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2012年11月12日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(15)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「気骨の判決」と内藤頼博(9)

昭和19228日、全国司法会同の席上行われた東條英機首相の挨拶は、「裁判所が時局を弁えず、戦争遂行上重大なる障害及ぼすような判決をするなら、政府としては緊急措置をとる。誠に遺憾だが、真に必要とあるなら、速やかに非常措置をとるから、十分注意されたい」というものであった。

翼賛選挙無効事件を念頭に置いた、裁判所に対するあからさまな恫喝である。

吉田久判事がこの司法会同に出席し、東條首相の演説を直に聴いたか否かについては、記録がなく、分からない。しかし吉田自身は「東條首相もサーベルをがちゃつかせながら裁判所にきて、裁判所はけしからん、時局をわきまえないと言うて回っていましたよ」と述懐している[1]。また、時の大審院長霜山精一は、「健康をこわして入院していまして、あの席には私は出ていなかったんです。いなくて幸いでしたよ」[2]と述べている。

いずれにせよ、裁判所に対する東條首相のあからさまな恫喝は、霜山、吉田ら当事者の耳に届いていた。

しかし吉田は、「しかし私はやられても、法を護る上にはやむを得ないと決心し、遺言状を書いて妻に渡し、今度の本件はよほどむずかしい事件で、或いは生きて帰らんかもしれないと、帰らん時はここにこの遺言状の通りに跡始末しておいてくれといって(鹿児島に)出かけたような次第です。」と述べているし、霜山精一大審院長も、「同じ鹿児島での選挙が係属している大審院14部と吉田のいる3部とで、別々の判決が出ても困るのではないか」という古川源太郎第4民事部長のお伺いに対して、「みんな、思うとおりにやられたらよかろう」と答えた。

穿った見方をすれば、既に「死に体」と化していた東条内閣の意向を無視したところで、何ほどのこともあるまい、と高をくくっていた可能性もあろう。だが、そうであるとしても、命がけの抵抗であることに変わりはあるまい。

敗色が深まり、司法に対する軍部のいらだちが頂点に達する中で起きた「東條演説事件」だが、沈黙し、あるいは面従腹背する裁判官の中でただ一人、公然と異議を唱えた者がいた。

細野長良廣島控訴院長である。


[1] 『法窓風雲録(上)』234

[2] 『法窓風雲録(上)』341

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