両方、という意味だ。そして「自律」とは、「他律」の反対語であること、規制対象が「無人航空機」であること、「ロ」の要件に「人が飛行制御できる」とあること、に照らせば、「自律」とは、「人の制御に依存しない」ことを意味すると解される。典型的には、米軍のトマホークミサイルのように、目標の座標を入力して発射すれば、自力でその座標まで飛んでいく能力を意味する。

カタログによると、RMAX L175(RMAX typeG)は「YACS-G」という飛行制御システムの解説として、「飛行中に電波障害が発生した場合は、機体は自動的に静止し、その後ゆっくりと水平降下」する機能を有するとある。捜査当局は当初、これをもって「イ」の要件をみたすと解釈して、ヤマハ発動機3名の逮捕に踏み切ったと報じられている。

しかし、この解釈は誤りだ。YACS-Gは「自律的な飛行制御能力」にあたるかもしれないが、非常時に自動降下する機能をもって「自律的な航行能力」とはいえないからだ。ヤマハ発動機の従業員は逮捕前、「GPS付きの自動車だからといって自律走行可能といえないのと同じこと」と述べているがその通りだ。「自律的な航行能力」を有するといえるためには、当該無人航空機の航続範囲内の任意のA地点(「地点」というが、もちろん空中の1点でもよい)とB地点を人が設定し、A地点に当該無人航空機を設置したら、後は人の力を一切借りず、B地点まで移動できることが必要と解される。B地点はA地点の真下を含まない。もし真下に移動することも「自律移動」というなら、ニュートンのリンゴは「自律移動」したことになる。

以上により、RMAX L175(RMAX typeG)は、「自律航行能力」を有しない。

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2012年9月12日 (水)

平成24年度司法試験合格者発表

911日、今年度の司法試験合格者が発表された。

合格者は2102人。昨年より39人増えた。合格率は過去最低だった昨年を1.6ポイント上回り、25.1%。

これらの数値は、合否ラインに多数の受験生がひしめくことを考えれば、誤差の範囲だろう。要するに、昨年並み、ということだ。

他方、昨年と異なるのは新たに登場した予備試験組。合格率68.2%は、法科大学院トップの一橋大法科大学院の57.04%を10ポイント以上上回る。しかも、未確認情報だが、2124歳の受験生31人のうち、30人が最終合格(96.8%!)し、現役大学生28人中26人が最終合格(92.9%)したという。

これら30人は、司法を背負って立つトップエリートとして、裁判所・検察庁、そして大手渉外事務所の争奪戦にさらされるだろう。彼らが法曹への進路を選択してくれれば、の話だが。

大学生である間に予備試験に合格すれば、トップエリートの地位がほぼ手中にできるとなれば、来年以降の予備試験受験競争は白熱必至である。他方、従来のトップエリート、つまり、法科大学院ルートから好成績で司法試験に合格した者は、セカンドエリートに転落することになる。彼らは、その地位に甘んじることはできないから、予備試験に落第すれば、法科大学院に行かず、他の世界を目指すことになろう。こうして、法科大学院の受験生から、人材が去って行くことになる。

下表は、平成18年以降の法科大学院等別司法試験合格率(合格者数/受験者数)を、合格率の高い順に並べたものである。合格率50%以上の上位校4校に対して、10%以下の下位校が20校もある。

97日の報道によると、文科省は最大25校への補助金を削減するという。すでに5校が撤退を表明しているから、それを加えれば最大30校に退場が勧告されることになる。これを下表に当てはめてみると、北海学園大法科大学院以下30校が削減対象になる(もちろん、補助金削減基準は単年度合格率のみを対象とするものではないし、法科大学院の中には、受け控えの強要によって無理矢理合格率を維持しているところがあるかもしれないから、あくまで大雑把な予測である)。

注目すべきは、「削減ライン」のすぐ上に、宗教団体と関係の深い法科大学院があることだ。これは筆者が以前予想したとおりである。政府は、当該宗教団体と関係の深い政党を刺激しないギリギリのラインで、法科大学院削減を進めるつもりなのだ。

ちなみに、下位校30校が撤退した場合、本年度なら1915人が合格することになる。つまり、年2000人の合格ラインは、当面動かせないことが分かる。

弁護士の中からは、日弁連は何をやっているんだ、山岸会長は選挙の時に、1500人からさらなる減員を目指すといったじゃないか、という声も聞こえる。だが、そう言う人は、『こん日』を読み直してほしい。司法試験合格者数決定に関する日弁連の権限は1998(平成10)に失われ、現在全く無いのだから、誰が会長になろうが、何もできないことに変わりはない。このことは、宇都宮だろうが山岸だろうが同じことだ。宇都宮だったら減員できていた、という人にはこう聞きたい。給費制運動で、「あの政党」とがっちり手を組んでおきながら、「あの法科大学院」を潰すような政策が実現すると、本気で思っていたのか?

法科大学院25校(撤退確定組を含め30校)の削減と司法試験合格者数2000人の維持は、現時点で政府がとれる現実的選択の中で、おそらく最良のものだろう。

もちろん、現時点で最良の選択をしたからといって、事態がよい方に進むとは限らない。操縦桿を目一杯引いたところで、翼を失った飛行機は墜落を免れないのだ。

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2012年9月10日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(7)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「気骨の判決」と内藤頼博(1)

内藤頼博は、大正デモクラシーの洗礼を浴びて青春を送り、昭和6年に判事になるが、すでに昭和4年には大恐慌が、昭和7年には五・一五事件が、昭和11年には二・二六事件が起き、昭和151012日は大政翼賛会が設立され、昭和16128日、海軍機動部隊が真珠湾を奇襲して太平洋戦争が勃発した。つまり、内藤の任官と軌を一にして、時代は急速に暗転していく。

昭和17430日、第21回衆議院議員選挙が行われた。すでに共産党は非合法化されて事実上壊滅していたし、そのほかの政党も自主解散していた。立候補者は「翼賛政治体制協議会」の推薦を受けるか否かの選択しかなく、非推薦候補者には、露骨な妨害工作が行われた。いわゆる翼賛選挙である。

昭和17529日、鹿児島2区で落選した富吉栄二は、違反事実の詳細な調査書を添えて、選挙無効の訴訟を提起した。原告代理人には、「反軍演説」で衆議院を追われた齋藤隆夫[1]も弁護士として名を連ねた。訴状を見た大審院第三民事部部長の吉田久判事は、「これは容易ならぬ由々しき事件である。もし原告の主張する事実が真実であるとすれば、少なくとも鹿児島県第2区の選挙は衆議院議員選挙法に違反し無効とならざるを得ないと思った」という[2]

吉田は、昭和183月、担当部として187名もの証人調べを行うため、鹿児島出張を行った。選挙無効の裁判は他の部にも係属していたが、吉田の部ほど熱心に取り組む部はなかった。「本気で選挙無効の判決を出すつもりらしい」との噂は大審院内外に広がり、吉田の回りには憲兵がうろつくようになる。出張先の鹿児島では、翼賛選挙を支援する勢力もいるし、空襲の危険もある。出張に際し、吉田は遺書をしたためたという。

昭和2031日、吉田久は選挙無効の判決を言い渡した。具体的な選挙妨害の事実を認定したばかりか、翼賛選挙その者に対して「憲法上及び選挙法の精神に照らし(中略)大いに疑の存する所[3]」との踏み込んだ判断をも行っている。このときの心境について、吉田は「ちょうど大津事件で児島惟謙氏が判決をしたのと同じような心持ちじゃなかったろうか[4]」と述懐している。

判決の僅か9日後、東京大空襲により大審院の庁舎は焼失した。判決原本も行方不明になり、長い間「幻の判決」と呼ばれていたが、平成18年(2006年)、最高裁判所の倉庫から発見され、これをもとに平成21816日、『気骨の判決』と題したテレビドラマが放映された。

吉田自身は判決の4日後、判事を辞職して中央大学の講師を続け、戦後は日本自由党に入党し、同党の憲法改正要綱中の司法権に関する規程を起草したといわれる。本人は亡くなるまで『気骨の判決』原本は戦災で焼失したと思い込んでいたという。

判決から僅か19日後の320日、鹿児島2区では再選挙が行われた。原告の一人である富吉栄二は、大きく票を伸ばしたが落選した。戦後、日本社会党から出馬して、衆議院議員を4期務め、芦田内閣では逓信大臣として入閣したが、昭和29年(1954926日)、青函連絡船洞爺丸とともに津軽海峡に没した。享年55歳であった。


[1] 『気骨の判決』45

[2] 『気骨の判決』52

[3] 『気骨の判決』154

[4] 『法曹風雲録 上』236

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2012年9月 7日 (金)

ヤマハ発動機不正輸出事件のまとめ(1)

「ヤマハ発動機不正輸出事件」とは、2005年に、ヤマハ発動機株式会社が中国企業に対し、外為法上輸出許可が必要な無人ヘリコプターを無許可で輸出したとして、社員3人が逮捕され(起訴猶予)、会社は起訴され有罪判決(確定)を受けた事件だ。

不正輸出と報じられているのは、次の3機種。いずれも、全長3.6メートルほどの小型ヘリである。しかし、ただのラジコンヘリではない。農薬散布ができるし、G1タイプに至っては噴火間近の火山火口に近づいてビデオ撮影を行うことができる。もちろん、農薬を毒ガスに詰め替えれば兵器になるし、無人偵察機としても使用可能だ。

RMAX L181(RMAX type)

RMAX L175(RMAX typeG)

RMAX G1

このうち、逮捕・起訴の原因となったのは上の2機種のいずれかであり、RMAX G1は、不正輸出が報じられているだけで、後述するとおり、刑事手続の対象にはなっていない。

この事件で適用された法令は、外為法(外国為替及び外国貿易法)481項その他だが、実際に解釈が問題になる法令は、同条項に基づく輸出貿易管理11項に定める別表第一の412の「無人航空機」を定義した貨物省令(輸出貿易管理令別表第1及び外国為替令別表の規定に基づき貨物又は技術を定める省令)第3条の、次の規定である。

第三条  輸出令別表第一の四の項の経済産業省令で定める仕様のものは、次のいずれかに該当するものとする。

一の三  エアゾールを噴霧できるように設計した無人航空機であって、燃料の他に粒子又は液体状で二〇リットルを超えるペイロードを運搬することができるもののうち、次のいずれかに該当するもの(前号に該当するもの又は娯楽若しくはスポーツの用に供する模型航空機を除く。)

イ 自律的な飛行制御及び航行能力を有するもの

ロ 視認できる範囲を超えて人が飛行制御できる機能を有するもの

分かりにくいので、分かち書きしてみよう。

まず、本文として、次の要件が必要だ。

エアゾール噴霧できるように設計した無人航空機であること

②燃料のほかに粒子又は液体状で20リットルを超えるペイロードを運搬できるもの

前記3機種のうちRMAX G1は、カタログ上ペイロードが10㎏なので、この要件に該当しない。10㎏だろうが5㎏だろうが、サリンでも積めば大量破壊兵器になり得る。しかし法令上は、20リットルを超えない限り、輸出が違法となる余地はない。

さて、①のうち、「エアゾール」を定義する法令はない。広辞苑によると、「缶に入った液体・粉末など内容物を霧状に噴出させるもの」とある。「噴霧」とは「霧状にして噴出すること」と解される。前記三機種はいずれも、農薬散布を目的の一つとして設計されているし、ヘリコプターが航空機でない、という解釈は成立しないと思われるので、①の条件を満たすと考えてよい。

したがって、上記3機種のうち、RMAX G1を除くRMAX L181(RMAX type)RMAX L175(RMAX typeG)は、

イ 自律的な飛行制御及び航行能力を有する

ロ 視認できる範囲を超えて人が飛行制御できる機能を有する

かのいずれかの要件を満たせば、外為法481項の定める「特定の種類の貨物」に該当し、「特定の地域を仕向地とする」輸出には、許可が必要となる。ちなみに、「特定の地域」とは、「全世界」と定められている(輸出貿易管理令)ので、要するに、どこに輸出するにも許可が必要となる。許可を得ずに輸出すれば、外為法違反の犯罪行為になる。

そこで問題は、上記イロのいずれかをみたすのか、となる。

ところが、実際の事件では、この点をめぐる混乱があった。

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2012年9月 4日 (火)

司法試験抜本見直し問題の本質と「101回目のプロポーズ」

93日の読売新聞朝刊(杉浦まり記者)は、「司法試験抜本見直し」との記事を掲げた。法務省の「法曹養成制度検討会議」では、(司法試験合格者数年3000人の政府目標は)現実離れとの意見が強いとして、政府目標の下方修正が議論されるだろう、としている。

一方、829日の日本経済新聞(渋谷高弘記者)は、「法曹養成制度検討会議」の方向性として、質の悪い法科大学院の統廃合を促すとともに、司法試験合格者数年間2000人という現状維持か、それともさらに減らすかが焦点になる、としている。

両紙比べると、ニュアンスの違いが興味深い。読売は専ら人数論で、しかも「司法試験合格者数年3000人という政府目標を見直すかどうか」、具体的には2000人の現状を追認するかどうかを論点としているのに対して、日経は、2000人どころか、1500人もありうる、と書いている。また、読売新聞は法科大学院統廃合への言及はなく、日経は人数論より前に、法科大学院統廃合が言及されている。

他方、論調が共通しているところもある。「法科大学院の乱立により司法試験合格率が低下し、全体の合格率が23%にまで落ち込んでいる」のが根本問題としている点だ。この問題意識が正しいなら、法科大学院の定員削減、または合格者数の増加によって、全体の合格率を引き上げれば、問題は解決することになる。

だが、これは大間違いである。合格率が問題の本質ではないことは、少し考えれば分かることだ。

第一に、法科大学院の定数削減をしても、合格率は当分の間、上昇しない。何回も指摘していることだが、既に1万人以上発生している滞留受験生が受験資格を失って「捌ける」までの数年間は、合格率の上昇は微々たるものとなる。

第二に、司法試験志望者にとって大事なのは、「全体の合格率」ではなく、「自分の合格率」であり、これはすなわち「自分が所属する法科大学院の合格率」である。統廃合によって下位法科大学院が退場しても、合格可能性の初めから無い者が受験資格を失うだけのことだから、上位法科大学院の合格率は、ほとんど上昇しない。

第三に、法科大学院の統廃合は、国の思い通りには進まない。国はせいぜい補助金を打ち切れるだけで、独立採算を目指す下位法科大学院を潰すことはできない。また、「中の下」くらいのポジションにいる某宗教政党と関わりのある法科大学院を潰すような政策はとれない。法科大学院の統廃合は、結局のところ、自然淘汰に任せるしかない。

第四に、それならばと、合格率を上げるため司法試験合格者数を大幅に増やす選択肢は、法科大学院制度の自殺に直結する。年3000人を合格させたら、最低1000人は就職できない(=弁護士になれない)からだ。「法廷弁護士以外にも弁護士の活躍の場を求める」のは結構だが、その活躍の場なるものが、3年間の勉強期間と、500万円の学費(司法修習を入れるなら4年と800万円)に見合わない限り、弁護士を目指す人材が増えないことは、自明の理だからである。

1980年代後半、司法試験合格率は2%以下だった。合格率の低さが、志願者離れに繋がるなら、今よりよほど、司法試験を目指す人材は乏しかっただろう。だが、当時の受験生は25000人を超えていた(今は約9000人)。この一点だけでも、全体の合格率が問題の本質でないことは明白である。

1991年、視聴率37%を獲得した月9ドラマに、「101回目のプロポーズ」があった。トラックの前に立ちはだかり、「ボクは死にまっしぇん!」と叫んだ武田鉄矢は、女性の愛を勝ち取るため、会社員を辞め、命がけで司法試験に挑んだ。馬鹿馬鹿しいと言えばそれまでだが、当時の司法試験は、このような場面を成立させるだけの説得力を持っていた。

この説得力の失われてしまったことこそが、問題の本質である。記者諸氏には、もう少し、自分の頭で考えてほしいと申し上げたい。

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2012年9月 3日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(6)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

青年内藤頼博と米国視察と太平洋戦争(2)

 

内藤頼博は、大学在学中の昭和5年(1930年)に高等文官試験司法科(今の司法試験)に合格し、翌年判事に任官した。東京・千葉と関東地区のみ赴任し、昭和15年(1940年)には、堀内信之助とともに、米国に半年間派遣され、家庭裁判所制度の視察を行った[1]。現代と異なり、もちろん船旅だし、莫大な費用がかかったはずだ。これらの経歴が示すことは、内藤頼博が、将来を嘱望された、ものすごく優秀な判事だったということである[2]

もっとも、内藤が米国に派遣されたのには、もう一つ別の理由があるようだが、それは後述することにする。

内藤は、1976年、野村二郎のインタビューに答え、「(1940年の)米国出張は、その後の私の裁判官生活に大きな影響を与えました」と語っている[3]。「(一番感銘を受けたのは)アメリカでは最高裁の裁判官の一人一人の名前を一般の人が知っている」ことだったという[4]。米国では、司法の権威が高く、裁判官の地位が高い。その裁判官の選任方法について内藤は、「アメリカでは、我判官の選任(Selection of Judges)ということは、司法制度の最も基本的な最も重大な問題の1つとされている。『法による、人によらない統冶』を理想とする民主法冶国においては、結局、裁判官の地位につく人の人格、智性、経験が極めて大切なこととされるのである。ちょう度日本では、従来、訴訟手統に関する法律をどう定めて、裁判官をどう拘束したら、裁制の公正が得られるか、と考えたところを、アメリカでは、どういう人を戴判官にしたら、裁判の公正が得られるかと考えるように思われる[5]。」と述べている。この経験が、戦後の司法制度改革当時、内藤をして裁判所と裁判官の地位向上に注力させる背景になったことは間違いないだろう。また、進んだ民主主義国である米国において、必ずしも民主的基盤を持たない裁判官が、なぜ国民の圧倒的な信頼を得ているのか、考えるところはあっただろう。

さて、このとき内藤らを米国に派遣した司法省にも触れておきたい。というのは、昭和15年という年は、日米開戦の前年だからである。すでに日中戦争は泥沼化し、内藤らが米国滞在中であった9月には、日本軍が北仏印(フランス領インドシナ)に進駐して、「援蒋ルート」を遮断した。この「援蒋ルート」とは、米国が蒋介石率いる中国軍を援助するための兵站線である。つまり日米は間接的にはすでに戦争状態にあり、この対立は決定的な局面を迎えつつあった。平たくいうと、米国との直接対決は時間の問題だった、ということだ。このような時局において、戦争相手の制度を勉強させるという司法省の判断は、軍を初め、関係各署の不興を買ったと思われる。それでもあえて調査を断行するあたり、司法権の独立は、昭和15年という時代においてなお、比較的良く保たれていたともいえるだろう。

また、内藤は米国視察中、アメリカ国会図書館東洋部長として勤務していた坂西志保にお世話になったと述懐している[6]。坂西志保は、当時すでに、「最も優秀なスパイ」として米政府にマークされており、開戦と同時に身柄を拘束され、日本に強制送還された人物である。スパイといっても諜報員ではなく、極めて優秀な情勢分析能力を有していたということだろう。坂西が個人的に米国に敵対する人物でなかったことは、戦後GHQに勤務した事実からも知られる。

米国滞在中の内藤らは、坂西から、米国との開戦は不可避であることや、勝ち目がないことを聞かされていたと思われる。これを内藤がどう受け取ったかを知る術はないが、内藤は、坂西と知己のあったことを、晩年まで自慢していたという。

 

 


[1] 『法の支配』30号(昭和52年)

[2] 高野耕一元判事『裁判官の生き方―鈴木忠一判事の場合―』(判例タイムズ910号)によると、鈴木忠一判事は、内藤頼博の3年前である明治38年に静岡県伊東市に出生し、内藤頼博と同年である昭和6年に判事に任官した。初任は盛岡地裁一関支部だったという。「つまり二回試験の成績が悪かったんですね」と高野はいう。「当時は、司法省が裁判官の人事を握っていまして、しかもご承知かもしれませんが、二回試験の成績が、大体その後の裁判官の進路につきまとうという時代でした」

[3] 『法学セミナー』19768月号「内藤頼博氏に聞く」

[4] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」

[5] 『法律時報』235号(昭和265月)「アメリカ司法制度の概観」

[6] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」(高野耕一)

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