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2013年4月30日 (火)

内藤頼博の理想と挫折(27)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(6)

東京地裁刑事部で、帝人事件を担当したのは藤井五一郎裁判長である。藤井は言う[1][2]

「帝人事件は、血盟団(事件)が終ったあと間もなく、所長の三宅正太郎さんが私を呼んで、藤井君帝人事件をやってくれ、といわれて、くたびれていましたが、やれといわれるので受けたのです。そしたら陪席をどうするかということで、いや私は誰それとは選びませんと、所長に選定をお任せしました。」

「(帝人事件は)右陪席が岡咲恕一君、左陪席が石田和外君、それに神戸で判事補をしていた岸盛一君に補充判事として加わってもらった。この人選は私が希望したのではなく、お任せする、しかし、この事件が民事がかかったところがあるからというので、民事に明るい岡咲君が選ばれたのです。石田君などは、持病の盲腸が悪くなって仕事に差しつかえては困るというので、裁判前に入院して手術してとってしまうという風に、腰をすえてかかったものです」

藤井五一郎は明治25年(1892年)、山口県に生まれ、東京帝国大学卒業後判事になった。在任中帝人事件のほか、河上肇の治安維持法事件や血盟団事件を担当した。

岡咲恕一は明治34年(1901年)生まれ。広島高裁長官を最後に退官し、昭和59年(1984年)死去したが、昭和25年(1950年)に会社法の解説書を残している。「民事に明るい」という藤井の言葉は、当時岡咲が会社法や手形法の法理に詳しかったことを指すと思われる。

石田和外は明治36年(1903年)、福井県に生まれ、東京帝国大学法学部卒業後判事になった。昭和38年(1963年)から昭和44年(1969年)まで最高裁長官を務め、いわゆる「司法の危機」における最高裁側の当事者となった。剣道家としても知られ、一刀正伝無刀流第五代宗家である。

補充判岸盛一は明治41年(1908年)に生まれ、東京帝国大学法学部卒業後判事になった。昭和46年(1971年)、最高裁判所判事に就任している。

これら判事については追って述べることが多いと思うが、今指摘しておきたい点は二点ある。第一は、帝人事件に対して、裁判所はベストメンバーを選出して臨んだという点である。

そして第二点は、法曹以外の人には分かりにくいと思うが、帝人事件が機械的に配点されたのではない、という点である。少なくとも戦後の裁判所では、民事刑事を問わず、裁判所の恣意的な関与を防ぐ趣旨から、事件の配点は機械的に行われるのが原則である。戦前の裁判所でも、事件の効率的処理の見地から、機械的配点が原則だったはずだ。

だが、帝人事件に関して、時の東京地裁所長である三宅正太郎は、藤井五一郎を裁判長に、岡咲恕一らを陪席裁判官に指名した。したがって、この人事には一定の意図があったとみなければならない。では、この意図とは何か。

ごく単純に考えれば、当時の司法部を支配していた平沼騏一郎の意思を忖度した人事ということになる。しかし、実際の判決は、平沼のメンツ丸つぶれとなる全員無罪だから、この推定は当たらない。それならば、三宅はどのような意図で藤井を裁判長に据え、藤井はいかなる態度で帝人事件に臨んだのかが問い直されなければならない。

この点については、事件の配点を行った三宅正太郎東京地裁所長と、裁判長藤井五一郎に、もう少し迫ってみる必要があるだろう。


[1] 『血盟団・帝人事件などの思い出』(法の支配 19698月号)

[2] 『法窓風雲録(下)』75

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