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2013年1月28日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(17)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

「気骨の判決」と内藤頼博(11)

 

昭和19年(1944年)228日、全国の裁判所高官を前にして司法への「非常措置」を取る、と恫喝した東條英機首相に対して、一人細野長良廣島控訴院長のみが、公然と異議を述べた。異議は、特段の反論を受けずに終わる。「東條演説事件」の4ヶ月後の79日にサイパン島が陥落し、その責任を取って同月18日に東条内閣が総辞職した。東條英機としては、戦局および政局上、裁判所と喧嘩している暇はなかったというのが真相だろう

一方、細野による抵抗は、裁判所を代表するものではなく、むしろ少数派であったことも、明記されなければならない。

細野の遺した手記によれば、東條首相が訓示を行った際、も、「当時の大審院長はじめ一同ただ最敬礼して平服(ママ)していた。自分は当時広島控訴院長であったが、司法部に対するこの侮辱と暴言に耐えることができず、遂に死を決して意見書を綴り、東条総理と岩村司法大臣に進達した。せめて大審院の判事諸公には見て貰いたいと思って大審院長(筆者注;長島毅)に送ったのであるが、大審院長はこれを握りつぶしてしまった。当時の東京民事地方裁判所長佐々木良一、東京刑事地方所長島保、大阪地方所長藤田八郎、広島地方所長岩松三郎の如き、監督官としての重責にありながら、一言半句の抗議を述べたこともなく、中には岩松所長の如く、自分のとった態度を非難し、反対の行動に出た者さえあ」ったという[1]

当時の裁判官の大半が、司法権の独立より軍部への迎合を選択したことについては、昭和18年(1943年)の座談会「戦時下の裁判道」を主宰した丁野暁春判事が、家永三郎に対してこう語ったという。「昭和14年ころ、『戦時下における裁判のあり方』という会議が開催され、内地外地から集まった裁判官は交々立った軍部乃至戦争協力の発言を行ったばかりでなく、たまりかねて立ち上がり、迎合反対の論陣を張った丁野に対しても、数百の列席判事の誰一人として支持せず、司法省民事局長として司会に当たっていた大森洪太がはげしく反撃を加えてきた」[2]

結局のところ、細野らの行動は「大局から見れば、…局部的現象にとどまったのであって、明治憲法体制の下で司法権の独立はわずかにそれら少数派の判事たちの個人的良心に支えられることによりかろうじて細々と維持されたに過ぎず、全般的には、制度上でも、実際の運用面でも、司法権の独立が一片の『たてまえ』以上でなかったことは覆いがたいところとしなければならない」とする家永の評価[3]が正しいというべきだろう。

昭和20年(1945年)31日、選挙を無効とする判決が言い渡された。その4日後、吉田は大審院判事を辞職する。その理由を吉田は語っていないが、「体よく辞職させられた」と『気骨の判決』の作者清水聡氏は見る。吉田自身は、「今になって考えてもね。全く自由を縛り上げての国会でしょう。そういうものを作ったのでね。私はそういうことをしないで、いうことはいわせておけば、あんなみじめな敗けはしないで適当な時期になんとか収拾ができたのではないかと、そういうことを私は残念に思いますよ。政治的に考えてね」と述懐している。

310日、東京大空襲によって大審院は焼失した。言い渡したばかりの吉田の判決原本は、大審院の建物とともに失われたと考えられていた。吉田自身、判決原本は失われたと、死ぬまで信じていたという。

しかし、判決原本は生き残っていた。『気骨の判決』には、最高裁判所の記録保管庫の未整理資料の中から、偶然発見された[4]とある。

これを残したのは前田牧郎大審院書記長(当時)。前田は言う、「あれは、残ったのでなくて、まことに苦心サンタンして残したものなんですよ。(霜山精一大審院)院長にもむろん御相談したことですが、疎開させようと思っても、箱詰めの材料から、トラックから、大審院には何一つといってないでしょう。それを、何度も、刑務所へかけ合ったりして、やっと間に合わせたんです。係属している記録は、係りの書記が持っていて、万一の時は袋に入れ、かついで逃げることにしていました。そして逃げられん夜などは、階下へ投げることにしていたんです。大空襲の夜も、こういう記録が、民事で四百一件、このうち、焼けたのは四件でしたかな。刑事の方は、二百四、五十件ありましたが、これは十数件焼き残しました」

なぜ、吉田の判決原本は残されたのだろう。『気骨の判決』によれば、「不思議なことに、同じ時期に言い渡されたとされる、鹿児島1区と鹿児島3区の原告敗訴の判決は、今なお原本が確認できていない」とある。「あるいは、この二つは実際には言い渡されなかったか、もしくは判決が出ていたとしても、本当に焼失したのではないかと見られる。おそらく担当していた書記も、緊急時に持ち出すとしたらどの判決が大切なのか、価値を知っていたのだろう」[5]という。

筆者としては、前田書記官の「(吉田判決の)原本は、伊那の裁判所に疎開してあった[6]」という言葉に注目したい。伊那といえば、信州高遠藩内藤家当主である内藤頼博の「お膝元」である。当時、選挙無効判決を支持していた内藤頼博が、前田書記官の了解のもと、判決原本を自らの郷里に疎開させたのではないだろうか。

「伊那」という地名以外、内藤と吉田判決原本を結びつける資料はない。当時、大本営も長野県松代(ご指摘により訂正しました)への移転を計画していたというから、大審院の判決原本が長野県に移転するということ自体は、格別不自然なことではないかもしれない。だが、なぜ松本ではなく伊那なのか。この件に内藤頼博が関係していたか否かは、歴史上の甘美な謎である。

前田によれば、戦後初の最高裁長官となる三淵忠彦と初顔合わせとなった日、三淵に「前田君を、最高裁の文書課長にしたい」と言われ、同席した内藤頼博に知恵を絞ってもらって、最高裁訟廷課という組織を作ってもらい、初代課長に優遇されたという。「私は、三淵さんと馴染みがあったわけでもないのに、なぜ、こうして目をかけて下さったのか不思議に思っています」というが、終戦直前の判決保存の業績を評価されたことはほぼ間違いないことだし、それを知る内藤の推挙によって、戦後も優遇されたと考えれば、辻褄が合う。


[1] 『司法権独立の歴史的考察(増補版)』51

[2] 『司法権独立の歴史的考察(増補版)』78

[3] 『司法権独立の歴史的考察(増補版)』65

[4] 『気骨の判決』186

[5] 『気骨の判決』188

[6] 『法窓風雲録(下)』187

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