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2012年10月 5日 (金)

内藤頼博の理想と挫折(9)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「気骨の判決」と内藤頼博(3)

平成174月に行われた第21回衆議院議員選挙、いわゆる「翼賛選挙」では、軍部と政府による露骨な選挙干渉が行われた。その選挙無効訴訟を担当した吉田久大審院判事は、時勢にもかかわらず敢然として無効判決を出し、後に「気骨の判決」と讃えられた。また、時の政府が吉田判事を更迭するなどの表だった介入は行われず、その意味では司法権の独立は保たれていた。だが、吉田判事の部のみが無効判決を出した事実は、他の部に係属したすべての翼賛選挙無効訴訟では、原告敗訴の判決が出たことを意味する。選挙区が異なる以上、一概には言えないとしても、当時の裁判官の大勢は、時局と政府の意向を忖度した判決を行ったことが、強く推測されるのである。

この大勢を憂い、吉田判事を応援するため立ち上がった裁判官のグループがあった。当時発行されていた「法律新報」紙上、『戦時下における裁判道』と題する座談会を行ったのである。

この座談会の参加者に、内藤頼博もいた。

座談会が企画された経緯は、丁野暁春(写真)によれば、次のとおりである。

「戦後一年もたたぬ間に、すでに暗雲は戦局をおおいはじめた。これと呼応するごとく、日本はいよいよ軍部独裁の恥部を露出しはじめていた。(中略)ことに昭和174月に行なわれた、いわゆる翼賛選挙につき、その前後にわたってなされた軍部ならびに政府の干渉・暴虐は、これを法の面からみても、とうてい選挙とはいわれないと思われるほどであったが、幸いにその有効・無効は裁判所(大審院)が民事事件として審判できることになっているので、私は河本(喜興之)氏と話し合ったすえ、法律新報社に対し、裁判所は選挙違反に対しては、軍部や政府の権力に屈せず堂々と法を適用し、もって司法権独立を天下に示すべしということを中心にして、裁判一般の使命を明らかにすることを目的とする座談会を開催し、かつこれを公表してくれるように相談した。法律新報社は幸いに私たちの志を容れて、昭和18210日、前記表題のごとき座談会を催してくれた。」[1]

解説を要するのは、「幸いにその有効・無効は裁判所(大審院)が民事事件として審判できることになっている」との部分であろう。これは、戦前、行政訴訟が通常裁判所の管轄でなかったことを前提としている。そのため、選挙無効訴訟は行政裁判所によって判断されるという法制度もありえたのだが、戦前の選挙法は、通常裁判所の管轄と定めていたのだ。

さて、座談会の出席者は三野昌治、藤江忠二郎、大野璋五、根本松男、松尾實友、丁野暁春、牧野威夫、河野喜興之、近藤完爾、内藤頼博の各判事。内藤は末席だ。出席者のうち、松尾實友はこの座談会の直後、大審院の吉田の部に転任しており、すでにその辞令は受け取っていたから、本人も出席者も、松尾が選挙無効事件を担当することは承知していたと思われる。

なお、この座談会の立会人として正木旲(ひろし)弁護士の名前が見られる。正木弁護士は、戦前戦後を通じ、八海事件など、多くの冤罪事件、反政府事件の弁護人として活躍した人物である。


[1] 『司法権独立運動の歴史』88

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