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2013年1月25日 (金)

裁判員裁判について

内田樹先生が、「裁判員制度によって、どんなよいことがあったのか分からない」という趣旨のことをおっしゃっている。

私は、内田先生の文章が大好きだし、ブログの愛読者でもある。だから、内田先生風の文章を書くことだってできる。

だが、このご意見はちょっと失望だ。内田先生ほどの知性にして、この程度のことがわからないんだ。

裁判員制度の目的は、「主権者としての自覚」を国民に持ってもらうことにある。「主権者としての自覚」とは、「国家権力者としての自覚」ということだ。裁判員になった人や、一般国民が、その自覚を持ったなら、それは「よいこと」なのである。

人を殺したら、「死刑又は無期もしくは5年以上の懲役」になると、刑法は定めている。この法律を定めたのは、究極的には主権者である国民だ。国民はこの法律によって、人の自由や時間や、命までも奪う強大な権力を国家機関に付与した。裁判員裁判とは、一面で、この強大な権力の行使を、民主主義の原則に戻って、主権者である国民自身が取り戻す制度である。なぜそんなことをするかというと、国家機構は巨大で複雑なので、国民自身、自分が主権者であって、国家権力の源泉であることを、忘れがちだからである。かといって国民全員が裁判に関わるわけにもいかないので、くじで選ばれた数人に、その事件限定で国家権力の行使を委ねるのである。これも、民主主義の理念からすれば、一つの健全なあり方である。

危険運転致死罪という刑法の条文がある。この条文は、悪質な交通事故をきっかけに、遺族の運動と、民意の支持があって、制定された。この法律を定めたのも、究極的には国民である。そして国民から選ばれた裁判員が、被告人にこの条文を適用する。これは民主主義の一つの健全な形である。

だが、危険運転過失致死罪は、とても重い刑を定めている。実際に運用してみると、重い刑しか選択できないことが、かえって正義に反する、という事例があるかもしれない。不当に重い刑を選択せざるを得なかった裁判員は、法改正の必要性を強く認識するかもしれない。その結果法改正がなされるなら、それもまた、民主主義の健全な実現である。

裁判員裁判だって、誤判や冤罪は生まれる。当たり前である。プロの法律家も、素人の裁判員も、人間である以上、間違えることはある。裁判員裁判は、強大な国家権力を手にし、かつ、その運用を間違わないことが、いかに重要であり、かつ困難であるかを、国民に自覚させる。これもまた、民主主義制度の、大事な側面である。

裁判員裁判は、国民に、大変な負担を強いている。これも当然である。民主主義とはもともと、膨大なコストのかかる制度なのだ。裁判員制度は、しんどいのである。

もちろん、以上のことは理念にすぎない。理念が正しければ、何をやってもよい、というわけではない。「よいこと」があるからといって、「わるいこと」に目をつぶってはいけない。裁判員の負担や、被告人・被害者の人権、経済的なコストなどとバランスをとらなければならない。しかも、現行制度には、上記の理念とは似て非なる思惑が、いろいろ混じっている。

だから、裁判員制度については、不断の改善が必要である。だが、もともとの理念や目的すら理解できず、「よいことがない」だの「わからない」だの言っているのでは、改善すらできない。

ときどき不思議に思うのは、自由と民主主義を標榜する高い知性の持ち主の中に、国家権力を国民と対峙させる傾向が見られることだ。民主主義国家においては、国家権力の行使者は国民自身であって、国民と敵対する「誰か」ではない。それを認識させることが、裁判員裁判の意義である。もちろん、実態が理念通りでないことくらい、わかっているが、それでも、このタテマエを譲ってはならない。それは、民主主義を放棄することにつながるからだ。

裁判員が背負う責任と重圧は、主権者が背負う責任と重圧である。われわれが、このことに無自覚すぎることこそ、裁判員裁判が導入された最大の理由である。

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コメント

揚げ足取りのようになってしまうかもしれませんが、「国家権力の行使者は国民自身であって、国民と敵対する「誰か」ではない」という一文はやや誤解を招きやすい表現ではないでしょうか。

というのは、「国家権力を国民と対峙させる傾向」それ自体が何か誤った態度というわけではないと思うからです。国民の権利を侵害しうる最たる力が国家権力であるのは現代においても変わっておらず、国家権力は常に監視の対象となるべきものだと思います。
国家権力は現実に国民に力を行使し、それがしばしば濫用されることがありますから、その点では国家権力の行使者は国民と「敵対」する関係になり得ます。いわずもがなでありますが冤罪はその最も顕著な例です。
このことと主権者が国民であることとは矛盾するわけではないと思います。

投稿: y | 2013年1月26日 (土) 11時39分

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