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2013年1月30日 (水)

陪審制の沿革について

▼わが国の刑事陪審制が、政党政治を司法による攻撃から守るために創設されたことを知る人は、少ないと思う。

戦前の政党政治を崩壊させたのは軍部だけではない。司法もまた、政党政治を崩壊させ、戦争突入の道筋をつくった責任を免れない。

その頂点に君臨したのは、平沼騏一郎。平沼は、検事総長、大審院長、司法大臣と司法機構の階段を上り詰め、強大な人事権を掌握して検察官と裁判官の大半を支配する一方、司法権の独立を振りかざして議会や軍部の介入をはねつけた。そして、日糖事件(1908年・明治41年)、大逆事件(1910年・明治43年)、シーメンス事件(1914年・大正3年)、大浦事件(1915年・大正4年)、八幡製鉄所事件(1917年・大正6年)、帝人事件(1934年・昭和9年)など、苛烈な取り調べで政治腐敗を糺した。「人権蹂躙」という四文字熟語は、日糖事件の取り調べから生まれたらしい。

平沼は、今でいう「検察ファッショ」を権力闘争の手段として、縦横無尽に利用したのだ。

政党政治の危機を感じた原敬は、首相就任(1918年・大正7年)と同時に陪審制の導入に着手し、紆余曲折を経て、1928年(昭和3年)の施行にこぎ着けた。苛烈な取調の実態や無理筋の事件化を一般国民からなる陪審員の眼前に晒せば、検察も無茶はしまい、という発想だろう。

被告人の請求によることや、費用が被告人の負担とされることは、日本型陪審制の欠点とされることが多いけれども、「検察の攻撃から政治家を守る」ことが目的だとすれば、合点がいく。WIKIPEDIAによれば、陪審に付された460件のうち、無罪が81件だから、目的は、ある程度達成されたともいえる。

だが、国民は既に、政党政治を見放していた。また、戦争の激化により成人男性が減り、陪審員の確保が難しくなったことから、1943年(昭和18年)、陪審制は停止された。

▼戦後の陪審制は、「ミスター最高裁」こと矢口洪一が導入しようとした。矢口は、戦前とは反対に、政治による攻撃から司法権を守るため、陪審制度が必要と考えた。東西冷戦の時代、裁判所は、政府や自民党による露骨な政治介入に、しばしば晒されていたからだ。矢口は、司法判断に民意の裏付けを加えれば、議会といえども、司法権の独立を尊重せざるを得ないと考えた。矢口は、左翼裁判官の弾圧者として知られているが、もし彼が左翼裁判官という「トカゲのしっぽ」を切らなければ、今頃は、「政府与党の気に入らない判決を出した裁判官は弾劾裁判にかけてよい」という慣行が成立していたかもしれない。

だが、この発想は、当時の裁判官には理解されなかった。特命を受けて米国陪審制度を視察した竹崎博允判事(後の最高裁長官)が、陪審制を徹底して批判するレポートを提出したのは有名な話である。

▼その竹崎博允最高裁長官の下、裁判員制度は導入された。裁判員制度創設は司法制度改革の一環であり、司法制度改革は1990年代の政治改革・行政改革と並ぶ、わが国統治機構全般に対する改革作業の一環である。

そして、その目的を一言で言うなら、国民の政治参加を拡大することにあった。高度成長が終焉を迎え、バブル経済が崩壊した中、金属疲労に冒された官僚支配構造に代わる、新たな国家統治のありかたが求められていた。米国と中央省庁に国内外の政治を委ねていた日本国民が、他人任せを卒業し、主体的に関与しなければ、国家としての将来はない、と考えられたのである。

裁判員制度の目的とて、その例外ではない。

▼余談になるが、日弁連は、「人質司法」の打破につながるとして、裁判員制度の導入に賛成した。その側面はあるし、実際、ここ数年間のめざましい変化は、裁判員制度導入と無関係ではなかろう。だが、裁判員制度の主目的はあくまで、国民の政治参加にある。弁護士はある意味当事者だから、全体的な視野を持つことが、かえって難しいけれども、この優先順位を取り違えてはいけない。

▼裁判員法は、2004年(平成16年)の第159国会で、衆参両院の圧倒的多数により採決された。これは疑いもなく、国民自身による選択である。いやがる国民の「口を無理やりこじあけて」強制したものではない。

もちろん、90年代以降の政治改革、行政改革そして司法改革が、国民の政治参加という目的を適切に実現しつつあるかは、厳しく検証されるべきだし、私自身、大いに疑問である。司法改革とて、民意の反映に成功している実感は、控えめに言っても、あまりない。それでも、国民の政治参加を広げるという改革の目的は、維持されるべきだと思う。

この国には、ほかに選択肢がないからである。

私自身はわが国の民主主義成熟するかについて、ものすごく悲観的であり、だから文章が皮肉っぽくなるのかもしれないが、それでも、民主主義の成熟を信じ援護する努力は、尊重したいと思う。この努力を止めたら、この国はあっという間に、江戸時代以前に戻ってしまうだろう。

▼裁判員裁判も含めれば、陪審制は、近代日本の司法史上3回検討され、うち2回導入された。いずれも、「司法部分の基礎に手をつける」に値する、それ相応に根源的な、切羽詰まった事情があった。一言で言うなら、国家統治の根本にかかわる制度改革だ。「司法が市民の身近になる」などという、一見分かりやすいが、浅薄な問題ではないのである。

▼わが国は民主国家なのだから、制度を廃止するのも、国民の自由だ。失敗したと思うなら、廃止を主張したらよい。だが、その理由が、「メリットがよくわからないから」とか、「そもそも聞いてないから」とか言うのは、議論のあり方として、底が浅すぎる。

また、たった45年で「いまもって国民は主権者意識に無自覚だから」止めてしまえ、という議論も、短兵急ではないだろうか。陪審制は、戦時下であるにもかかわらず、15年続いたのだ。

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