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2013年4月 8日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(24)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(3)

司法官僚から首相に上り詰めた男、平沼騏一郎は、司法省と裁判所に強大な人事権を獲得し、平沼閥ともいうべき支配網を張り巡らせるとともに、この力を背景に、政界に対して隠然たる影響力を保ち続けた。ちなみに、J.E.フーヴァーFBI長官に就任したのが1924年(大正13年)であり、期せずして東西の異能二人が同時期に登場し、同じような手法で政治的影響力を行使していることは、とても興味深い。

平沼が司法権力を背景に政界でのし上がった動機として、牧原出は、平沼が司法省入りしたのは、在学中に司法省より給費を得ていたためであって、「半ば不本意な入省は、平沼を既成の権威への反発へと駆り立て、日糖事件、シーメンス事件など汚職事件の容赦ない摘発による藩閥・政党・財閥への攣肘に遽進させた。[1]さらに、入省後制定・実施に参画した明治憲法下の数々の法律が、性急な西洋法の模倣であったことに対して、平沼は悔悟の念を募らせていく。その結果平沼は、司法官僚でありながら、法律よりも道徳を重視し、法律に没入しえない傾向を強くもった。自ら手がけた法律に依拠して司法省を主導しながら、その法律に対して飽き足らない思いを抱くというアンビバレントな法律観をもつにいたった(中略)ここから、平沼は、法律を道具とみて、それを外からとらえる政治感覚を育てていったといえるであろう[2]」と分析している。

平沼が司法官僚組織を背景に強大な政治権力を行使し得た背景には、平沼が愛し憎んだ明治憲法下の権力分立体制があった。明治憲法571項には、「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」とある。これによれば、司法権の行使は天皇の大権であり、立法府(政党)や軍は口を出せない。平沼は、この「司法権」を検察権力の行使と拡大解釈して定着させた。その結果、「司法部は…官僚閥・軍部・政党とならぶ、いわば第四の政治勢力となる。そしてそれに伴なって、『司法権の独立』は積極的な政治的意味をもつにいたる。平沼を先頭とする検察権の台頭は『司法権の独立』が『検察権の独立』を含むものとして観念せしめるに至る[3]」のである。

余談だが、現代の日本で政治腐敗の疑惑や重大事故が起き、マスコミが「司法は何をしている」と声を上げるときの「司法」は、警察や検察を意味する場合が多い。平沼騏一郎が定着させたという「司法」という言葉の用法は、現代日本に定着していることになる。

こうして、平沼が率いる司法省と検察権力は、当時の政党政治にとって、軍と並ぶ強敵となっていた[4]。どちらの権限も天皇大権に属するため、議会の力では倒せない強敵であった。軍部と司法省は必ずしも和せず、その意味で司法権の独立は保たれていたが、議会は、軍部と司法省とに挟撃され、その機能を失っていったのである。

戦後の昭和2010月、伊沢多喜男衆議院議員は岩田宙造司法大臣に対し、次の手紙を送っている。

「端的率直に言へは司法の革正は平沼(塩野)と闘ひ勝つにあり。山縣公も西園寺公も大正四年以来終生是を企図し遂に其目的を達成し得ずして死せり。拙生も大正四年以来今日まで悪戦苦闘を続け来れるも其効なし。拙生の親友等は『山県、西園寺両元老の力を以てしても成効せざりし難事を卿の微力を以てして如何ぞ是を達成し得べきぞ』と忠告するもの有之候。『予は成敗必しも顧みず君国の為には敢て蟷螂の斧を揮ふを辞せず』と答へて今日に至り候。此くて過去三十余年間に於て検事予審判事等の悪意の迫害を受けたること一再に止まらず又右翼暴力団、暴力軍人(例之ハマご二二六事件等〉の襲撃目標となれこと幾回なるを知らず。今日まで未決拘置を受けず又暗殺を免れたるは真に天祐神助と言ふの外なし。

予は加藤伯と苦節十年を共にせる間終始司法の革正を説き同伯は全然同意見なりしも護憲三派内閣成立の際には横田千之助を法相となすことを余儀なくせられ第二次加藤内閣に於て江木翼法相たりしも例の朴烈事件等にて傷けられ、浜口内閣に於ては渡辺千冬法相となり小原直次官たりしも小橋文相の越後鉄道問題、松島遊廓問題等続出し常に平沼、鈴木(喜三郎)等の司法部内の悪勢力の為メに苦められ爾来彼等の魔力は牢として抜くべからず。寔に痛嘆に堪えず候。(後欠)[5]

平沼は「最後の元老」西園寺公望に嫌われており、首相候補者すらなれずにいた。そこで、西園寺の支持母体である立憲政友会を潰すため、平沼が国策捜査をさせたとされるのが、帝人事件であった。


[1]「平沼回顧録」には、「この事件で初めて司法部は世に憚られるようになった」とある。

[2] 『宰相たちのデッサン』より

[3] 三谷太一郎著『近代日本の司法権と政党』

[4] 児島惟謙没後100年記念シンポジウムにおける三谷太一郎氏の発言

[5] 国立国会図書館 伊沢多喜男書簡より

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