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2013年3月 6日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(21)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

「さつき会」と内藤頼博(4)

 

「さつき会」は、当時の交通事情から当然のこととはいえ、東京の裁判官であることが事実上の会員資格であったし、部長クラスになると退会(卒業)するというルールを設けて若年性を保ち、活発な議論を行うためにと、会員の人数を十数人に限定していたという。現在もその傾向はあるが、当時、東京にいる若手裁判官というのは、それ自体エリートの証であった。そのエリート裁判官が司法省に反発したり、所長に楯突いたりしていたというのは、彼らの「下」にいる裁判官から、一種の嫉妬をもって見られたことは想像に難くない。「司法省入りを断る」という「さつき会」会員の「筋を通した」行動も、「司法省に入りたくても入れない」裁判官から見れば、嫌味なふるまいでしかない。吉岡進判事は、『橡の並木―裁判官の思い出』の中で、「(東京地裁所長の)佐々木(良一)さんが五月(ママ)会から白い目で見られていたことは公知の事実でした」と述べるとともに、「さつき会」を、「エリートたることを自負する人達の閉鎖的な集団となり仲間の結束は固く、新入会員については仲間の紹介により厳選するというふうに秘密結社みたいな感じを受けました」と、辛辣な感想を述べている。鈴木忠一判事は、「(戦争が終わって)南方から帰って来てみたら、その五月会所属の人も法務省におさまっているのでなるほど君子豹変かなと思った[1]」と皮肉たっぷりに述べている。これは、戦後すぐに司法省入りした内藤頼博らを名指ししているに等しい[2]

これほどあからさまな反発ではなくても、「われわれの世代には、どこか腫れ物に触れるようなそういう感じで『さつき会』というものが記憶にとどめられているのです」という高野耕一の感想は、多数の裁判官に共通するものだったのだろう。

「さつき会」は、戦前戦後を通じ、裁判所における内藤頼博の活動を支える核となった。だが、「さつき会」は多数の裁判官の支持を受けず、次第に孤立し、所属していた裁判官は戦後、冷遇された。畔上英治は、東京高等裁判所部総括判事であった昭和5012月、第二次家永教科書裁判で文部省側の控訴を棄却し家永三郎勝訴の判決を書くが、キャリアとしては横浜家庭裁判所所長で終わり、平成10年(1998年)726日、87歳の生涯を閉じた。三淵乾太郎の戦後のキャリアは浦和地方・家庭裁判所所長止まりであり、昭和60年(1985年)8月22日、78歳で死亡した[3]。父親が初代最高裁長官の三淵忠彦という抜群の血筋と、後述するとおり司法省から「総力戦研究所」に派遣された経歴に照らせば、ポスト的には物足りない。内藤頼博自身は、最高裁入りを噂されたものの、その一歩手前、名古屋高裁長官でキャリアを終えることになる。その背景には、「さつき会」や戦前戦後を通じての内藤の活動があったといわれている。

余談になるが、昭和16年、司法省が内藤頼博に半年間の米国視察を命じたのは、内藤に対する懐柔策でもあったのではないか、というのが、筆者の見立てである。内藤と同じころ司法省入りを断ったという三淵乾太郎も、昭和16年、裁判所の生え抜きエリートとして、政府主宰の「総力戦研究所」への出向を命じられ、日米戦争下における司法制度のシミュレーションを行った。これも、司法省側から見れば、「司法行政のおもしろさを体験してこい」という「親心」であったと思う。

「総力戦研究所」については、猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』に詳しい。各省庁から集められた若きエリート官僚が行った日米戦争のシミュレーションは、「緒戦、奇襲攻撃で勝利するが、国力の差から劣勢となり敗戦に至る」という、実際の戦況を見事に予測したもので、そのまま東條英機首相に報告された。

このころ内藤頼博は米国視察中であり、彼我の圧倒的な国力差を肌で感じていた。三淵乾太郎は各省庁の若手官僚と合議を重ねる中、およそ勝ち目がないことを確信していった。

昭和16年、若き司法エリート達は、開戦の前から、迫り来る敗戦を見据えていたのである。

 


[1] 鈴木忠一『橡の並木―裁判官の思い出』119

[2] 高野耕一は「はじめいわばアンチ司法省だった者が司法省に入った、君子豹変ではないか、とみる人もないわけではなかったでしょうね」という(『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」)

[3] 1985/08/24日本経済新聞朝刊「三淵乾太郎氏(みぶち・けんたろう=元浦和地・家裁所長)」22日午前1150分、急性心不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去、78歳。告別式は25日午後2時から東京都港区の聖アンデレ教会で。喪主は長男、力(ちから)氏。 初代最高裁長官三淵忠彦氏の長男。妻の嘉子さん(五十九年五月死去)は女性判事として初めて家裁所長を務めた。」

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