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2013年1月23日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(16)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「気骨の判決」と内藤頼博(10)

細野長良判事(写真)は、明治16年(1883年)17日富山県に生まれ、明治41年(1908年)京都帝国大学法科大学卒業と同時に司法官試補、明治45年にはドイツとイタリアに留学している。相当のエリートであろう。内藤頼博より25歳年長だ。

昭和19228日の全国司法官会同の昼食会で、東條英機首相が裁判所を恫喝する演説を行ったとき、細野は廣島控訴院長としてその場にいたはずである。

その細野は、318日付で時の司法大臣に対して意見書を提出し、その冒頭に次のとおり記したという。重要な部分を赤字にしておく。

「過般ノ司法部長官会同二於テ内閣総理大臣及司法大臣ハ我ガ司法部監督官二対シ夫々訓示ヲ与へラレタルガ、就中東条総理ハ訓示書ノ一節二於テ、或ル種ノ行為二付テハ思切ツテ処断スペシト司法裁判二示唆ヲ与フルト共二、他面我司法官二対シ、従来ノ惰性ヲ一切放榔シテ頭ノ切り替ヲ行フベシト訓シ、万一其ノ切リ替ヲ行ヒ得ザルニ於テハ非常措置ニ出ヅルノ用意アリト迄極言セラレタルハ、恂ニ空前ニシテ殆ド絶後トモ称スベク、正ニ峻烈骨ヲ刺スモノアリ。

抑司法行政監督権ノ行使ニ付テハ、我ガ憲法附属ノ大典トシテ厳トシテ犯サレザル裁判所構成法百三十四条以下ノ規定ノ存スル在リテ、内閣総理大臣ハ我国ニ於ケル司法行政ヲ監督スペキ機関ニアラズ。従テ司法官ガ不適当又ハ不十分ニ取扱ヒタル事務ニ付注意ヲ促シ、或ハ又適当ニ其ノ事務ヲ取扱フコトニ付訓示スルノ権能ヲ有セズ。行政部ノ首班タル内閣総理大臣ガ我司法部ガ従来取扱ヒ来レル裁判ニ批判ヲ加フルガ如キ言辞ヲ敢テ為シ、将来ノ裁判其ノ他司法事務ニ示唆ヲ与へ、頭ノ切り替ヲ要求シ、之レヲ為サザルトキハ非常措置ニ出ヅペシト強言スルガ如キハ、独逸国ニ見ル政権主能者タラバ格別、我国ノ如ク畏モ天皇陛下ノ裁判所、陛下ノ名ニ於テ為ス裁判ニ対シ、行政部機関ヨリ批判又ご示唆ヲ加フルガ如キハ、帝国憲法ノ厳トシテ存スル限り断シテ為シ能ハザル所、又有り得ぺカラザルコトニ属シ、賢明ナル東条総理ニシテ此理ヲ解セザル理由アルコトナシ。(中略)近時机上文筆ノ衝ニ当ルモノノ能率低下ノ関係上、総理ノ訓示筆記一二点誤りヲ録シタルモノナルヲ確信シプ止マザル所ナリ」

要するに、行政府の長である内閣総理大臣は、裁判所構成法上も、明治憲法上も、司法府に対して口出しする権限はない、と突っぱねたのである。すなわち、司法権は天皇の大権に属するから、内閣総理大臣といえども、天皇の権限を行使することはできない、ということである。明治憲法上、統帥権が天皇に属し、内閣に口を出す権限のなかったことが軍部台頭につながったことは夙に知られているが、軍部から見た司法府も同様であった。細野は、軍部台頭をもたらした明治憲法の「欠陥」を逆手にとって、軍部に一矢報いたわけである。

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