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2013年2月 4日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(18)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「さつき会」と内藤頼博(1)

時計の針を、一旦昭和12年(1937年)まで戻す。登場演説事件の7年前だ。

当時29歳の内藤頼博は、ゴルフを始めた。

現在は考えられないことだが、裁判所のゴルフコンペが定期的に行われていた。場所は我孫子ゴルフ倶楽部。今でこそ名門だが、当時は、昭和6年に開場したばかりの新しいゴルフ場だった。

内藤[1]によれば、「裁判所のゴルフには、大審院の細野長良さん、井上登さん、梶田年さん、藤田八郎さんなどの鉾々たる方々が顔を揃えて毎回参加されました」という。

「そしてプレーが終わると、あとのパーティーでは決まって裁判所談議が始まり、話題はいつも司法省批判なんですね。本省本位の人事が間違っている。司法省が人事や待遇で各裁判所を地方の出先官庁並みに扱うのはおかしい。司法省は他の各省とは違う。司法部の使命は本来裁判にあるのだから、裁判所中心に運営されなければならないのに、これでは本末転倒だ。これが大審院を中心とする裁判所側の主張でした。」

「そんなお話を先輩諸公から繰り返し伺っているうちに、私もそのご意見に共鳴するようになった」という。

細野長良は後の「東條演説事件」で、裁判官としてただ一人、東條首相に対して抗議文を突きつけ、戦後初、そして最後の大審院長になる人物であり、梶田年は、「東條演説事件」のきっかけとなった翼賛選挙事件で、ただ一人選挙無効判決を書いた吉田久判事の陪席判事を務めることになる。井上登と藤田八郎は、後の最高裁判事である。

後の裁判所を背負って立つことになる裁判官達が、昭和12年当時、口々に述べていたのが「司法省からの独立」であった。

戦前、裁判所は司法省の管轄下にあり、裁判官の人事監督権は司法省が握っていた。歴代司法大臣には検事出身者が就任することが多く、無罪判決を出したため左遷される裁判官もあったという。また、裁判官から司法省入りすることは出世コースとみなされ、そのため、司法省におもねる判決を書く裁判官も多かった。家永三郎『司法権独立運動の歴史的考察』によれば、軍や政府、司法省の介入に抵抗した裁判官は極めて少数であり、大半は、時勢に従っていたという。

先の「翼賛選挙事件」において、軍から大審院に人事上の圧力がかからなかったことを指摘したが、これは、軍に対する関係では司法権の独立と言えるけれども、他方、政府(司法省)の官僚組織が軍の介入を拒んだ結果ともいえる。当時、官僚人事は天皇の大権に属するとされていたので、軍といえども口を出せなかったのだ。

それはさておき、内藤頼博は、当時の大先輩が口々に司法省からの独立を唱える様子を目にして、司法権独立への思いを強くしていく。

当時、その思いを共有する少壮裁判官の集まりが、「さつき会」であった。


[1]以下『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」より

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