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2013年3月18日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(22)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(1)

内藤頼博らを発起人として、少壮裁判官の勉強会として発足した「さつき会」は、司法省による裁判所支配に反発して「司法権の独立」を唱え、自らは司法省入りという「出世」の誘いを断ったりしている。これらの抵抗運動は、行政機関である司法省の下部組織として裁判所が置かれていた明治憲法体制下において、行政と司法の分離を主張するものであるから、三権分立を明記する現代憲法の視点からすれば、是と評価すべき運動に見える。

しかし他方、「翼賛選挙事件」で無効判決を書く吉田久ら担当裁判官に対して、東條英機内閣が更迭等の人事権を行使し得なかった事実は、当時、軍部に対する関係では、司法権の独立が相当程度守られていたことを示している。

そうだとすれば、「さつき会」が「司法権の独立」を唱えて対立した相手は何なのか、が問い直されなければならない。われわれ戦後教育を受けた者は、戦前の政治を「軍部対非軍部」、と捉えがちだが、従前見てきたところによれば、司法権の独立は軍部との関係ではそれなりに守られてきたが、軍部以外によって冒されていた、といえそうだからである。

この点を論じるには、再度、明治、大正期に時計の針を戻さなければならない。考察の対象となるのは、平沼騏一郎である。

35代内閣総理大臣(昭和141月~)だった平沼騏一郎は、ソ連の脅威に対抗するためドイツとの軍事同盟を協議中、独ソ不可侵条約が締結され、828日、「欧洲の天地は複雑怪奇」という声明とともに総辞職した首相として知られる。つまり全然大したことない首相としてしか知られていない。しかし、平沼は司法の世界で隠然たる勢力を持ち、時にこれをあからさまに行使していた。平沼は軍部ともしばしば対立しており、開戦反対、あるいは終戦遂行に動いた元老とでもあるが、他方、「検察ファッショ」の担い手として、時の政党政治を崩壊に追い込んだ張本人でもあった。

そして、内藤頼博らは、軍というより平沼を敵視していたと思われるのである。

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