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2013年2月18日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(19)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「さつき会」と内藤頼博(2)

「さつき会」とは、昭和13[1]、東京に勤務する十数名の少壮裁判官が集まって始めた勉強会だった。当初は法律問題を持ち寄って議論する会だったが、「そのうちに対司法省の問題が話題にのるようになり、この基本的な問題をどうしたらいいかが、真剣に討議されるようになった」[2]という。司法省が人事監督権を握っていることが、正しい裁判の妨げになっているという問題意識であろう。

内藤によれば、中心メンバーは内藤の3期先輩に当たる林徹、2期先輩の新村義広、1年先輩の山下朝一[mk1] 、同期の三淵乾太郎と内藤自身であった[3]。このほか、戦後内藤の下で裁判所法制定に関わることになる畔上英治も「さつき会」のメンバーだったし、他に松本冬樹、横川敏雄[mk2] の名前も見られる。松本冬樹『さつき会の思い出』によると、「(中心的な世話役であった)内藤頼博判事は、当時の内藤子爵家の御曹司であり、交際の範囲も広かったから、えらい人をさつき会に招くのに便宜であった」という。また、内藤によれば、「大阪地裁の同じ意識を持った若い判事とも交流していた[4]」という。

さつき会の主要議題は、司法省からの裁判所の独立であり、司法省の人事権におもねらないことが裁判官独立の必要条件と考える以上、司法省官僚への「出世」を拒否することは、さつき会メンバーにとって、当然の論理的帰結であった。

山下朝一判事は、昭和14年、司法省転任を勧誘されたが、これを拒否した。その後、仙台地方裁判所に転出したのは「『見せしめ』のための処分であることは、誰の目にも明らか」であったという[5]。山下判事は、大阪高裁長官を昭和45年(1970年)2月に退官し、昭和62年(1987年)に死去した。

退官後の昭和4572日、山下朝一氏は毎日新聞のインタビューに答え、「極端な国家主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者の裁判官は、道義上好ましくない」と発言したとされる石田和外最高裁判所長官を批判している。退官後とはいえ、反骨精神は健在というべきだろう。

横川敏雄判事は、昭和52年(1977年)札幌高裁長官を最後に退任し、平成6年(1994年)に死去した。北海道新聞によると、「池田内閣の政府要人殺害が計画された三無事件では、一審・東京地裁で裁判長を務め、破防法を初適用、起訴された12人のうち8人に有罪判決を下した」とある。また、退官直後の法律雑誌で「『最高裁の判例の中に、下級審が苦心さんたんした事実の認定とこれに対する法的評価を軽々しく変更したのではないか、と疑われかねないものが見受けられる』と言及し、最高裁に対し『時の政府から一歩離れた』視野・展望と、第一線の自由かっ達な雰囲気を損なわぬよう要望した」という。いずれ劣らぬ反骨精神である。


[1] 『法曹』47号畔上英治『事務屋になった頃』には昭和13年とある。また、『裁判今昔』所収『さつき会の思い出』(松本冬樹)にも昭和135月に発足とある。

[2] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」

[3] このほか、藤江忠二郎判事によれば磯部秀夫判事も創設メンバーという「あの人この人訪問記96回」

[4] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」

[5] 『裁判今昔』中『さつき会の思い出』(松本冬樹)30


[mk1]山下 朝一氏(やました・あさいち=元大阪高裁長官)二十七日午後九時五十七分、脳コウソクのため静岡県熱海市の国立熱海病院で死去。八十二歳。告別式は二十九日午前十時から横浜市港南区日野町一五五六の港南会館日野斎場で。自宅は同市磯子区洋光台一の八の三。喪主は妻、文子(ふみこ)さん。 昭和二十二年東京地裁判事、三十一年東京高裁判事、四十二年大阪地裁所長、四十四年大阪高裁長官に就任、四十五年二月退官。五十年に勲二等旭日重光章を受章。

[mk2]亡 横川敏雄氏(元札幌高裁長官)1994/05/03  北海道新聞朝刊  25ページ  289文字その他の書誌情報を表示 横川 敏雄氏(よこがわ・としお=元札幌高裁長官)1日午後零時31分、脳こうそくのため東京都杉並区の浴風会病院で死去、80歳。岡山県出身。自宅は東京都中野区東中野4の25の5、三越東中野マンション602。葬儀は6日午後零時30分から練馬区小竹町1の61の1の江古田斎場で。喪主は妻祥子(よしこ)さん。 東京地裁判事、宇都宮地家裁所長、東京高裁判事などを経て1977年札幌高裁長官。78年に定年退官し、早大法学部客員教授(刑訴法)を務めた。池田内閣の政府要人殺害が計画された三無事件では、一審・東京地裁で裁判長を務め、破防法を初適用、起訴された12人のうち8人に有罪判決を下した。

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