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2013年3月27日 (水)

自律送迎ロボットは郵便配達人の夢を見るのか

日立製作所は3月12携帯情報端末で指定した位置へ自律走行ができる任意地点自律送迎機能備えた一人乗りの移動支援ロボット「ROPITS開発したと発表した

同社が発表した写真をみると、一人乗りの小型自動車である。

ショッピングセンターに行くと、3歳未満児用の自動車型カートというのがあるけれど、それを大型にしたような形状だ。

解説によると、このロボットは様々なセンサと高機能GPS、そしてステレオカメラを備え、携帯端末で指定した地図上の任意地点まで歩道自律走行し、指定地点の誤差1メートル以内に到着できるという。すでに2011年よりつくば市のモビリティロボット実験特区で実験を重ね、歩行者や路面の凸凹を回避しつつ安定した走行ができるという。

日立は、この技術を物品の自動配送や人間の自動送迎に応用していくという。

なるほどすごい技術だとは思うが、法律的に見ると、技術が現実化するほど実施困難さが際立つようにも思う。

まずは道路交通法上の問題がある。ROPITSが同法上何に分類されるかは、よく分からない。報道資料上「歩道を走行」と明記しているのは、歩道を走行する以上道交法上の問題はない、という理解かもしれない。だが、仮にそうだとしても、物理的に通れない歩道に直面したときはどうするのだろう。つくば特区の歩道は広くて平らだろうが、お年寄りの多い町並みは概して古いので、狭かったり段差のあったりする歩道は多い。

なによりも問題なのは、安全性だ。ごく低速でしか走行しないだろうから、ROPITSが人を轢いたりはねたりということはないのだろうが、人を乗せて走行中に自動車に接触したり、転倒したりして乗員に怪我をさせる、ということはありうるだろう。その場合の法的責任を考えると、結構難しい。

また、「指定位置の誤差1メートル以内に到着できる」というのは、おそらく全く実用にならないレベルだ。例えばお年寄りが携帯端末上の地図から自宅を指でタップした場合、ROPITSが玄関先に来てくれることを期待している。だが、そのお年寄りが玄関先をタップしたとは限らないし、それどころか、隣の家をタップしてしまったかもしれないのだ。しかも、玄関先の形状や起伏によっては、お年寄りが安全に乗降する場所に停車するには10センチ単位の正確性が必要になるだろう。ROPITSが玄関先の階段に正確に横付けできなかったため、無理して乗り込もうとしたお年寄りが転倒して怪我をした場合、運行事業者は法的責任を免れない。

このような事故は、ゴルフカートの誘導システムと同様、道路に電線やセンサを敷設することによって、ある程度回避することができるし、街ごと電線を敷設しても、費用はさほどかからないと思う。ただ、それなら高機能の自律移動型ロボットを開発する意味があるのか、という話になってしまうのが、辛いところである。

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2013年3月25日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(23)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

平沼騏一郎と内藤頼博(2)

 

 

平沼騏一郎は慶応3年(1867年)928日に津山藩士の家に生まれた。坂本龍馬が大政奉還に向け、東奔西走していたころだ。明治11年(1878年)東京大学予備門に入り、帝大法科を明治21年に卒業。その後10年間判事職にあった[1]が、その間に大津事件(明治24年)が起きている。明治33年(1900年)に検事任官、明治42年(1909年)の日糖事件と、43年の大逆事件において中心的役割を果たし、司法部内の検察主導体制を確立する(児島惟謙没後100年記念シンポジウム―いま裁判員制度が日本に導入される意義―佐藤幸司)。当時の平沼を、弁護士会のある重鎮は「検察陣営ではもっとも鋭い頭脳と決断を持っている人で、弁護士陣営からすればおそるべき強敵である」[2]と評したという。明治44年(1911年)に西園寺内閣のもとで司法次官に抜擢され、大正元年(1912年)検事総長、大正10年(1921年)大審院長に就任。検事総長在任中の大正3年(1914年)、自ら指揮したシーメンス事件が第一次山本権兵衛内閣の総辞職をもたらし、翌大正4年(1915年)の大浦事件では、結果的に第二次大隈重信内閣の総辞職をもたらした。

 

思想的には国粋主義者とされ(現代で言うと、反米保守に分類されるのだろう。養子の平沼赳夫議員は思想的には正統な後継者と言えるかもしれない)、民主主義や共産主義、ナチズムなどの外来思想をすべて排斥し、軍部急進派ともたびたび対立した。大正15年(1926年)、国粋主義を掲げる政治結社国本社を創設し、その会長に就任している。副会長に東郷平八郎山川健次郎が就任。官僚では鈴木喜三郎塩野季彦小山松吉後藤文夫、軍人では宇垣一成荒木貞夫真崎甚三郎斎藤実、財界からは池田成彬結城豊太郎、学界からは山川健次郎古在由直らが会員となったとされ、政治的には平沼の支援団体として活動したとされる。ただ、こうやって著名人を列挙してみると、政治的に平沼と対立したり一線を画したりする者も見られるので、一概に支持者とは言えないかもしれない。

 

視点を司法に移すと、大正2年(1913年)、検事総長だった平沼は、政友会の領袖だった松田正久司法大臣と二人三脚で、司法部大改革と呼ばれる人事刷新を断行し、判事1129人と検事390人を更迭し、以後の司法省と大審院以下裁判所の人事に強大な影響力を及ぼした[3]。人事による裁判所支配と「平沼閥」育成の手法は、佐藤幸司によって、「例えば裁判官の中で使えそうな人を司法省に引っ張る、行政庁の場合は地位も給与も物すごいスピードで上がっていきます。そして偉くなって地裁所長や控訴院長などとして戻ってくる」[4]と描写されている。そうなれば、出世のために平沼派の顔色を窺う判事が続出するのも当然であろう。藤江忠三郎判事によれば、「(国本社)には所長とか地方裁判所の部長くらいまでは入っておりましたね。それは平沼さんがやっておられるから、入っている人びとのことばつきから、そう察しられましたしね。主義主張の如何に拘わらずそれにはいらなければまずいという、そういうことはあったようですね」という[5]

 

以上要するに、平沼騏一郎は、その率いる検察官僚を使って政党政治の暗部を容赦なく暴き出す一方、司法部内においては、人事権を行使して、自らの支持母体かつ権力の源泉としての陣容を整えようとしていた。その結果、平沼は政敵をスキャンダルで排除する実力を得るとともに、政治家は、検察が動くと戦々恐々として、平沼の意を受け入れることになる。今でいう「検察ファッショ」「国策捜査」を地で行った、憲政史上初の人物なのである。

 

 

 


 

[1]『私の会った明治の名法曹物語』小林俊三 日本評論社

 
 
 

[2]『私の会った明治の名法曹物語』小林俊三 日本評論社

 
 
 

[3] 新井勉『大正・昭和前期における司法省の裁判所支配』(日本法学773号 2011年)

 
 
 

[4]児島惟謙没後100年記念シンポジウム(関西大学)中での発言

 
 
 

[5] あの人この人訪問記

 
 

 

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2013年3月21日 (木)

『自由と正義』廃刊へ

日弁連(日本弁護士連合会)の機関誌『自由と正義』が今年度いっぱいをもって廃刊されることが、関係者への取材で分かった。

『自由と正義』は、日弁連創立の翌年である昭和25年(1950年)1月から毎月発刊されている機関誌。創刊号の表題は『日本弁護士連合會會誌』だったが、第9号より、『自由と正義』に変更された。有馬忠三郎初代会長は、創刊の辞において「全国六千の弁護士を包容する我が連合会は智能的自治団体として、国家権力の濫用を防止し、国民の自由と社会正義を顕現し得る最も実力ある存在となった」と高らかに宣言した。

しかし、平成20年ころから、「何となく薄くなってきた」とか「ページ数が減っただけでなく、影(存在感)が薄くなってきた感じがする」といった評価が出はじめた。「252月号の『即独・ノキ弁のいま』は面白かったが、自由や正義と関係あるのか」「良く言えば業界誌、悪くいえば内向きになっている」との評もある。「弁護士が増えすぎて、経済的な困窮が進んだため、年60万円から100万円超という高額な会費の使途に対する会員の目が厳しくなっている。そのため、ページ数が増えないよう努力しているし、会員の興味を惹く記事がどうしても増えるから、人権問題にばかりページを割けない」と、日弁連広報担当は語る。

『自由と正義』廃刊のもう一つの理由は、懲戒情報の激増。毎号巻末には弁護士登録・抹消・異動といった人事情報や、懲戒情報が掲載されているが、平成25年ころから、懲戒情報の掲載ページ数が激増。十頁を超える号もあり、「まるで弁護士による人権侵害情報誌。これでは『自由と正義』の名が泣く」との意見が強くなってきたのだ。

日弁連では今年度一杯で『自由と正義』を廃刊し、来年度は2分冊にして毎月発刊するという。1分冊目は弁護士の業務情報を中心に掲載し、2分冊目に人事・懲戒情報を掲載する。誌名は未定だが、1分冊目は『実務と法令』、2分冊目は『人事と懲戒』が有力という。

日弁連評論家の小林正啓弁護士「『実務と法令』? いいと思います。本棚の乾燥剤に使えそうだ」

注:この記事はフィクションです。実在する団体や個人とは、一切関係がありません。

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2013年3月18日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(22)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(1)

内藤頼博らを発起人として、少壮裁判官の勉強会として発足した「さつき会」は、司法省による裁判所支配に反発して「司法権の独立」を唱え、自らは司法省入りという「出世」の誘いを断ったりしている。これらの抵抗運動は、行政機関である司法省の下部組織として裁判所が置かれていた明治憲法体制下において、行政と司法の分離を主張するものであるから、三権分立を明記する現代憲法の視点からすれば、是と評価すべき運動に見える。

しかし他方、「翼賛選挙事件」で無効判決を書く吉田久ら担当裁判官に対して、東條英機内閣が更迭等の人事権を行使し得なかった事実は、当時、軍部に対する関係では、司法権の独立が相当程度守られていたことを示している。

そうだとすれば、「さつき会」が「司法権の独立」を唱えて対立した相手は何なのか、が問い直されなければならない。われわれ戦後教育を受けた者は、戦前の政治を「軍部対非軍部」、と捉えがちだが、従前見てきたところによれば、司法権の独立は軍部との関係ではそれなりに守られてきたが、軍部以外によって冒されていた、といえそうだからである。

この点を論じるには、再度、明治、大正期に時計の針を戻さなければならない。考察の対象となるのは、平沼騏一郎である。

35代内閣総理大臣(昭和141月~)だった平沼騏一郎は、ソ連の脅威に対抗するためドイツとの軍事同盟を協議中、独ソ不可侵条約が締結され、828日、「欧洲の天地は複雑怪奇」という声明とともに総辞職した首相として知られる。つまり全然大したことない首相としてしか知られていない。しかし、平沼は司法の世界で隠然たる勢力を持ち、時にこれをあからさまに行使していた。平沼は軍部ともしばしば対立しており、開戦反対、あるいは終戦遂行に動いた元老とでもあるが、他方、「検察ファッショ」の担い手として、時の政党政治を崩壊に追い込んだ張本人でもあった。

そして、内藤頼博らは、軍というより平沼を敵視していたと思われるのである。

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2013年3月13日 (水)

弁護士人口、初の減少へ

日弁連(日本弁護士連合会)によると、平成40年度末の弁護士人口は48865人で、昨年度を214人下回った。わが国の弁護士人口が減少するのは戦後初めて。

弁護士になるためには、司法試験に合格する必要がある。司法試験の合格者数は昭和36年(1961年)以降、毎年約500人だったが、平成3年以降、徐々に増やされてきた。そして平成13年(2001年)、「法の光を社会のすみずみに」のスローガンのもと、抜本的な司法制度改革がなされ、弁護士人口を「フランス並み」の5万人にするべく、平成22年以降の司法試験合格者数は年間3000人を目標とするとの閣議決定がなされた。

ところが、その後の司法試験合格者数は年間2000人で頭打ちとなる。弁護士需要が飽和し、司法試験に合格しても、法律事務所に就職できず、弁護士になれない者が続出したためだ。年間3000人の国家目標も平成25年には2000人に変更され、当初は平成32年に5万人に達するはずだった弁護士人口も、平成37年に延期された。

しかし、それでも弁護士数は伸び悩んだ。原因の一つは、弁護士登録者の減少にある。司法試験に合格しても、弁護士登録を志望せず、企業や官公庁に就職する学生が続出したのだ。平成28年以降は、2000人の司法試験合格者中、弁護士登録者は1000人前後となっている。「だって、就職できないし、就職しても食えないなら、弁護士になる意味ないっしょ」と、ある司法試験合格者(26歳男性)は断言する。

もう一つの原因は、弁護士登録抹消者の増加。高齢での死亡や廃業といった自然減のほかに、若年や働き盛りでの死亡や廃業が増加していることだ。登録抹消者数は、平成20年頃から増え始め、平成40年度年には年間1213人となった。特に、弁護士登録10年目未満の若手と、60歳以上のベテラン弁護士の登録抹消が目立つという。

平成40年度の弁護士登録抹消者数は1213人に対して、弁護士登録者は999人で、抹消者数を214人下回った。「来年度以降も登録抹消者数が登録者数を上回る見通し」(日弁連広報担当者)であり、政府目標の「弁護士人口5万人」は達成できないことがほぼ確実となった。これにより、平成13年の閣議決定による司法制度改革は、その基幹部分が失敗したことになる。

日弁連広報担当者によると、弁護士登録抹消理由のうち、病死や病気・高齢に次いで多いのは「業績不振による転職」と「うつ病」だという。登録抹消申請時期は、例年3月が多い。「4月から心機一転したいということかもしれないが、なぜ3月に多いのかは分からない」という。

日弁連評論家の小林正啓弁護士「なぜ3月の登録抹消申請が多いのかって?それは、スギ花粉症で憂鬱になる弁護士が多いからです(きっぱり)」

注;本エントリはフィクションです。

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2013年3月11日 (月)

原発事故による損害賠償請求訴訟とADRと日弁連

以前に書いたことの繰り返しなのだが、しつこく書いておく。

福島第一原発がメルトダウンを起こした後、多分4月か5月頃、私は、日弁連で唯一所属していた弁護士業務改革委員会のメーリングリストにこう書いた。「日弁連は、原発事故について東電と国を相手に損害賠償請求訴訟を起こす準備に入るべきであり、そのためまず、1億円くらいのコンピューターを購入すべし」と。

その趣旨はこうだ。原発事故の被害者は、数万人から数十万人(個人のほか法人も含めて)及ぶ。当時は関東一円の停電も検討されていたから、停電の被害者も含めると一千万人を超える。これらの人びとは、東電と国に対して損害賠償請求訴訟を起こす権利があるが、バラバラに起こしたのでは、東京地裁の建物をもう一つ建てても対応できないし、何より力が分散されてしまう。そこで日弁連が音頭を取って、数万人から数百万人の原告を属性に応じて分類し、原告団にまとめて訴訟を提起するのだ。そのためには膨大な数の原告と事件資料を整理する、高性能のコンピューターが必要である。費用など、当時なら、いくらでも調達できた。宇都宮健児会長(当時)以下、日弁連幹部が全国で募金活動を行えば、数億円を超える金を集められただろう。当時はそれほど、東電に対する怒りが沸騰していたと思う。この資金をもとに、最高の学者と、最高の技術者と、最高の弁護士を結集して、日弁連主導の訴訟を起こすのだ。

だが、私のメールは完全に無視された。1通だけ、「国民の支持を得ないから止めた方がよい」という、大手渉外事務所の女性弁護士から直メールが来ただけで、それ以外には何の反応もなかった。あとから聞こえてきたところによれば、日弁連業務改革委員会の内部では、私のメールはそれなりに話題になったらしい。だが、表だって返信するという選択は、なぜか誰一人、取らなかったということになる。

東電に対する賠償請求訴訟と国家賠償請求訴訟を起こすべきである、と主張したのは、当時、私一人ではなかったようだ。大阪弁護士会もと会長の某弁護士も、訴訟提起を主張したそうだ。だが、この主張は、日弁連中枢によって退けられた。その背後には、民主党の大物議員がいたとも聞く。彼らは、ADRの設置による被害者救済を主張し、この主張に基づいて、原子力損害賠償紛争解決センターが設立された。ADRとは、要するに話し合いの場である。ADR設置を進めた弁護士たちは、東電との話し合いで、被害者は救済されると考えたことになる。

しかし、事故から2年経った今日、ADRでの和解成立は、申立5659件に対して和解成立が1770件にすぎず、全体の3分の1弱にしかなっていない(福島民報)。さらに注目すべきは申立件数の「少なさ」であり、これは、このADRが被害者救済機関として、ほとんど期待されていないことを示している。

報道では、東電が素直に賠償に応じないことを非難するものが多い。しかし東電だって営利を追求する民間企業なのであり、その立場からすれば抵抗して当たり前だ。愚かなのは、東電が「私が悪うございました。被害を100%賠償いたします」と頭を下げ、被害者救済のためにはいくらでも身銭を切るという前提で、ADR設置を推進した日弁連幹部である。彼らは今まで弁護士として、社会のいったい何を見てきたのだろう。

「訴訟を起こすと言ったって、もし負けたらどうするんだ」という声もあろう。実際のところ、最高裁が日弁連と政府に対して非公式に、「訴訟を起こしても、被害者救済判決が出るとは限りませんよ」とのメッセージを送った、という噂もある。だが私は、2011年中に東電に対する数万人規模の訴訟を起こせば、裁判所は東電勝訴の判決を書けなかったと思う。書けば暴動が起こるからだ。

いま、東電との賠償交渉の埒が明かないことから、三々五々訴訟が提起されていると聞く。だが、バラバラで訴訟を起こしても、裁判所は通常の訴訟として淡々と対応するだけだし、東電勝訴の判決が出ても、暴動は起きない。

私は、日本の民主主義と日弁連は、原発事故を契機に遭遇した、大きなチャンスを逃したと思う。特に、日弁連は、おそらく最後のチャンスを逃したのだろう。

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2013年3月 8日 (金)

監視カメラによるデジタルサイネージ

株式会社日立ソリューションズは34日、監視カメラと顔認識技術を利用したデジタルサイネージソリューションの提供を開始すると発表した。

概要は、店舗の入り口に設置されたカメラで客を撮影して、性別や年齢層を判定するなどして、顧客の関心にあったイベントやキャンペーンの案内などを電子看板に表示するというものである。

たとえば、20代の女性が店に入ると、正面のモニターに、20代の女性に向けたセールの案内が表示される、というものである。

デジタルサイネージの未来形と言えば、映画「マイノリティリポート」の一場面が有名だ。これは、町中に設置された虹彩認証装置が個人を特定し、たちどころに店舗の壁面に広告を表示する仕組みである。逃亡中の主人公は、行く先々でデジタルサイネージから名前を呼ばれてしまうため、追っ手をまくために、目玉を闇医者に交換してもらうことになる。

さて、日立ソリューションズの発表は、もちろん、映画ほど先進的な仕組みではない。顔認証と行っても、性別と10歳刻みの年代を判定されるくらいのことなので、プライバシー権侵害の問題は発生しない。撮影した顔画像を録画してマーケティング等に使用する場合には、プライバシー権の問題が発生するけれども、顔画像は録画しないようである。

もっとも、顔画像は録画しなくても、来場者一人一人を特定するほどの分析値を保存し、リピしたときに分かるようにする、というのは、氏名等まで特定しなくても、プライバシー権侵害の問題は発生しうる。

また、この種のデジタルサイネージは、行き過ぎると一種の「お節介」になる。たとえば、ある種の女性が行く先々で「大きいサイズの婦人服売り場」を案内されたり、ある種の男性が養毛剤の広告ばかり見せられたりする場合だ。このとき客が感じる不快感は、今のところ法的問題とは認識されていないが、将来的には、検討の余地があるかもしれない。

 

 

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2013年3月 6日 (水)

内藤頼博の理想と挫折(21)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

「さつき会」と内藤頼博(4)

 

「さつき会」は、当時の交通事情から当然のこととはいえ、東京の裁判官であることが事実上の会員資格であったし、部長クラスになると退会(卒業)するというルールを設けて若年性を保ち、活発な議論を行うためにと、会員の人数を十数人に限定していたという。現在もその傾向はあるが、当時、東京にいる若手裁判官というのは、それ自体エリートの証であった。そのエリート裁判官が司法省に反発したり、所長に楯突いたりしていたというのは、彼らの「下」にいる裁判官から、一種の嫉妬をもって見られたことは想像に難くない。「司法省入りを断る」という「さつき会」会員の「筋を通した」行動も、「司法省に入りたくても入れない」裁判官から見れば、嫌味なふるまいでしかない。吉岡進判事は、『橡の並木―裁判官の思い出』の中で、「(東京地裁所長の)佐々木(良一)さんが五月(ママ)会から白い目で見られていたことは公知の事実でした」と述べるとともに、「さつき会」を、「エリートたることを自負する人達の閉鎖的な集団となり仲間の結束は固く、新入会員については仲間の紹介により厳選するというふうに秘密結社みたいな感じを受けました」と、辛辣な感想を述べている。鈴木忠一判事は、「(戦争が終わって)南方から帰って来てみたら、その五月会所属の人も法務省におさまっているのでなるほど君子豹変かなと思った[1]」と皮肉たっぷりに述べている。これは、戦後すぐに司法省入りした内藤頼博らを名指ししているに等しい[2]

これほどあからさまな反発ではなくても、「われわれの世代には、どこか腫れ物に触れるようなそういう感じで『さつき会』というものが記憶にとどめられているのです」という高野耕一の感想は、多数の裁判官に共通するものだったのだろう。

「さつき会」は、戦前戦後を通じ、裁判所における内藤頼博の活動を支える核となった。だが、「さつき会」は多数の裁判官の支持を受けず、次第に孤立し、所属していた裁判官は戦後、冷遇された。畔上英治は、東京高等裁判所部総括判事であった昭和5012月、第二次家永教科書裁判で文部省側の控訴を棄却し家永三郎勝訴の判決を書くが、キャリアとしては横浜家庭裁判所所長で終わり、平成10年(1998年)726日、87歳の生涯を閉じた。三淵乾太郎の戦後のキャリアは浦和地方・家庭裁判所所長止まりであり、昭和60年(1985年)8月22日、78歳で死亡した[3]。父親が初代最高裁長官の三淵忠彦という抜群の血筋と、後述するとおり司法省から「総力戦研究所」に派遣された経歴に照らせば、ポスト的には物足りない。内藤頼博自身は、最高裁入りを噂されたものの、その一歩手前、名古屋高裁長官でキャリアを終えることになる。その背景には、「さつき会」や戦前戦後を通じての内藤の活動があったといわれている。

余談になるが、昭和16年、司法省が内藤頼博に半年間の米国視察を命じたのは、内藤に対する懐柔策でもあったのではないか、というのが、筆者の見立てである。内藤と同じころ司法省入りを断ったという三淵乾太郎も、昭和16年、裁判所の生え抜きエリートとして、政府主宰の「総力戦研究所」への出向を命じられ、日米戦争下における司法制度のシミュレーションを行った。これも、司法省側から見れば、「司法行政のおもしろさを体験してこい」という「親心」であったと思う。

「総力戦研究所」については、猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』に詳しい。各省庁から集められた若きエリート官僚が行った日米戦争のシミュレーションは、「緒戦、奇襲攻撃で勝利するが、国力の差から劣勢となり敗戦に至る」という、実際の戦況を見事に予測したもので、そのまま東條英機首相に報告された。

このころ内藤頼博は米国視察中であり、彼我の圧倒的な国力差を肌で感じていた。三淵乾太郎は各省庁の若手官僚と合議を重ねる中、およそ勝ち目がないことを確信していった。

昭和16年、若き司法エリート達は、開戦の前から、迫り来る敗戦を見据えていたのである。

 


[1] 鈴木忠一『橡の並木―裁判官の思い出』119

[2] 高野耕一は「はじめいわばアンチ司法省だった者が司法省に入った、君子豹変ではないか、とみる人もないわけではなかったでしょうね」という(『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」)

[3] 1985/08/24日本経済新聞朝刊「三淵乾太郎氏(みぶち・けんたろう=元浦和地・家裁所長)」22日午前1150分、急性心不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去、78歳。告別式は25日午後2時から東京都港区の聖アンデレ教会で。喪主は長男、力(ちから)氏。 初代最高裁長官三淵忠彦氏の長男。妻の嘉子さん(五十九年五月死去)は女性判事として初めて家裁所長を務めた。」

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2013年3月 4日 (月)

司法試験受験生、UFOに拉致される?

515日、司法試験受験会場に向かう途中の受験生数十名が、全国各地で何者かに拉致され、数時間後に釈放された。健康上の被害は確認されていないが、いずれも司法試験を受験できなかった。

被害者の一人である丼上正仁さん(35歳、仮名)は、「試験会場まであと100メートルというところで、突然口をふさがれ、意識を失った。気がつくと自宅のベッドに寝ていたが、半日経っていた」と語った。

丼上さんは法科大学院を卒業した後、5年になる。「今年で受験資格が無くなるので、自信はありませんでしたが、最後の挑戦をするつもりでした。こんな結果になって残念です」と悔しがる。

犯人については、「心当たりがある」と丼上さんはいう。願書を出したあと、出身法科大学院に呼び出され、受験を断念するよう執拗に説得された。「説得に応じなかったから、強硬手段にでたのでは?」と語る。

司法制度改革によって全国に誕生した法科大学院だが、就職難などから志願者が激減し、大半が定員割れに陥っている。文科省は、ここ3年の司法試験合格率を基準に法科大学院の統廃合に乗り出すことになった。すると、卒業生に試験の受け控えをさせて合格率を上げようとする法科大学院が出てきたため、文科省は受け控え強要の禁止を通達している。

丼上さん出身の法科大学院は、本紙の取材に対し「受け控えの強要などしていないし、拉致などもってのほか」と回答した。しかし、同院の教授(61)は匿名を条件に取材に応じ、「丼上君は模擬試験の結果も最低ランクで、(司法試験の)合格可能性はゼロだった。本校出身の今年の受験生は丼上君をいれて5人。一人で2割も合格率が変動するときに、受かる気もないのに受験して合格率を下げ、母校を潰す気か」と怒りをあらわにした。

丼上さんは再受験を申請する予定。しかし、司法試験を管轄する法務省は「単に寝過ごしたのを拉致されたと弁解しているのではないか」とにべもない。

しかし、現場に偶然居合わせたロシア国営放送カメラマン撮影した映像によると、不鮮明だが、受験会場に向かって歩く丼上さんの背後から、銀色の物体が高速で近づき、一瞬で丼上さんを内部に引きずり込む様子が確認できる。丼上さんはこの映像を証拠に、拉致されたと主張していく考えだ。

映像を見た日弁連評論家の小林正啓弁護士「これは宇宙人が存在する決定的な証拠です!」

注;本エントリはフィクションであり、実在の個人・団体と一切関係ありません。

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