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2013年1月30日 (水)

陪審制の沿革について

▼わが国の刑事陪審制が、政党政治を司法による攻撃から守るために創設されたことを知る人は、少ないと思う。

戦前の政党政治を崩壊させたのは軍部だけではない。司法もまた、政党政治を崩壊させ、戦争突入の道筋をつくった責任を免れない。

その頂点に君臨したのは、平沼騏一郎。平沼は、検事総長、大審院長、司法大臣と司法機構の階段を上り詰め、強大な人事権を掌握して検察官と裁判官の大半を支配する一方、司法権の独立を振りかざして議会や軍部の介入をはねつけた。そして、日糖事件(1908年・明治41年)、大逆事件(1910年・明治43年)、シーメンス事件(1914年・大正3年)、大浦事件(1915年・大正4年)、八幡製鉄所事件(1917年・大正6年)、帝人事件(1934年・昭和9年)など、苛烈な取り調べで政治腐敗を糺した。「人権蹂躙」という四文字熟語は、日糖事件の取り調べから生まれたらしい。

平沼は、今でいう「検察ファッショ」を権力闘争の手段として、縦横無尽に利用したのだ。

政党政治の危機を感じた原敬は、首相就任(1918年・大正7年)と同時に陪審制の導入に着手し、紆余曲折を経て、1928年(昭和3年)の施行にこぎ着けた。苛烈な取調の実態や無理筋の事件化を一般国民からなる陪審員の眼前に晒せば、検察も無茶はしまい、という発想だろう。

被告人の請求によることや、費用が被告人の負担とされることは、日本型陪審制の欠点とされることが多いけれども、「検察の攻撃から政治家を守る」ことが目的だとすれば、合点がいく。WIKIPEDIAによれば、陪審に付された460件のうち、無罪が81件だから、目的は、ある程度達成されたともいえる。

だが、国民は既に、政党政治を見放していた。また、戦争の激化により成人男性が減り、陪審員の確保が難しくなったことから、1943年(昭和18年)、陪審制は停止された。

▼戦後の陪審制は、「ミスター最高裁」こと矢口洪一が導入しようとした。矢口は、戦前とは反対に、政治による攻撃から司法権を守るため、陪審制度が必要と考えた。東西冷戦の時代、裁判所は、政府や自民党による露骨な政治介入に、しばしば晒されていたからだ。矢口は、司法判断に民意の裏付けを加えれば、議会といえども、司法権の独立を尊重せざるを得ないと考えた。矢口は、左翼裁判官の弾圧者として知られているが、もし彼が左翼裁判官という「トカゲのしっぽ」を切らなければ、今頃は、「政府与党の気に入らない判決を出した裁判官は弾劾裁判にかけてよい」という慣行が成立していたかもしれない。

だが、この発想は、当時の裁判官には理解されなかった。特命を受けて米国陪審制度を視察した竹崎博允判事(後の最高裁長官)が、陪審制を徹底して批判するレポートを提出したのは有名な話である。

▼その竹崎博允最高裁長官の下、裁判員制度は導入された。裁判員制度創設は司法制度改革の一環であり、司法制度改革は1990年代の政治改革・行政改革と並ぶ、わが国統治機構全般に対する改革作業の一環である。

そして、その目的を一言で言うなら、国民の政治参加を拡大することにあった。高度成長が終焉を迎え、バブル経済が崩壊した中、金属疲労に冒された官僚支配構造に代わる、新たな国家統治のありかたが求められていた。米国と中央省庁に国内外の政治を委ねていた日本国民が、他人任せを卒業し、主体的に関与しなければ、国家としての将来はない、と考えられたのである。

裁判員制度の目的とて、その例外ではない。

▼余談になるが、日弁連は、「人質司法」の打破につながるとして、裁判員制度の導入に賛成した。その側面はあるし、実際、ここ数年間のめざましい変化は、裁判員制度導入と無関係ではなかろう。だが、裁判員制度の主目的はあくまで、国民の政治参加にある。弁護士はある意味当事者だから、全体的な視野を持つことが、かえって難しいけれども、この優先順位を取り違えてはいけない。

▼裁判員法は、2004年(平成16年)の第159国会で、衆参両院の圧倒的多数により採決された。これは疑いもなく、国民自身による選択である。いやがる国民の「口を無理やりこじあけて」強制したものではない。

もちろん、90年代以降の政治改革、行政改革そして司法改革が、国民の政治参加という目的を適切に実現しつつあるかは、厳しく検証されるべきだし、私自身、大いに疑問である。司法改革とて、民意の反映に成功している実感は、控えめに言っても、あまりない。それでも、国民の政治参加を広げるという改革の目的は、維持されるべきだと思う。

この国には、ほかに選択肢がないからである。

私自身はわが国の民主主義成熟するかについて、ものすごく悲観的であり、だから文章が皮肉っぽくなるのかもしれないが、それでも、民主主義の成熟を信じ援護する努力は、尊重したいと思う。この努力を止めたら、この国はあっという間に、江戸時代以前に戻ってしまうだろう。

▼裁判員裁判も含めれば、陪審制は、近代日本の司法史上3回検討され、うち2回導入された。いずれも、「司法部分の基礎に手をつける」に値する、それ相応に根源的な、切羽詰まった事情があった。一言で言うなら、国家統治の根本にかかわる制度改革だ。「司法が市民の身近になる」などという、一見分かりやすいが、浅薄な問題ではないのである。

▼わが国は民主国家なのだから、制度を廃止するのも、国民の自由だ。失敗したと思うなら、廃止を主張したらよい。だが、その理由が、「メリットがよくわからないから」とか、「そもそも聞いてないから」とか言うのは、議論のあり方として、底が浅すぎる。

また、たった45年で「いまもって国民は主権者意識に無自覚だから」止めてしまえ、という議論も、短兵急ではないだろうか。陪審制は、戦時下であるにもかかわらず、15年続いたのだ。

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2013年1月28日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(17)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

「気骨の判決」と内藤頼博(11)

 

昭和19年(1944年)228日、全国の裁判所高官を前にして司法への「非常措置」を取る、と恫喝した東條英機首相に対して、一人細野長良廣島控訴院長のみが、公然と異議を述べた。異議は、特段の反論を受けずに終わる。「東條演説事件」の4ヶ月後の79日にサイパン島が陥落し、その責任を取って同月18日に東条内閣が総辞職した。東條英機としては、戦局および政局上、裁判所と喧嘩している暇はなかったというのが真相だろう

一方、細野による抵抗は、裁判所を代表するものではなく、むしろ少数派であったことも、明記されなければならない。

細野の遺した手記によれば、東條首相が訓示を行った際、も、「当時の大審院長はじめ一同ただ最敬礼して平服(ママ)していた。自分は当時広島控訴院長であったが、司法部に対するこの侮辱と暴言に耐えることができず、遂に死を決して意見書を綴り、東条総理と岩村司法大臣に進達した。せめて大審院の判事諸公には見て貰いたいと思って大審院長(筆者注;長島毅)に送ったのであるが、大審院長はこれを握りつぶしてしまった。当時の東京民事地方裁判所長佐々木良一、東京刑事地方所長島保、大阪地方所長藤田八郎、広島地方所長岩松三郎の如き、監督官としての重責にありながら、一言半句の抗議を述べたこともなく、中には岩松所長の如く、自分のとった態度を非難し、反対の行動に出た者さえあ」ったという[1]

当時の裁判官の大半が、司法権の独立より軍部への迎合を選択したことについては、昭和18年(1943年)の座談会「戦時下の裁判道」を主宰した丁野暁春判事が、家永三郎に対してこう語ったという。「昭和14年ころ、『戦時下における裁判のあり方』という会議が開催され、内地外地から集まった裁判官は交々立った軍部乃至戦争協力の発言を行ったばかりでなく、たまりかねて立ち上がり、迎合反対の論陣を張った丁野に対しても、数百の列席判事の誰一人として支持せず、司法省民事局長として司会に当たっていた大森洪太がはげしく反撃を加えてきた」[2]

結局のところ、細野らの行動は「大局から見れば、…局部的現象にとどまったのであって、明治憲法体制の下で司法権の独立はわずかにそれら少数派の判事たちの個人的良心に支えられることによりかろうじて細々と維持されたに過ぎず、全般的には、制度上でも、実際の運用面でも、司法権の独立が一片の『たてまえ』以上でなかったことは覆いがたいところとしなければならない」とする家永の評価[3]が正しいというべきだろう。

昭和20年(1945年)31日、選挙を無効とする判決が言い渡された。その4日後、吉田は大審院判事を辞職する。その理由を吉田は語っていないが、「体よく辞職させられた」と『気骨の判決』の作者清水聡氏は見る。吉田自身は、「今になって考えてもね。全く自由を縛り上げての国会でしょう。そういうものを作ったのでね。私はそういうことをしないで、いうことはいわせておけば、あんなみじめな敗けはしないで適当な時期になんとか収拾ができたのではないかと、そういうことを私は残念に思いますよ。政治的に考えてね」と述懐している。

310日、東京大空襲によって大審院は焼失した。言い渡したばかりの吉田の判決原本は、大審院の建物とともに失われたと考えられていた。吉田自身、判決原本は失われたと、死ぬまで信じていたという。

しかし、判決原本は生き残っていた。『気骨の判決』には、最高裁判所の記録保管庫の未整理資料の中から、偶然発見された[4]とある。

これを残したのは前田牧郎大審院書記長(当時)。前田は言う、「あれは、残ったのでなくて、まことに苦心サンタンして残したものなんですよ。(霜山精一大審院)院長にもむろん御相談したことですが、疎開させようと思っても、箱詰めの材料から、トラックから、大審院には何一つといってないでしょう。それを、何度も、刑務所へかけ合ったりして、やっと間に合わせたんです。係属している記録は、係りの書記が持っていて、万一の時は袋に入れ、かついで逃げることにしていました。そして逃げられん夜などは、階下へ投げることにしていたんです。大空襲の夜も、こういう記録が、民事で四百一件、このうち、焼けたのは四件でしたかな。刑事の方は、二百四、五十件ありましたが、これは十数件焼き残しました」

なぜ、吉田の判決原本は残されたのだろう。『気骨の判決』によれば、「不思議なことに、同じ時期に言い渡されたとされる、鹿児島1区と鹿児島3区の原告敗訴の判決は、今なお原本が確認できていない」とある。「あるいは、この二つは実際には言い渡されなかったか、もしくは判決が出ていたとしても、本当に焼失したのではないかと見られる。おそらく担当していた書記も、緊急時に持ち出すとしたらどの判決が大切なのか、価値を知っていたのだろう」[5]という。

筆者としては、前田書記官の「(吉田判決の)原本は、伊那の裁判所に疎開してあった[6]」という言葉に注目したい。伊那といえば、信州高遠藩内藤家当主である内藤頼博の「お膝元」である。当時、選挙無効判決を支持していた内藤頼博が、前田書記官の了解のもと、判決原本を自らの郷里に疎開させたのではないだろうか。

「伊那」という地名以外、内藤と吉田判決原本を結びつける資料はない。当時、大本営も長野県松代(ご指摘により訂正しました)への移転を計画していたというから、大審院の判決原本が長野県に移転するということ自体は、格別不自然なことではないかもしれない。だが、なぜ松本ではなく伊那なのか。この件に内藤頼博が関係していたか否かは、歴史上の甘美な謎である。

前田によれば、戦後初の最高裁長官となる三淵忠彦と初顔合わせとなった日、三淵に「前田君を、最高裁の文書課長にしたい」と言われ、同席した内藤頼博に知恵を絞ってもらって、最高裁訟廷課という組織を作ってもらい、初代課長に優遇されたという。「私は、三淵さんと馴染みがあったわけでもないのに、なぜ、こうして目をかけて下さったのか不思議に思っています」というが、終戦直前の判決保存の業績を評価されたことはほぼ間違いないことだし、それを知る内藤の推挙によって、戦後も優遇されたと考えれば、辻褄が合う。


[1] 『司法権独立の歴史的考察(増補版)』51

[2] 『司法権独立の歴史的考察(増補版)』78

[3] 『司法権独立の歴史的考察(増補版)』65

[4] 『気骨の判決』186

[5] 『気骨の判決』188

[6] 『法窓風雲録(下)』187

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2013年1月25日 (金)

裁判員裁判について

内田樹先生が、「裁判員制度によって、どんなよいことがあったのか分からない」という趣旨のことをおっしゃっている。

私は、内田先生の文章が大好きだし、ブログの愛読者でもある。だから、内田先生風の文章を書くことだってできる。

だが、このご意見はちょっと失望だ。内田先生ほどの知性にして、この程度のことがわからないんだ。

裁判員制度の目的は、「主権者としての自覚」を国民に持ってもらうことにある。「主権者としての自覚」とは、「国家権力者としての自覚」ということだ。裁判員になった人や、一般国民が、その自覚を持ったなら、それは「よいこと」なのである。

人を殺したら、「死刑又は無期もしくは5年以上の懲役」になると、刑法は定めている。この法律を定めたのは、究極的には主権者である国民だ。国民はこの法律によって、人の自由や時間や、命までも奪う強大な権力を国家機関に付与した。裁判員裁判とは、一面で、この強大な権力の行使を、民主主義の原則に戻って、主権者である国民自身が取り戻す制度である。なぜそんなことをするかというと、国家機構は巨大で複雑なので、国民自身、自分が主権者であって、国家権力の源泉であることを、忘れがちだからである。かといって国民全員が裁判に関わるわけにもいかないので、くじで選ばれた数人に、その事件限定で国家権力の行使を委ねるのである。これも、民主主義の理念からすれば、一つの健全なあり方である。

危険運転致死罪という刑法の条文がある。この条文は、悪質な交通事故をきっかけに、遺族の運動と、民意の支持があって、制定された。この法律を定めたのも、究極的には国民である。そして国民から選ばれた裁判員が、被告人にこの条文を適用する。これは民主主義の一つの健全な形である。

だが、危険運転過失致死罪は、とても重い刑を定めている。実際に運用してみると、重い刑しか選択できないことが、かえって正義に反する、という事例があるかもしれない。不当に重い刑を選択せざるを得なかった裁判員は、法改正の必要性を強く認識するかもしれない。その結果法改正がなされるなら、それもまた、民主主義の健全な実現である。

裁判員裁判だって、誤判や冤罪は生まれる。当たり前である。プロの法律家も、素人の裁判員も、人間である以上、間違えることはある。裁判員裁判は、強大な国家権力を手にし、かつ、その運用を間違わないことが、いかに重要であり、かつ困難であるかを、国民に自覚させる。これもまた、民主主義制度の、大事な側面である。

裁判員裁判は、国民に、大変な負担を強いている。これも当然である。民主主義とはもともと、膨大なコストのかかる制度なのだ。裁判員制度は、しんどいのである。

もちろん、以上のことは理念にすぎない。理念が正しければ、何をやってもよい、というわけではない。「よいこと」があるからといって、「わるいこと」に目をつぶってはいけない。裁判員の負担や、被告人・被害者の人権、経済的なコストなどとバランスをとらなければならない。しかも、現行制度には、上記の理念とは似て非なる思惑が、いろいろ混じっている。

だから、裁判員制度については、不断の改善が必要である。だが、もともとの理念や目的すら理解できず、「よいことがない」だの「わからない」だの言っているのでは、改善すらできない。

ときどき不思議に思うのは、自由と民主主義を標榜する高い知性の持ち主の中に、国家権力を国民と対峙させる傾向が見られることだ。民主主義国家においては、国家権力の行使者は国民自身であって、国民と敵対する「誰か」ではない。それを認識させることが、裁判員裁判の意義である。もちろん、実態が理念通りでないことくらい、わかっているが、それでも、このタテマエを譲ってはならない。それは、民主主義を放棄することにつながるからだ。

裁判員が背負う責任と重圧は、主権者が背負う責任と重圧である。われわれが、このことに無自覚すぎることこそ、裁判員裁判が導入された最大の理由である。

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2013年1月23日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(16)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「気骨の判決」と内藤頼博(10)

細野長良判事(写真)は、明治16年(1883年)17日富山県に生まれ、明治41年(1908年)京都帝国大学法科大学卒業と同時に司法官試補、明治45年にはドイツとイタリアに留学している。相当のエリートであろう。内藤頼博より25歳年長だ。

昭和19228日の全国司法官会同の昼食会で、東條英機首相が裁判所を恫喝する演説を行ったとき、細野は廣島控訴院長としてその場にいたはずである。

その細野は、318日付で時の司法大臣に対して意見書を提出し、その冒頭に次のとおり記したという。重要な部分を赤字にしておく。

「過般ノ司法部長官会同二於テ内閣総理大臣及司法大臣ハ我ガ司法部監督官二対シ夫々訓示ヲ与へラレタルガ、就中東条総理ハ訓示書ノ一節二於テ、或ル種ノ行為二付テハ思切ツテ処断スペシト司法裁判二示唆ヲ与フルト共二、他面我司法官二対シ、従来ノ惰性ヲ一切放榔シテ頭ノ切り替ヲ行フベシト訓シ、万一其ノ切リ替ヲ行ヒ得ザルニ於テハ非常措置ニ出ヅルノ用意アリト迄極言セラレタルハ、恂ニ空前ニシテ殆ド絶後トモ称スベク、正ニ峻烈骨ヲ刺スモノアリ。

抑司法行政監督権ノ行使ニ付テハ、我ガ憲法附属ノ大典トシテ厳トシテ犯サレザル裁判所構成法百三十四条以下ノ規定ノ存スル在リテ、内閣総理大臣ハ我国ニ於ケル司法行政ヲ監督スペキ機関ニアラズ。従テ司法官ガ不適当又ハ不十分ニ取扱ヒタル事務ニ付注意ヲ促シ、或ハ又適当ニ其ノ事務ヲ取扱フコトニ付訓示スルノ権能ヲ有セズ。行政部ノ首班タル内閣総理大臣ガ我司法部ガ従来取扱ヒ来レル裁判ニ批判ヲ加フルガ如キ言辞ヲ敢テ為シ、将来ノ裁判其ノ他司法事務ニ示唆ヲ与へ、頭ノ切り替ヲ要求シ、之レヲ為サザルトキハ非常措置ニ出ヅペシト強言スルガ如キハ、独逸国ニ見ル政権主能者タラバ格別、我国ノ如ク畏モ天皇陛下ノ裁判所、陛下ノ名ニ於テ為ス裁判ニ対シ、行政部機関ヨリ批判又ご示唆ヲ加フルガ如キハ、帝国憲法ノ厳トシテ存スル限り断シテ為シ能ハザル所、又有り得ぺカラザルコトニ属シ、賢明ナル東条総理ニシテ此理ヲ解セザル理由アルコトナシ。(中略)近時机上文筆ノ衝ニ当ルモノノ能率低下ノ関係上、総理ノ訓示筆記一二点誤りヲ録シタルモノナルヲ確信シプ止マザル所ナリ」

要するに、行政府の長である内閣総理大臣は、裁判所構成法上も、明治憲法上も、司法府に対して口出しする権限はない、と突っぱねたのである。すなわち、司法権は天皇の大権に属するから、内閣総理大臣といえども、天皇の権限を行使することはできない、ということである。明治憲法上、統帥権が天皇に属し、内閣に口を出す権限のなかったことが軍部台頭につながったことは夙に知られているが、軍部から見た司法府も同様であった。細野は、軍部台頭をもたらした明治憲法の「欠陥」を逆手にとって、軍部に一矢報いたわけである。

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2013年1月21日 (月)

弁護士会館地下に活断層

原子力規制委員会は4日、弁護士会館(東京都千代田区霞が関)下に活断層が存在するとの見解をまとめ、近く政府に報告する見通しとなった。2015年までの間に大規模なズレを起こす可能性は50%とされ、動いた場合には、弁護士会館の倒壊は必至。

弁護士会館地下には、もともと、「イデオロギー断層」と「都市・地方断層」の存在が知られていた。「イデオロギー断層」は1950年代に発見され、1964年(昭和39年)の「臨司地震」をはじめ数回活動したが、地層が古くなったため、今後大規模に活動する見通しは低い。また、「都市・地方断層」は、都市部と地域の間に走る断層であり、1986年(昭和61年)の日弁連会長選挙の際、神戸弁護士会の北山六郎候補を当選させて日弁連に激震を惹き起こしたほか、2010年(平成22年)、12年(平成24年)の日弁連会長選挙でも小規模ながら活動した。しかし、全会員の約半数となる15000人が東京都大阪に集中する現在、「都市・地方断層」が弁護士会館の崩壊をもたらす危険性は低い。

今回発見されたのは、2003年(平成15年)の司法制度改革がつくり出したため、「司法改革断層」と名付けられた。識者により見解は多少異なるが、断層は概ね、司法制度改革の直接の洗礼を受けた46期から55期の間に存在するという認識で一致している。原子力規制委員会によると、「司法改革断層」には他の断層と異なり、不満エネルギーが急激に蓄積されており、ここ数年内に大規模な地殻変動を惹き起こす可能性が高いという。

日弁連は原子力規制委員会に対して公開質問状を出し、「司法改革断層」は存在しないと主張している。質問状によれば、日弁連は「法の支配を社会の隅々に」という理念に基づき、一丸一体となって司法改革を推進しているから、活断層は存在しないという。また、新司法試験を経た弁護士が、全会員の3分の1に達しており、これらの厚い層が、地盤を固めているという。

しかし、原子力規制委員会は、「活断層の存在を頑なに否定する日弁連の態度は理解できない」とにべもない。また、「新司法試験を経た60期以降の弁護士は、数が多いだけで特定の基盤を持たないから、『司法改革断層』が動けば容易に液状化し、大幅な地盤沈下と崩壊を来す」と反論している。

もし「司法改革断層」が活動した場合、弁護士会館は北西に倒れ、東京地方・高等裁判所の建物を巻き込んで崩壊すると予想されている。そのため最高裁判所は、早急に弁護士会館を取り壊すよう、要望書を政府に提出した。

日弁連評論家の小林正啓弁護士「弁護士会館が今年中に倒壊するかって?それは断層だけに、ジシンがない、なんちゃって。」

言うまでもないですが、これはフィクションであり、実在の団体とは一切関係ありません。

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2013年1月15日 (火)

生徒諸君、体罰教師を現行犯逮捕しなさい。

本来日弁連が言うべきことだが、なぜか言わないので、このブログに記す。

学校において、教師が生徒に体罰を加えることは、疑いなく犯罪である。

殴れば暴行罪だし、怪我をさせれば傷害罪だ。体罰の結果、生徒が自殺すれば、傷害致死罪に問われる可能性すらある。また、たとえば試合に負けた罰として校庭を何周もランニングさせる行為は、程度次第では強要罪になる。

犯罪である以上、生徒が現行犯逮捕すればよい。それが体罰を根絶する最も有効な方法なのに、大人は誰もそう言わない。なぜだろう。

教師の体罰を正当業務行為として適法化する根拠は、日本には存在しない。学校教育法11条は、「体罰を加えることはできない」と明記して禁止している。

体罰が疑いなく犯罪であることは、裁判例でも同様だ。「教員の生徒に対する殴打は、懲戒行為としてする場合でも、そのゆえに暴行罪の成立を阻却するものではない。」(大阪高裁昭和30516日)、「高校教員が生徒に対し体罰を加え死亡させた事案につき懲役三年の実刑が言い渡された事例」(水戸地裁土浦支部昭和61318日判決)、など、枚挙に暇がない。金沢地裁昭和62826日判決は、「たとえ教育上の指導のための行為であっても、体罰が許されないことは、学校教育法11条に明記されているところであり、被告人が被害者を殴打した行為は、往復びんたを手加減することなく4回加えたというものであって、このような暴行を加えることは、その意図の如何を問わず、同法条にいう体罰にあたると解されるから、これが違法な行為であることは明白」と明言している。

体罰が犯罪である以上、現行犯は逮捕することができる。現行犯逮捕は、警察官でなくてもできる(刑事訴訟法213条)。学校の生徒でも現行犯逮捕が可能だ(小学校児童はやや疑問だが、中高生なら現行犯逮捕能力があるとみてよい)。暴行を受けた生徒である必要はない。現行犯を目撃すれば、誰でも逮捕できる。

逮捕のやり方は簡単で、「逮捕します」と告げるだけでよい。拘束する必要も、手錠をかける必要もない。逮捕の正当性について、教師や学校と議論する必要も一切ない。逮捕したら、授業中でもよいから、直ちに警察に通報して、警察官に教師の身柄を引き渡す(刑事訴訟法215条)。あとは警察が処理してくれる。

重要なのは、暴行の様子を携帯電話で撮影するなどして、必ず証拠を残すこと。体罰を受けた生徒が協力してくれるなら、直ちに暴行の痕を写真に撮って、医者に連れて行き、診断書を書いてもらう。あとで暴行を否定されないためにも、不当逮捕と言われることを避けるためにも、証拠化を忘れないようにしよう。携帯電話を取り上げられデータを消される危険があるなら、直ちにインターネットにアップロードしておく。

体罰か、そうでないかの境目の問題はある。裁判例でも、「中学校の教師が平手及び軽く握ったこぶしで生徒の頭部を数回軽く殴打した行為について、学校教育法11条…によって認められた正当な懲戒権の行使」にあるとして無罪を言い渡したものがある(東京高裁昭和5641日。なお一審は有罪)。生徒諸君は、この裁判例を参考に、どこからが違法な体罰に当たるのか、考えてほしい。考えた結果、体罰だと確信するなら、堂々と、体罰教師を現行犯逮捕してほしい。それが、法治国家における国民の責務なのだから。

なお、体罰をめぐる議論として、「韓国や英国など、教師の体罰を認めている国もあるし、日本でも、一定の体罰は認められるべきだ」という意見もある。この意見は、「一定の体罰を認めるよう法改正すべきだ」という立法論なら、傾聴に値するが、現行法を前提にして「日本でも、一定の体罰は認められるべきだ」と主張するなら、明らかに間違いだ。日本の法律は、体罰禁止を明記しているからである。日ごろコンプライアンスだの法令遵守だの言っている大人にして、法感覚はこの程度だから、生徒諸君は、眉につば付けて聞いた方が良い。繰り返すが、現行法下では、体罰は明らかに犯罪である。

生徒諸君は知らないかもしれないが、日弁連は、「法の支配を社会のすみずみに」をスローガンにして、日本を法治国家として一人前にするよう、血を吐くような努力を続けている。この「すみずみ」には当然学校も入る。学校だけが暴行罪や傷害罪の適用を受けない、などという「治外法権」は、あってはならない。だから、暴力教師を現行犯逮捕したため、さらに暴行されたとか、退部・退学させられたとか、不当に低い成績を付けられたとかいう生徒がいるなら、迷わず日弁連に相談してほしい。日弁連は、君たちを助けてくれるはずだ。

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2013年1月 5日 (土)

弁護士資格が邪魔になる時代

14日の河北新報によると、宮城県富谷町が弁護士資格を持つ司法修習修了者を職員として採用するという。「採用後は町民の生活相談業務、行政訴訟への対応、条例作成のチェックなど」の予定であり、年収480万円。これは15年程度勤務する大卒職員に相当するという。

これが実現すれば宮城県内の基礎自治体では初めて。「法の支配を社会の隅々に」をスローガンとして掲げ、司法改革を推進する人びとにとっても、朗報だろう。

だが、記事はこう続ける。「弁護士活動に必要な仙台弁護士会への登録をしないのが条件で、町の職務に専念してもらう」。

あの…、弁護士会に登録しないと、「弁護士」とは言えないんですけど。

受験案内を見てみると、「採用後の弁護士登録は必須でありません(町の訴訟代理人には選任しません)」とある。とすると、記者が事実誤認をした可能性は否定できない。だが、受験案内上の該当部分にわざわざ黄色のマーカーが記されていることや、「町の訴訟代理人には選任しません」とあることからすると、富谷町の本音は、記事のとおりなのだろうし、同じ条件なら、弁護士登録を返上する方を採用するだろう。

これは富谷町としては当然の要求だ。訴訟代理人に選任しないなら、弁護士登録をされることは、迷惑でしかない。公益活動だ何だと町の業務をおろそかにされるだけで、何のメリットもないからだ(ただ、弁護士資格を返上した場合、町民の法律相談に応じることについて、弁護士法72条上の問題は、一応ある)。

5年前なら、弁護士は「ふざけるな」と言って、相手にしなかっただろう。だが、今や応募が殺到するだろう。富谷町は田舎だが、東北自動車道を使えば仙台市内と20分程度の距離だし、年収480万なら、現在の若手弁護士の年収としても、厚遇といってよい。

つまりこの記事は、弁護士と採用者の立場が逆転したことを意味している。伝統的な弁護士の論理からすれば、弁護士の使命は「人権擁護と社会正義の実現」(弁護士法1条)だから、公益活動は弁護士の本質的使命であって、組織内弁護士といえども、免れることはできないし、採用側も、公益活動をするなとは(思っていても)言えなかった。だが、弁護士の経済的困窮と社会的地位低下の結果、地方自治体ですら、弁護士資格返上を事実上の採用条件にできるようになったのだ。

20111027日のエントリ『弁護士資格返上者700人。日本ロイヤー協会(JAMILA)誕生』は、書いた時点では冗談だった。だが、2013年には、弁護士資格返上を事実上の募集条件にする自治体があらわれた。「日本ロイヤー協会(略称ジャミラ)」の誕生も近いだろう。

「法の支配を社会の隅々に」の理想に邁進した人びとは、この現象をどう受け止めるのだろうか。

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