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2013年4月15日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(25)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(4)

河合良成著『帝人事件 三十年目の証言』によると、帝人事件の概要は、こうである。

帝国人造絹絲株式会社(現帝人株式会社)の親会社であった鈴木商店は、1927年(昭和2年)の金融恐慌によって倒産し、同社の持つ帝人株20万株は、台湾銀行の保有するところとなった。台湾銀行は、台湾統治に伴い設立された国策銀行であり、第一次大戦下の投機的取引で莫大な利益を上げた鈴木商店に対し、当時の総貸出額の半分に当たる35000万円を貸し付けていた。そのため、鈴木商店の倒産は台湾銀行破綻の危機をもたらし、日本銀行の特別融資で救済された。このような事情から、台湾銀行は早期に帝人株を売却して、日銀特融の返済に充てる必要に迫られていた。

1933年(昭和8年)、永野護や河合らの仲介により、台湾銀行は保有する帝人株20万株のうち10万株を、市場価格をやや上回る価格で、生命保険会社や大阪の錦糸商らに売却することとなった。取引手数料20万円を永野が受け取り、うち17万円を正力松太郎に渡した。正力は言わずとしれた読売新聞の元社主だが、この時は、読売新聞社を買収したばかりで、輪転機の購入代金支払いにも苦労していたという。もっとも、正力はこの17万円のうち6万円を鳩山一郎に、5万円を実業家の藤田謙一に渡していた。

ところがその後、帝人の増資により、買い戻した帝人株が高騰した。そこで時事新報が政財界の癒着であるとの告発記事『番町会を暴く』を連載。「番町会」とは、永野護や河合らがメンバーとなっていた私的な勉強会である。この記事を受け、検察当局が、島田茂台湾銀行総裁を背任と瀆職で、河合ら財界人と大臣、大蔵官僚らを瀆職で逮捕し、16名が起訴された。河合によれば、台湾銀行の総裁は、株価高騰を知っていたのに高騰前に売却したのは背任で、他の者はその共犯もしくは瀆職という起訴事実だったという。

政治的には、現役閣僚の逮捕が齊藤實内閣の総辞職をもたらすことになった。齋藤五・一五事件で暗殺された犬養毅の後継として、西園寺公望らが推薦した、穏健派の海軍軍人である。当時枢密院副議長であった平沼騏一郎は首相就任を望んだが、西園寺に退けられたため、これを恨み、齋藤内閣瓦解をもくろんで捜査を進めたともいわれる。河合良成の前著によると、「司法部内における最大の巨峰平沼騏一郎氏(故人)を中心として、ときどき会合を催し、帝人問題、あるいはこれに対する方針を論議していた事実は確実にあった」という。

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