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2012年10月10日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(10)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「気骨の判決」と内藤頼博(4)

太平洋戦争中の昭和17年(1942年)に行われた翼賛選挙に対しては、その無効を訴える複数の訴訟が大審院に係属した。大審院民事第1民事部から第4民事部までのうち、吉田久が部長を務める第3民事部のみが、無効判決を念頭に置いて徹底した証拠調べを行った。言い換えれば、他の部は時局に迎合した判決を出すと見られており、現に第二民事部(矢部克己裁判長)は昭和181029日、原告敗訴の判決を言い渡す。つまりは、裁判所の大勢は、翼賛選挙を追認する立場をとりつつあった。

当時34歳だった内藤頼博は、この情勢を憂える丁野暁春東京控訴院判事(当時)らとともに、昭和18210日、法律新聞社主催の座談会「戦時下の裁判道を語る」に出席した。そこには、同月に吉田久の部へ異動する[1]松尾實友判事も出席しており、さながら、松尾壮行会の趣であった。

翼賛選挙無効訴訟に関しては、「これはある意味では第二の湖南事件(注;大津事件のこと)だとさえ言われています。裁判の結果はともあれ、大審院が鼎の軽重を問われるようなことがあっては末代までの恥辱だと思う。時の政治に迎合した(と)後世から批評されるようなことがあっては折角児島院長によって作られた司法部の歴史を台無しにしてしまうことになる」(河本)、「司法部の役割は…時の政府の尻ぬぐいでは断じてないのだ。国が死ぬか生きるかの瀬戸際にあるときにはどんな非常手段をとっても生きのびねばならぬという様な、便宜的間に合わせ的な措置は裁判の上には許されぬ」(丁野)、「こういう事件の裁判官は気の利いたやり方をしようなど思っちゃいけない。(中略)ヘーゲルの言う様に『国家は最高の道徳だ』という以上、国家生活において常にその正義を貫くものがあらねばならぬ。それが裁判所の任務です。裁判所にとっては時の政府の便宜に協力することに正義を見いだすべきではない。裁判所は独自の眼を以て正義を発見し、之を貫き時の政府にとっての便不便にかかわらず独往して正義を実現すべきなんだ。正義が地に委して国家の栄えることはあり得ない」(藤江)と、口々に政府に迎合する裁判のありかたを批判した。これを受けて、松尾判事はこう言う。

「もし裁判官が猫の眼の様に変わり移っていく政治や、国民に或強いをなす権力や勢力に無反省に和していくことを以て(天皇に対する)ご奉公の一面だと心得たり、時局向けの忠実な態度だと考えたりするようだったら、それこそ大変だと思う。(中略)時局と深い関係も持つ選挙関係の訴訟などについては殊更この反省が必要と思うね。

個人にしても、国体としても司法部という様な国家機構にしても、また国家自体にしても、道義こそ根本じゃないかと思う。(戦局が悪化し国民の道義心が低下した)時代において、国民の道義を、国家の道義を、最後に担保するものこそわが司法部じゃないだろうか。だから司法部は常に自らの内部を清め、自らを道義の府としなければならぬ(中略)そういう点からして、本当に部内の現状にも猛省を要するのがありはしないか。」

余談だが、現役の裁判官が、進行中の事件について公刊紙上であれこれ意見を述べるなど、現在では考えられない。戦時中の言論統制下ですら、堂々と政府批判・裁判所批判を繰り広げる有様を見ると、言論が自由な時代はどちらかと思わずにはいられない。


[1] 座談会の開催日は210日であり、松尾は2月に吉田の部に着任したようだが、着任日は不明。だが、辞令は出ていたと思われる。

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