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2012年10月31日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(13)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「気骨の判決」と内藤頼博(7)

昭和16(1941)12月、日本海軍の機動部隊がハワイ真珠湾の米艦隊を奇襲攻撃して、太平洋戦争が始まった。

翌昭和17430日に行われた第21回衆議院議員選挙では、候補者には「翼賛政治体制協議会」の推薦を受けるか否かの選択肢しかなく、推薦を受けず立候補した者は、露骨な選挙妨害を受けた。いわゆる翼賛選挙である。

昭和175月、翼賛協議会の推薦を受けず落選した鹿児島二区の候補者富吉栄二が、大審院に対し、選挙無効の裁判を提起する。他にも複数の選挙無効事件が提起されたが、「事実が訴状記載のとおりであるなら、選挙は無効を免れない」と考え、積極的な証拠調べを行ったのは、唯一吉田久大審院判事の主宰する第3民事部のみであった。

昭和187月、吉田久判事らは、鹿児島出張を敢行して、百数十人を超える証人尋問を行い帰京する。後は、事実関係を整理して判決を書くのみであった。

吉田久判事が翼賛選挙無効判決を出すかもしれない、という情報は、軍や政府も当然把握していた。しかし、吉田久判事を更迭するなど、人事上の妨害工作が行われた形跡は一切見られない。

一方、戦局は急坂を転がり落ちるように、敗色を強めていた。

昭和17年(1942年)65日、ミッドウェー海戦で、日本海軍は機動部隊の主力を失った。吉田判事が証人調べのため鹿児島に出張した昭和183月には、「餓島」と呼ばれたガダルカナル島で、2万人ともいわれる戦死者を出し、回復不能な損失を被る。昭和18年(1943年)418日には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が玉砕する。日本軍は守勢一方となっていた。

国内でも、東条内閣は追い詰められていった。複数の首相暗殺計画も存在したようである。

このような情勢下、大審院が翼賛選挙無効判決を出すことは、東条内閣にとって致命傷となりかねない。軍部としては、吉田判事なり大審院長を更迭して、無効判決を阻止できればベストだが、裁判官の人事権は、司法省が握っており、軍部といえども口を出せなかった。そこで東條英機首相は、吉田判事と大審院に対して、露骨な圧力をかけるという選択を行う。のちに「東條演説事件」と呼ばれる事件がそれだ。

昭和19(1944)228日、臨時の全国司法長官会同が開かれ、全国から参集し宮中に参内した128名の司法幹部は、首相官邸での昼食会に臨んだ。

このとき、東條英機首相が行った挨拶は、時の司法を揺るがすことになった。

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