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2013年2月27日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(20)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「さつき会」と内藤頼博(3)

東京を中心にした少壮裁判官の集まりであった「さつき会」は、「よき裁判」を阻害する元凶が司法省による裁判所支配であるとの認識から、優秀な裁判官が司法省官僚に「出世」する制度や、「出世」を望み司法省におもねる裁判官を批判した。その帰結として、「さつき会」に属する優秀な裁判官が司法省入りの打診を拒絶する「事件」が起きる。

もと裁判官の西理(にしさとし)氏によれば、「高名な大審院部長判事であった前田直之助は、後輩の裁判官に与えた訓戒の手紙の中で『判事としては一生判決を書くことを天職と心得なければならない。所長・院長などはこの仕事には無関係の人物であり、唯の床の間の置物に過ぎないのであるから、構えてあんなものになろうなどと思ってはいけない』と戒めている」[1]が、この戒めを実践した少壮裁判官グループが「さつき会」であったという。

内藤頼博自身も、昭和14年(1939年)、三淵乾太郎とともに司法省入りの打診を断った、と述懐している[2]。この行動に対しては、我孫子ゴルフ倶楽部のコンペで司法省批判を繰り広げていたという井上登、藤田八郎判事らも批判的であったらしく、内藤自身、「思想だけならいいのですけれども、そういう実践的な行動に入ったので…問題視されたわけでしょうね」と述べている。

『さつき会の由来と信条』(藤江忠二郎あの人この人訪問記96回)には、着任の挨拶に来た若い判事が、佐々木良一東京地裁所長に「さつき会などにはいってはだめだぞ」とクギを刺された、というエピソードを紹介している。

おなじく「さつき会」のメンバーであった畔上英治裁判官も、「こんな反抗(筆者注、司法省入拒否のこと)は可成り派手に見えたらしい。その外の感情も加わったりして一部には「さつき会」の連中は、青年将校気取りで司法省に反抗しているとか、裁判至上主義に陶酔しでいるとか、同志的政治結社だとか、様々の悪評が行われ[3]」たと記している。


[1] 出典は『司法権独立運動の歴史』62頁。手紙を受け取ったのは渡辺好人もと東京高裁判事

[2] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」

[3] 畔上英治『事務屋になった頃』(「法曹」47号)

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2013年2月25日 (月)

ニュースを読む視点(6)

2月23日の朝日新聞朝刊は、下村文科相が22日の閣議後会見で、「司法試験の合格者数を年間3千人程度としている政府目標について、『間違っていたのではないか。政府側も謙虚に反省するべきところに来ている』と述べ」たと報じた

この報道を受け、弁護士のブログでは、「下村文科相の上記発言は賞賛に価します」「法科大学院制度を所管する文科省の大臣の発言は、自ら法科大学院制度そのものの破滅を宣告したに等しい」(武本夕香子弁護士)、「LS関係者は…自身の監督官庁のトップによるこの発言には、頭を抱えることになる」(福岡の家電弁護士)「文科相ですら誤りを認めるのに…。」(寺本ますみ弁護士)といった肯定的意見が相次いでいる。

しかし、水を差すようで恐縮だが、文科相の発言は、彼らが理解するようなものでは、全くないと思う。

記者会見の内容は、こうである。

「おはようございます。
本日閣議後に第2回法曹養成制度関係閣僚会議が開催されました。この会議では、法曹養成制度を巡る諸問題の重要性に鑑み、内閣官房副長官関係省庁の副大臣政務官及び有識者からなる法曹養成検討会議におけるこれまでの状況の検討報告を受けた上で、法曹養成検討会議において引き続き法曹養成問題を検討させることを取り決めたところでございます。文部科学省としても、関係各省の皆様とともに法曹養成制度の改善に向けて努力して参りたいところでございます。
 中教審で法科大学院のあり方についてすでに検討されたところでございますが、当初の法曹人口500人の国家試験合格者を3000人を目標にしたわけでありますけれども、その後2000人程度の合格者になっているという、社会的なニーズの対応に応じてでございますが、一方で法科大学院は3000人合格前提で作ったことによって、各大学において経営が非常に困窮しているというところが増えている中で、今後改めて法曹養成について関係閣僚会議で引き続き議論すると言うことでございます。」

これに対して、共同通信記者の質問に答える形で、「反省」発言が出てくる。

共同通信記者
「法曹養成の関係ですけれども、先ほど、各大学の経営が苦しいというお話があったのですけれども、整理統合が進んでいると思うのですが、大臣としても今、法科大学院はちょっと多すぎていると、今の流れでもうちょっと整理を進めた方がいいとお考えになりますでしょうか。」

下村文科相
「これはあの、自民党政権の時ですけれども、3000人養成というそもそもですね、前提条件が間違っていたのではないかということを、謙虚にですね、政府側も反省すべきところに来ているのではないかと思います。当時は司法試験合格者が500人、国家試験だったわけですが、今後の我が国の状況を考えると、アメリカ並みの社会になってくればもっと司法関係者が必要であろうと。そのために500人から3000人程度の合格者を出すことが必要であるということが一点と、それからそもそも、国家試験は受験のみのテクニック的な勉強に終始して、必ずしも司法関係者に人格的にも人間的にも、より社会の中で望ましい人ばかりではなくなっているのではないか、ということから、もっと多様な人材を司法界に導入しようと言うことで、国家試験から法科大学院に、システムとして変えたわけですね。で、もともとの数にのっとって、各大学が大学院を設置したわけですが、ところが、合格者は3000人ではなくて2000人と。だからといって数を増やせばいいということにもならないと思うんですよね。今、現実問題として、弁護士になったけど、なかなか仕事がないと。そもそも弁護士として生活していくのが大変だという社会的な現状がありますから、ですから、これについてはですね、適切に、あのー、今後の法科大学院のあり方について、ただ厳しくですね、えー、潰していくということではなくて、もっとトータル的に、あり方について考えていくべきだと思います。」

第一に、下村文科相は、「法科大学院困窮」の原因が、「司法試験合格者年3000人を前提に法科大学院を開設したこと」にあるとし、その文脈の中で「政府の反省」が必要だとしている。つまり、法科大学院は、3000人という間違った政府目標を信じて作ったため、被害を被った、と言っているのだ。つまり法科大学院は、政府の判断ミスの被害者と言っているのである。

反省すべきは政府であり、文科省が反省しているのではない。年3000人の目標値を決めたのは閣議であって文科省ではないから、文科相の発言は、形式論理としては正しい。文科相が反省の弁を述べたという理解は、間違いである。文科相は、政府閣僚の一員だが、一方で文科省のトップであり、上記発言の中では、文科省側に軸足を置き、法科大学院の立場を代弁して、政府に反省を求めているのである。

第二に、この点を理解すれば、記者に対する回答の意味も明確になる。すなわち、記者は「法科大学院の整理統合を進めるべきか」と聞いたのに対して、下村文科相は「ただ厳しく潰していくということではなくて、もっとトータル的に、あり方について考えていくべき」だと言っているのだ。

この発言を、「自ら法科大学院制度そのものの破滅を宣告したに等しい」と理解したのでは大間違いである。そもそも「制度」については、全く言及していない。しかも、法科大学院を「ただ厳しく潰していく」やり方には反対と明言している。文科相の意図は、「司法試験合格者数年3000人という政府の予測ミスの結果、法科大学院は損害を被りました。2000人を前提に法曹養成制度設計をやり直すなら、法科大学院を『ただ厳しく潰していく』のではなく、損害を償って下さい」ということである。いうまでもなく、この発言は法科大学院側の了解を得て行っているから、「法科大学院関係者が頭を抱える」事態にはなりっこない。

第三に、この文科相発言は法曹養成制度関係閣僚会議後記者会見で行われているから、同会議の明確な了承のもとに行われている点は留意しておく必要がある。すなわち文科省としては、法曹養成制度混乱の責任は文科省や法科大学院にではなく政府にある、という見解に立ちつつ、政府が誤りを認めて法科大学院側に適切な手当を行うことと引き替えなら、今後の改革に応じる(但し、法科大学院の統廃合に限定しない)という立場をとることについて、関係閣僚の了解を得たのである。

字数も多くなったし、本稿では、文科相の発言を解説するだけで、評価は行わない。だが、この発言を真っ先に批判する立場にいるんじゃないかという人が、諸手をあげて賞賛するのはいかがなものか、と思う。

 

 

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鶏口になるとも牛後になるなかれ

和田吉弘弁護士が、法曹養成検討会議第7回会議で、「予備試験がむしろ法科大学院制度を支える機能さえ果た」と発言して話題になっている。「予備試験と予備試験経由での司法試験の受験のための勉強をした人が、(法科大学院の)人材の重要な供給源ということにならざるを得ない」から、という理由だ。

そうなるかなあ、と疑問に思う。

分かれ目は、「予備試験に落ちた人が、法科大学院に行くか」という点だろう。もちろん、実際には、行く人もいるし、行かない人もいる。問題は、予備試験落第者の本質をなす者はどちらに行くか、ということだ。

平成24年の予備試験合格組のうち、現役大学生は、司法試験最終合格率ほぼ100%をたたき出して話題となった。彼らは、法曹界でのトップエリートである。今頃、裁判所、検察庁、そして大手事務所が、熾烈な争奪戦を繰り広げているだろう。大手事務所が予備試験組に提示する初任給が、年俸2000万円を下ることはあるまい。任官しても、事務総局から最高裁判事へのエリート街道を驀進するだろう。

「予備試験組」の高待遇を目の当たりにし、トップエリートを志す大学生は、予備試験ルートで司法試験現役合格を目指し、1年生から猛勉強を始めることになる。

問題は、予備試験に落第したときの、彼らの選択だ。彼らは、法科大学院に行くだろうか。

予備試験に落ち、法科大学院既習者コース経由で司法試験に合格したとしても、予備試験組から2年遅れている。合格順位がよほどよくない限り、トップエリートにはなれない。それにもかかわらず、敢えて法科大学院に入学するメリットがあるだろうか。彼らには、国家公務員試験や外交官試験、民間企業を含め、トップエリートとなる選択肢は、ほかにいくらでもあるし、志と能力のある若者は、昔からこうやって人生を選択してきた。

私は、予備試験ルートを「本気で」目指した若者は、落第しても法科大学院には行かない、と予想する。その意味では、予備試験受験生が法科大学院の人材供給源になることはない。

但し、予備試験ルートを「本気で」目指さなかった若者が、法科大学院に入学することは、十分ありうる。彼らは、大学3年生くらいで法曹を志し、「卒業記念」に予備試験を受けるがあえなく落第。でも成績を見ると「そこそこ良い」ので、「法科大学院に入れば司法試験に合格できる」と考える。彼らはもともと任官・任検する気も無ければ大手法律事務所に行けるとも思っていないので、2年余計に勉強する余裕さえあれば、法科大学院に行くことは、一つの選択肢だろう。その意味では、予備試験受験生が法科大学院の主たる人材供給源になるという和田委員の発言は、文字面としてはそのとおりだが、彼らにとって、予備試験は模擬試験でしかない。

和田委員の発言の真意は、予備試験撤廃論に反論することにある、と思う。撤廃論者に対して、「予備試験をなくせば、困るのは法科大学院ですよ」と脅す、「ためにする議論」ではないのだろうか。

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2013年2月20日 (水)

セコムの自律型の小型飛行監視ロボットと道交法について

防犯サービス大手のセコムは昨年1226日、民間防犯用として“世界初”をうたう「自律型の小型飛行監視ロボット」の試作機を報道陣に披露した。

試作ロボットは、敷地内への侵入に迅速に対応し、不審者や不審車両の特徴を確実に捉えることを目的とする。建物に侵入される前の段階、例えば、駐車場への侵入などの段階から早期に対応・対策したいという同社の長年の願いを実現するロボットだという。

この手のロボットは、スパイ映画では最初にあっさり撃退されるのがお約束だが、それはさておき、法的に気になるのは道路交通法との関係だ。敷地の上空はさておき、敷地外の公道上を飛行することは、道路交通法に違反する可能性がある。

道路交通法は、「道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする」(1条)法律であって、道路上での工事、広告物の設置、露店、映画撮影等のため一時的に道路を使用する場合には、所轄警察署長の許可が必要とされている(771項)。ポイントは、電線やアーチなど、道路の上空に存在して道路に触れていないものであっても許可の対象になる点であり、ビルの窓ふきゴンドラも対象になり得るという。高層ビルの窓ふきゴンドラが本当に道路交通法の対象になるのか、厳密に考えれば疑問無しとしないが、道路交通の安全を守るという立法趣旨に照らせば、道路の上空を一時的に使用するに過ぎないものであっても、道路交通法による規制の対象になることは明らかだ。つまり、SF映画に登場するようなエアカーやホバークラフトは、車輪がない以上、道路交通法上の「車両」に該当するか疑問だが、道路交通法の趣旨に照らせば、車輪を有する自動車と区別すべき理由はない、ということになる。

他方、たとえば航空機は、道路の上も私有地の上も、お構いなしに飛行している。本来、土地の所有権は土地の上下に及ぶ(民法207)から、宇宙の果てまで土地所有者のものだが、航空法により、航空機の通過は道路交通法による許可の対象外にされていると解される。だが、航空法の定める「航空機」とは、「人が乗って航空の用に供することができる飛行機、回転翼航空機、滑空機及び飛行船その他政令で定める航空の用に供することができる機器」(2条)をいうとされているから、無人飛行機を含まない。したがって、セコムの自律型飛行ロボットは、管轄警察署長の許可がなければ、道路の上空を飛べないことになる。

実際のところ、こんなものが突然、ドライバーの目の前に飛んできたら危なくて仕方ない。セコムの自律型飛行ロボットが敷地外の道路上を飛ぶのは、違法と解するほかないだろう。

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2013年2月18日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(19)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「さつき会」と内藤頼博(2)

「さつき会」とは、昭和13[1]、東京に勤務する十数名の少壮裁判官が集まって始めた勉強会だった。当初は法律問題を持ち寄って議論する会だったが、「そのうちに対司法省の問題が話題にのるようになり、この基本的な問題をどうしたらいいかが、真剣に討議されるようになった」[2]という。司法省が人事監督権を握っていることが、正しい裁判の妨げになっているという問題意識であろう。

内藤によれば、中心メンバーは内藤の3期先輩に当たる林徹、2期先輩の新村義広、1年先輩の山下朝一[mk1] 、同期の三淵乾太郎と内藤自身であった[3]。このほか、戦後内藤の下で裁判所法制定に関わることになる畔上英治も「さつき会」のメンバーだったし、他に松本冬樹、横川敏雄[mk2] の名前も見られる。松本冬樹『さつき会の思い出』によると、「(中心的な世話役であった)内藤頼博判事は、当時の内藤子爵家の御曹司であり、交際の範囲も広かったから、えらい人をさつき会に招くのに便宜であった」という。また、内藤によれば、「大阪地裁の同じ意識を持った若い判事とも交流していた[4]」という。

さつき会の主要議題は、司法省からの裁判所の独立であり、司法省の人事権におもねらないことが裁判官独立の必要条件と考える以上、司法省官僚への「出世」を拒否することは、さつき会メンバーにとって、当然の論理的帰結であった。

山下朝一判事は、昭和14年、司法省転任を勧誘されたが、これを拒否した。その後、仙台地方裁判所に転出したのは「『見せしめ』のための処分であることは、誰の目にも明らか」であったという[5]。山下判事は、大阪高裁長官を昭和45年(1970年)2月に退官し、昭和62年(1987年)に死去した。

退官後の昭和4572日、山下朝一氏は毎日新聞のインタビューに答え、「極端な国家主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者の裁判官は、道義上好ましくない」と発言したとされる石田和外最高裁判所長官を批判している。退官後とはいえ、反骨精神は健在というべきだろう。

横川敏雄判事は、昭和52年(1977年)札幌高裁長官を最後に退任し、平成6年(1994年)に死去した。北海道新聞によると、「池田内閣の政府要人殺害が計画された三無事件では、一審・東京地裁で裁判長を務め、破防法を初適用、起訴された12人のうち8人に有罪判決を下した」とある。また、退官直後の法律雑誌で「『最高裁の判例の中に、下級審が苦心さんたんした事実の認定とこれに対する法的評価を軽々しく変更したのではないか、と疑われかねないものが見受けられる』と言及し、最高裁に対し『時の政府から一歩離れた』視野・展望と、第一線の自由かっ達な雰囲気を損なわぬよう要望した」という。いずれ劣らぬ反骨精神である。


[1] 『法曹』47号畔上英治『事務屋になった頃』には昭和13年とある。また、『裁判今昔』所収『さつき会の思い出』(松本冬樹)にも昭和135月に発足とある。

[2] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」

[3] このほか、藤江忠二郎判事によれば磯部秀夫判事も創設メンバーという「あの人この人訪問記96回」

[4] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」

[5] 『裁判今昔』中『さつき会の思い出』(松本冬樹)30


[mk1]山下 朝一氏(やました・あさいち=元大阪高裁長官)二十七日午後九時五十七分、脳コウソクのため静岡県熱海市の国立熱海病院で死去。八十二歳。告別式は二十九日午前十時から横浜市港南区日野町一五五六の港南会館日野斎場で。自宅は同市磯子区洋光台一の八の三。喪主は妻、文子(ふみこ)さん。 昭和二十二年東京地裁判事、三十一年東京高裁判事、四十二年大阪地裁所長、四十四年大阪高裁長官に就任、四十五年二月退官。五十年に勲二等旭日重光章を受章。

[mk2]亡 横川敏雄氏(元札幌高裁長官)1994/05/03  北海道新聞朝刊  25ページ  289文字その他の書誌情報を表示 横川 敏雄氏(よこがわ・としお=元札幌高裁長官)1日午後零時31分、脳こうそくのため東京都杉並区の浴風会病院で死去、80歳。岡山県出身。自宅は東京都中野区東中野4の25の5、三越東中野マンション602。葬儀は6日午後零時30分から練馬区小竹町1の61の1の江古田斎場で。喪主は妻祥子(よしこ)さん。 東京地裁判事、宇都宮地家裁所長、東京高裁判事などを経て1977年札幌高裁長官。78年に定年退官し、早大法学部客員教授(刑訴法)を務めた。池田内閣の政府要人殺害が計画された三無事件では、一審・東京地裁で裁判長を務め、破防法を初適用、起訴された12人のうち8人に有罪判決を下した。

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2013年2月 8日 (金)

学校教育法と武器輸出三原則について

学校教育法は、体罰を例外なく禁止している。愛情をもって殴れば合法、という見解は、学校教育法11条の解釈としては成立しえないし、人格育成のため必要最小限の体罰なら合法、という考え方も、学校教育法11条の解釈としては成立しえない。

もちろん、そのような考え方そのものを否定しているのではない。現行法の解釈としては容認できない、と言っているだけだ。だから、一定の範囲で体罰の合法化を主張することは自由だし、法改正を目指すことも自由だ。多数を取れば法律改正が可能になる。それが民主国家というものである。

前回書いたように、体罰を例外なく禁止するわが国の法律は、1879年(明治12年)に制定された。しかし、その時点から体罰は容認されていたし、今も容認されている。しかも、体罰をめぐる議論が喧しいにもかかわらず、学校教育法11条を改正すべきか否か、という議論は聞かない。つまり日本人は、体罰を例外なく禁止する法律を守る気が初めから無かったし、現に守らなかったし、実情に合わせて法律を改正しようという考えもない、ということになる。

ところで、2月初旬の各紙によると、安倍内閣は、自衛隊の次期主力戦闘機F35用として、日本国内で製造される部品の輸出を、武器輸出三原則の例外として認める方針を固めた。読売産経は賛成の論陣を張り、朝日毎日は反対している。

だが、武器輸出三原則という法令は存在しない。国是という意見もあるが、憲法にすら、武器輸出の禁止は規定されていない。実際、朝鮮戦争までの日本は、武器を輸出していたし、それが憲法違反とされることはなかった。

武器輸出三原則は、佐藤内閣以来の、歴代政府の見解にすぎない。法令でない以上、政府の見解といえども、国民を拘束することは、決してない。F35の部品がどういうものか不明だが、何にせよ民間が製造しているのであれば、これを規制するのは外為法であって、武器輸出三原則ではない。外為法上、輸出に政府の許可が不要であれば、政府に差し止める権限はないし、外為法上、輸出が政府の許可を要するのであれば、許可することができる。

ただそれだけのことである。武器輸出三原則は、関係ないのだ。

ところが各紙の主張を見ると、立場の違いこそあれ、武器輸出三原則の遵守を前提としたうえで、その例外のあり方や範囲について、議論している。

武器輸出三原則が最初に提言されてから40年以上経つ。その間、法制化する機会はいくらでもあった。われわれ日本人は、武器輸出三原則を法令化する気は全く無いのに、可能な限り遵守しようとしていることになる。

学校教育法を守る気が無い一方、法律ですらない武器輸出三原則を遵守しようとする日本は、とても不思議な国である。

そのような国家を、法治国家とは言わない。

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2013年2月 6日 (水)

「体罰禁止国」日本と民主主義の成熟と司法について

日本は法制上、「体罰禁止国」だ。

歴史的には、1879年(明治12年)の教育令46条が、「凡学校ニ於テハ生徒ニ体罰ヲ加フ可ラス」と定めた。これは教育先進国と言われるフランスより8年早いという。この体罰禁止規定は、こんにちの学校教育法11条「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは…懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」まで、途絶えることなく維持された。

しかし、昔の教育現場に体罰がなかった、ということでは決してない。体罰禁止規定の制定は、その必要があるほど体罰が蔓延していたことの何よりの証拠だし、「教員による児童・生徒に対する体罰は日常茶飯事であったものと推測される」(長尾英彦体罰概念の混迷中京法学44巻3・4)という。

これに対して、英国は法制度上、学校教師の体罰を容認していた。しかし、欧州人権裁判所で敗訴判決が相次いだため、体罰禁止立法が審議され、1989年、僅差で可決成立した。しかし全面禁止で運用してみると、いろいろ不都合があったのだろう。その後体罰必要論が高まり、2004年、一定の体罰を許可する法改正がなされた。これをうけ、体罰の手段方法や記録義務が詳細に定められ運用されているという。

民主主義の成熟度という視点から見ると、英国の方が、明らかに日本より優れている。なにより、法律は自ら作り守るもの、という意識が、揺るぎなく共有されているからだ。だからこそ、法律の不具合が明らかになれば、躊躇無く法改正を行う。日本人なら、法改正せずに、妥当な運用をすればいいじゃん、と考えがちだが、英国人はそうしない。

そしてもう一点、法律に対する異議申立が、改正の原因となっていることも、民主主義の成熟を示す重要な要素である。「欧州人権裁判所で(英国政府の)敗訴判決が相次いだ」という事実は、体罰を容認する法制度に対して異議申立を行った英国民が相当数いたことを示している。

「法律は守るべきもの」という意識と、「法律に対する異議申立をためらわない」という意識は、一見矛盾するように見えるが、成熟した民主主義社会において、この二つは矛盾なく両立しなければならない。国民自ら法律を作り、できあがった法律を、自らチェックして、必要があれば改正する。法律は、国民の手によって制定されたことだけではなく、国民自身による事後チェックと改正の可能性が留保されているからこそ、正統性と強制力を有するのである。

そして、法律に対する、国民による事後チェックの場を提供するのが、司法の役割にほかならない。司法は、議会と並び、民主主義を支える車の両輪なのである。

ところが日本では、体罰全面禁止法は無視され、司法には、これを糺す力も、法改正を促す力もない。英国から見たら、とても不思議な国に見えるだろう。

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2013年2月 4日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(18)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

「さつき会」と内藤頼博(1)

時計の針を、一旦昭和12年(1937年)まで戻す。登場演説事件の7年前だ。

当時29歳の内藤頼博は、ゴルフを始めた。

現在は考えられないことだが、裁判所のゴルフコンペが定期的に行われていた。場所は我孫子ゴルフ倶楽部。今でこそ名門だが、当時は、昭和6年に開場したばかりの新しいゴルフ場だった。

内藤[1]によれば、「裁判所のゴルフには、大審院の細野長良さん、井上登さん、梶田年さん、藤田八郎さんなどの鉾々たる方々が顔を揃えて毎回参加されました」という。

「そしてプレーが終わると、あとのパーティーでは決まって裁判所談議が始まり、話題はいつも司法省批判なんですね。本省本位の人事が間違っている。司法省が人事や待遇で各裁判所を地方の出先官庁並みに扱うのはおかしい。司法省は他の各省とは違う。司法部の使命は本来裁判にあるのだから、裁判所中心に運営されなければならないのに、これでは本末転倒だ。これが大審院を中心とする裁判所側の主張でした。」

「そんなお話を先輩諸公から繰り返し伺っているうちに、私もそのご意見に共鳴するようになった」という。

細野長良は後の「東條演説事件」で、裁判官としてただ一人、東條首相に対して抗議文を突きつけ、戦後初、そして最後の大審院長になる人物であり、梶田年は、「東條演説事件」のきっかけとなった翼賛選挙事件で、ただ一人選挙無効判決を書いた吉田久判事の陪席判事を務めることになる。井上登と藤田八郎は、後の最高裁判事である。

後の裁判所を背負って立つことになる裁判官達が、昭和12年当時、口々に述べていたのが「司法省からの独立」であった。

戦前、裁判所は司法省の管轄下にあり、裁判官の人事監督権は司法省が握っていた。歴代司法大臣には検事出身者が就任することが多く、無罪判決を出したため左遷される裁判官もあったという。また、裁判官から司法省入りすることは出世コースとみなされ、そのため、司法省におもねる判決を書く裁判官も多かった。家永三郎『司法権独立運動の歴史的考察』によれば、軍や政府、司法省の介入に抵抗した裁判官は極めて少数であり、大半は、時勢に従っていたという。

先の「翼賛選挙事件」において、軍から大審院に人事上の圧力がかからなかったことを指摘したが、これは、軍に対する関係では司法権の独立と言えるけれども、他方、政府(司法省)の官僚組織が軍の介入を拒んだ結果ともいえる。当時、官僚人事は天皇の大権に属するとされていたので、軍といえども口を出せなかったのだ。

それはさておき、内藤頼博は、当時の大先輩が口々に司法省からの独立を唱える様子を目にして、司法権独立への思いを強くしていく。

当時、その思いを共有する少壮裁判官の集まりが、「さつき会」であった。


[1]以下『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」より

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