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2013年4月30日 (火)

内藤頼博の理想と挫折(27)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(6)

東京地裁刑事部で、帝人事件を担当したのは藤井五一郎裁判長である。藤井は言う[1][2]

「帝人事件は、血盟団(事件)が終ったあと間もなく、所長の三宅正太郎さんが私を呼んで、藤井君帝人事件をやってくれ、といわれて、くたびれていましたが、やれといわれるので受けたのです。そしたら陪席をどうするかということで、いや私は誰それとは選びませんと、所長に選定をお任せしました。」

「(帝人事件は)右陪席が岡咲恕一君、左陪席が石田和外君、それに神戸で判事補をしていた岸盛一君に補充判事として加わってもらった。この人選は私が希望したのではなく、お任せする、しかし、この事件が民事がかかったところがあるからというので、民事に明るい岡咲君が選ばれたのです。石田君などは、持病の盲腸が悪くなって仕事に差しつかえては困るというので、裁判前に入院して手術してとってしまうという風に、腰をすえてかかったものです」

藤井五一郎は明治25年(1892年)、山口県に生まれ、東京帝国大学卒業後判事になった。在任中帝人事件のほか、河上肇の治安維持法事件や血盟団事件を担当した。

岡咲恕一は明治34年(1901年)生まれ。広島高裁長官を最後に退官し、昭和59年(1984年)死去したが、昭和25年(1950年)に会社法の解説書を残している。「民事に明るい」という藤井の言葉は、当時岡咲が会社法や手形法の法理に詳しかったことを指すと思われる。

石田和外は明治36年(1903年)、福井県に生まれ、東京帝国大学法学部卒業後判事になった。昭和38年(1963年)から昭和44年(1969年)まで最高裁長官を務め、いわゆる「司法の危機」における最高裁側の当事者となった。剣道家としても知られ、一刀正伝無刀流第五代宗家である。

補充判岸盛一は明治41年(1908年)に生まれ、東京帝国大学法学部卒業後判事になった。昭和46年(1971年)、最高裁判所判事に就任している。

これら判事については追って述べることが多いと思うが、今指摘しておきたい点は二点ある。第一は、帝人事件に対して、裁判所はベストメンバーを選出して臨んだという点である。

そして第二点は、法曹以外の人には分かりにくいと思うが、帝人事件が機械的に配点されたのではない、という点である。少なくとも戦後の裁判所では、民事刑事を問わず、裁判所の恣意的な関与を防ぐ趣旨から、事件の配点は機械的に行われるのが原則である。戦前の裁判所でも、事件の効率的処理の見地から、機械的配点が原則だったはずだ。

だが、帝人事件に関して、時の東京地裁所長である三宅正太郎は、藤井五一郎を裁判長に、岡咲恕一らを陪席裁判官に指名した。したがって、この人事には一定の意図があったとみなければならない。では、この意図とは何か。

ごく単純に考えれば、当時の司法部を支配していた平沼騏一郎の意思を忖度した人事ということになる。しかし、実際の判決は、平沼のメンツ丸つぶれとなる全員無罪だから、この推定は当たらない。それならば、三宅はどのような意図で藤井を裁判長に据え、藤井はいかなる態度で帝人事件に臨んだのかが問い直されなければならない。

この点については、事件の配点を行った三宅正太郎東京地裁所長と、裁判長藤井五一郎に、もう少し迫ってみる必要があるだろう。


[1] 『血盟団・帝人事件などの思い出』(法の支配 19698月号)

[2] 『法窓風雲録(下)』75

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2013年4月23日 (火)

悲しいことだ。一族から、タタリ神がでてしまった。 by乙事主

ボストン・マラソンの爆発事件の容疑者とされた兄弟のうち、418日、兄が殺され、弟が翌日逮捕された。AFP通信などによると、「フェンウェイ地区の通りには約200人が集まるなど、多数の市民が街中に繰り出し、口々に大声で『USA!USA!』と叫んだ」という。テレビニュースにも、警官やカメラに向かって手を振りガッツポーズをとる市民が多数写っていた。

この光景には、違和感を覚える。

安心したのは分かるが、なぜ喜ぶのだろう。犯人は宇宙人でも、敵対する外国からの潜入者でもなかった。歓喜する市民と同じ米国市民で、同じ街に住む若者だったのに。

10年間米国で暮らした、ごく普通の若者が、その住む街で自作の爆弾を爆発させ、3人を殺し、多数を傷つけた。その中に、兄弟の隣人や同級生がいるかもしれないということが、彼らを躊躇わせることすらなかったのだ。

タタリ神が一族からでたことを、乙事主は悲しんだ。一方、タタリ神に襲われ屠った村人も、喜びはしなかった。魂を鎮める塚を築き、タタリ神があらわれた原因を探るため、村長となるべき若者を旅立たせた。そりゃまあ、ここで村人が「ニッポン!ニッポン!」と歓喜にわいたのでは、5分で映画が終わってしまうけれども、筋書きとしては、「もののけ姫」の方が、よほど「自然」だと思う。自然というのはつまり、悪い現象には原因があるし、その原因は大概、現象面よりもっと悪い、という経験則上の確信のことである。

こう書くと、日本人論に行きがちだが、この感覚は、日本人独自のものではなく、人間が自然に備えている一種の第六感だと思う。その証拠に、「もののけ姫」は世界で公開されたし、「なぜあの若者は旅に出たのか?」という疑問が出たとは聞かない(開始早々こんな疑問を持ったら、その後2時間半、この映画に付き合うことは不可能だ)。それとも、タタリ神にかけられた呪いを解く、という、とってもプライベートな旅だったとでもいうのだろうか?

USA!」と叫ぶ米国市民は、おそらくとても大事なことを感じていないか、感じる能力を失っている。私が畏れるのは、感じて当然の恐怖を感じない市民が、実は直面している、本当の悪である。

 

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2013年4月22日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(26)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(5)

帝人事件は、台湾銀行の保有する帝人株売買をめぐる、時事新報の暴露記事『番町会を暴く』をきっかけに、首相を狙う平沼騏一郎が、政敵西園寺公望の支持母体である立憲政友会を潰すために利用したと言われている。東京地裁検事局検事正・岩村通世は「帝人株の売買だけでは起訴させない。背任に伴う贈収賄の汚職を出してこい」と捜査部検事に厳命したという[1]

しかし、商取引に関する検事の理解は低く、「不渡手形」を「フトてがた」と読む検事もいたという[2]

取り調べは苛烈を極めた。政財界のエリートに革手錠を嵌めて昼夜を問わず拷問まがいの取り調べを行い、関係者を次々と自白に追い込んでいった。「動くたびに革が皮膚に食いこみ、その痛さと苦しさは想像を絶するものがありました」と河合らは公判で訴えている。革手錠は本来、自殺防止のため用いられる道具であり、食事や用便に、多大な不便をもたらしたという。捜査主任の黒田越郎検事をはじめ、2人の検事が捜査中急死したことからしても、取り調べの苛烈さがうかがえる。

その黒田越郎検事は、取調中の河合良成に対して、こう語ったという。

「俺等が天下を革正しなくては何時迄経っても世の中は綺麗にはならぬのだ、腐って居らぬのは大学教授と俺等だけだ、大蔵省も腐って居る、鉄道省も腐って居る、官吏はもう頼りにならぬ、だから俺は早く検事総長になりたい、さうして早く理想を行ひたい」[3]

「検察ファッショ」とか「戦争への道筋をつくった」とかいうと、邪悪な集団が邪悪な意思のもとに卑劣な手段を用いたと思う人もいるだろうが、実際にはそうではない。正義感にあふれたエリートが、ありあまる権力を公の目的で行使したときに、悲劇への道が敷かれるのだ。


[1] 『最高裁物語 上』44

[2] 『三十年目の証言 帝人事件』96

[3] 『三十年目の証言 帝人事件』97

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2013年4月19日 (金)

未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命 片山杜秀

「バンザイ突撃」「カミカゼ攻撃」に代表される精神主義の権化に、太平洋戦争末期の日本軍が染まっていったのは何故か。通説は、「日露戦争以後の日本人は馬鹿だから」という司馬史観だが、本書は明快にそれを覆す。

大砲や機関銃が登場した後の近代戦は、すなわち物量戦であり、国家総力戦であることを、日露戦争当時から、日本の軍エリートは洞察していた。この洞察は、論理必然的に、「持たざる国」日本は、米英と戦争しても絶対に勝てない、という結論を導く。しかし軍たるもの、勝てないことを公言できない。陸軍きってのエリートだった小畑四郎は、短期決戦・包囲殲滅戦を陸軍教義とし、兵站(ロジスティクス)を完全に無視した。しかし小畑は、短期決戦・包囲殲滅戦では英米に勝てないことを重々承知しており、弱い国とのみ闘う前提で、この戦法を主張したのだった。しかし小畑は内部抗争に敗れ、その教義だけが陸軍に残る。

英米に勝てないなら、勝てる国力を付けるまで絶対に戦争をしない、という前提で満州開拓を主張したのが石原完爾であるという。石原も、国家総力戦とは産業力と技術の勝負であり、最終兵器で敵を凌駕した方が勝つ、という近代戦の行く末を正確に予見していた。しかし、石原が主導した満州進出は、結局列強との戦争リスクを高めることであったし、石原自身東條英機との権力抗争に敗れたため、「国力がつくまで絶対戦争はしない」という主張の根本が失われてしまう。

満州進出が戦争リスクを高めるなら、対外進出せずに得られる国力には限界がある。それなら、限られた国力を最大限有効に利用した軍隊を編成するしかない。宇垣一成陸将らの進めた軍縮も、軍の機械化を目指すものだったが、それを極端に推し進めようとしたのが酒井。トップエリートとして陸軍内部で一目おかれた酒井であったが、酒井の提唱で編成された、戦車2個大隊、自動車歩兵連隊、野砲兵、工兵等からなり、車輌744両を擁する日本初の機械化兵団は、その運用をめぐって大本営と対立し、最新化の不徹底もあって、失敗に終わる。

結局当時の軍は、英米と戦っても絶対に勝てないことを熟知しながら、それを公言できない故に、精神論に傾倒していく。かといって、英米との戦争を絶対に避ける方針で国家を運営することも、軍にはできなかった。明治憲法の定める国家体制は多元化された権力分立体制であり、国会が軍に口出しできなかったのと同様、軍も他の権力機関に口出しできなかったからである。ファシズムが権力一極集中体制を意味するなら、明治憲法体制は未完のファシズムであり、それが、無謀な戦争を避けられなかった一因ではないかと、片山は示唆している。

文章は平易で、論旨は明快である。明快すぎて、多少のツッコミどころはあるが、それは次回作に期待すべきなのだろう。戦前戦後史を学ぶには必読の一冊だと思う。司馬史観を覆したにもかかわらず、司馬遼太郎受賞というのも面白い。

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2013年4月17日 (水)

裁判官の減俸について

411日の各紙は、衆議院憲法審査会が憲法改正について議論した際、自民党、日本維新の会及び生活の党が、裁判官の報酬減額禁止を定めた憲法802項の改正を求める考えを示した、と報じた。

憲法802項第2文は、「(裁判官)の報酬は、在任中、これを減額することができない。」と定めている。法律家の間でも案外知られていないが、この条文は、戦前にもあった。裁判所構成法731項に「判事ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ處分ニ由ルニ非サレハ其ノ意ニ反シテ轉官轉所停職免職又ハ減俸セラルルコトナシ」とあるのがそれである。これを憲法に格上げしたのが、802項なのだ。

裁判所構成法時代も、判事の俸給を減額する事件があった。大恐慌後の昭和6年(1931年)、第二次若槻内閣において、全官吏の減俸が企図され、これにあわせて判事も減俸されることになった。多くの判事は裁判所構成法違反と反対し、一部にはストライキの動きさえあったが、政府は、判事全体の減俸は司法権の独立を害するものではなく合法との立場を取った。

現行憲法下でも、平成14年(2002年)と平成17年(2005年)、平成24年(2012年)に判事の俸給の減俸が実施されている。ここでも政府は、国家公務員全体の給与引き下げに伴い、一律に判事全体を減俸するものだから、司法権の独立を害さず、憲法違反ではないとの立場を取った(以上、『司法の位置づけと立憲主義の日本的位相』馬場健一)

もっとも、現行憲法と裁判所構成法を比較すると、「その意に反して」という文言が憲法にないこと、戦前の判事は終身制だったのに対し現行憲法下の判事は10年の任期制であること、を考慮すると、現行憲法下の判事の減俸は例外なく禁止されているとの解釈は成り立つ。かかる解釈上の疑義を避けるため、憲法80条2項を改正した方が良いというのが、自民党の意見のようだ。もっとも、これは建前であり、自民党の本音は、一票の格差訴訟について、最高裁に揺さぶりをかけるのが目的だろう。

さて、この改正案には、反対する法律家が大部分のようだし、私も、今回現実化する可能性は低いと考えるが、大きな視点で見ると、減俸禁止規定の改正はやむを得ないと思う。

その理由は第一に、長期的なデフレが当たり前の世の中が来ている以上、裁判官の給料だけを聖域にはできない、という点にある。

第二に、裁判官に行政官より高い給料を支払う実質的な根拠が見いだせない、という点にある。行政側敗訴の行政訴訟が多少増えてきたとはいえ、圧倒的多数は、行政判断の追認ばかりである。行政判断の追認しかしない裁判官が、行政官より高い給料をもらえる理屈はない。このスタンスが続く限り、裁判官の俸給は減額への道筋を辿るだろう。

改正反対者は、司法権の独立が守れない、と主張する。だが国民は、司法権が独立することで、なにか良い目にあっているのだろうか?そもそも、司法権は独立していたのだろうか?

その根本のところを問わずに、憲法を守れというお題目だけ唱えても、大きな流れに逆らうことはできないだろう。

 

 

 

 

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2013年4月15日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(25)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(4)

河合良成著『帝人事件 三十年目の証言』によると、帝人事件の概要は、こうである。

帝国人造絹絲株式会社(現帝人株式会社)の親会社であった鈴木商店は、1927年(昭和2年)の金融恐慌によって倒産し、同社の持つ帝人株20万株は、台湾銀行の保有するところとなった。台湾銀行は、台湾統治に伴い設立された国策銀行であり、第一次大戦下の投機的取引で莫大な利益を上げた鈴木商店に対し、当時の総貸出額の半分に当たる35000万円を貸し付けていた。そのため、鈴木商店の倒産は台湾銀行破綻の危機をもたらし、日本銀行の特別融資で救済された。このような事情から、台湾銀行は早期に帝人株を売却して、日銀特融の返済に充てる必要に迫られていた。

1933年(昭和8年)、永野護や河合らの仲介により、台湾銀行は保有する帝人株20万株のうち10万株を、市場価格をやや上回る価格で、生命保険会社や大阪の錦糸商らに売却することとなった。取引手数料20万円を永野が受け取り、うち17万円を正力松太郎に渡した。正力は言わずとしれた読売新聞の元社主だが、この時は、読売新聞社を買収したばかりで、輪転機の購入代金支払いにも苦労していたという。もっとも、正力はこの17万円のうち6万円を鳩山一郎に、5万円を実業家の藤田謙一に渡していた。

ところがその後、帝人の増資により、買い戻した帝人株が高騰した。そこで時事新報が政財界の癒着であるとの告発記事『番町会を暴く』を連載。「番町会」とは、永野護や河合らがメンバーとなっていた私的な勉強会である。この記事を受け、検察当局が、島田茂台湾銀行総裁を背任と瀆職で、河合ら財界人と大臣、大蔵官僚らを瀆職で逮捕し、16名が起訴された。河合によれば、台湾銀行の総裁は、株価高騰を知っていたのに高騰前に売却したのは背任で、他の者はその共犯もしくは瀆職という起訴事実だったという。

政治的には、現役閣僚の逮捕が齊藤實内閣の総辞職をもたらすことになった。齋藤五・一五事件で暗殺された犬養毅の後継として、西園寺公望らが推薦した、穏健派の海軍軍人である。当時枢密院副議長であった平沼騏一郎は首相就任を望んだが、西園寺に退けられたため、これを恨み、齋藤内閣瓦解をもくろんで捜査を進めたともいわれる。河合良成の前著によると、「司法部内における最大の巨峰平沼騏一郎氏(故人)を中心として、ときどき会合を催し、帝人問題、あるいはこれに対する方針を論議していた事実は確実にあった」という。

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2013年4月12日 (金)

『逆説の昭和史』 井上寿一

KindleiPadにインストールして、初めてダウンロードした電子書籍。

「スリルとサスペンスに満ちあふれた昭和史の読み物を目指している」、というだけあって、すらすら読めて面白いが、内容は深い。

各章には、「戦争を支持したのは労働者、女性、農民だった」など、刺激的な表題が並ぶ。戦争は、男性労働力の不足と、農工業生産を上げる必要性から、労働者と農民の賃金上昇や女性の地位向上、社会進出をもたらした。また、文中には戦争景気を喜ぶ小林一三(阪急電鉄創始者)のコメントも引用されている。要するに、日中戦争から太平洋戦争へ進む課程は、国民全体の歓喜と支持の課程でもあった。

戦争に対するこのような態度は、当時の日本国民としては、特異なことでも不自然なことでもない。第一次大戦以降の総力戦が、国家国民に悲惨な損害をもたらすことを日本国民が知ったのは、第二次世界大戦後だったからだ。

先の敗戦は、東条英樹をはじめとする、悪意に満ちた陰謀の結果であり、国民はだまされたか、否応なく巻き込まれたとする史観は、未だ根強い。だが、それが間違いであることは、多くの国民が気づき始めている。同様に、明治の元勲は優れていたが、昭和のリーダーは馬鹿ばっかり、という「司馬史観」も、間違いである。本書各章は、節目節目の首相らを主人公に進行するが、東条英樹を含む全員が、厳しい環境の中で、職責に応えようと最善を尽くし、それでも、最悪の結果を避けられなかった。その失敗の課程を、本書は客観的に、しかしダイナミックに論述していく。

弁護士業界においては、中坊公平が弁護士を裏切ったのだとか、愚息に跡を継がせたい弁護士が司法改革を推進したのだとか、そのために多くの弁護士がだまされ、あるいは否応なく巻き込まれたのだという言説が、未だに多い。だが、この史観は間違いである。間違った史観で歴史を見る最大のデメリットは、何の役にも立たないことだ。拙著『こんな日弁連に誰がした』で、そのあたりはずいぶん強調したつもりだが、未だに「陰謀史観」や「悪者史観」「被害妄想」から抜けられない弁護士の多いのは嘆かわしい。

もっとも、リーダー個人に悪意はなく、全力で最善を尽くしたとしても、じゃあ誰が(なにが)悪かったのか?という問題は残る。本書はそのあたりにふれておらず、惜しい限りである。

拙著『こん日』でも、「なにが悪いのか」については、断言できていない。拙著を読んだ大阪大学工学部の教授は、私に「組織のトラウマですね」と言ってくれた。いい言葉だと思う。

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2013年4月10日 (水)

アシモフを超えて:ロボット法の制定に向けた議論のいま

下記はWIRED.CO.JPというイギリスの雑誌に、2013年2月18日寄稿された記事を邦訳したものです。一部かなり意訳しているので、必要なら原典にあたってください。

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EUは、新興ロボット技術を管理するために必要な法と規制に関して、ロボット技術者や法律家、哲学者のチームに提言をさせるため、150万ユーロを用意した。

グーグルのロボットカーを作れば、世界を驚かせることは簡単だ。だが、イタリア・セントアンナ大学教授であるペリクル・サルビーニ博士の仕事は、ロボット技術の哲学的・法的意味について、問題提起をすることにある。それは、例えばこういうことだ。もしロボットカーが事故を起こしたら、誰が責任を負うのか。ドライバーか、グーグルか、それとも、ロボットカーそのものだろうか。

サルビーニ博士は言う。「ロボットはもはや、SFではありません。工場を出て、家庭に到着しているのですから。このロボットを適切に取り扱うためには、アシモフのロボット三原則は、もはや十分ではありません。」

サルビーニ博士は、このユニークなプロジェクトの一環として、ロボット技術者、法律家そして哲学者を欧州(オランダ、ベルリン、イタリア)の大学から招聘している。彼らは1年後に、欧州委員会に対して、ロボットの技術管理に必要な法律や規制に関する提言を行うべく、議論を重ねている。

イタリア・セントアンナ大学のベルトリーニ博士は言う。「グーグルカーは、冷蔵庫やワープロと大差ない工業製品なのか、それとも、所有者が責任を負うペットのような存在なのだろうか?あるいは、子どものやったことについて、親が多少の責任を負うような関係なのだろうか。ロボット法の研究は、このような問題に取り組むことになります。」

サルビーニ博士は、「誰が責任を負うか決めるのは、難しいことですが、これこそ、このプロジェクトが取り組もうとしていることです。車の中にいる人も外にいる人も、全ての人の安全を保証するためには、この問題を解決しなければなりません」と言う。

このプロジェクトが直面する最初の問題は、ロボットとは何か?という点だ。

ロボット工学の父と言われるジョセフ・エンゲバーガー博士は、「私はロボットとは何かを定義することはできない。だが、『これはロボットだ』と言うことはできる」という。つまり、ロボットは定義ができないほど、千差万別ということだ。そこで、プロジェクトは設立当初より、あらゆる種類のロボットを対象としている。サルビーニ博士によれば、プロジェクトが対象とするロボットは、脳とコンピューターを直接接続したロボットから、家庭や都市、公共空間で操作されるサービスロボットを含む、ということだ。

プロジェクトの次の仕事は、ロボット技術に適用される既存の規制は何か、国家間で異なる状況は何か、そして、他の分野で何が起こりつつあるかを調査することにあった。その結果は、ロボット技術者、法律家と哲学者によって、将来起こりうる問題に対するケーススタディとしてまとめられている。現在、その内容は秘密とされているが、1年後の欧州委員会において、結論が提示されるだろう。

いくつかのロボット技術はすでに、既存規制との関係が問われている。サルビーニ博士がピサ近くの小さな町でテストしているDustBotプロジェクトがそうだ。これは、ゴミを自動的に収集するロボットのシステムである。

「われわれは、イタリアの小さな町で実験を行いましたが、たった二ヶ月で気づいたことには、保険会社から町役場から地元の人びとに至るまで、誰も対処する方法を知らなかった、ということです。つまりロボット工学は、実験室を一歩出たとたん、社会的法的にどう扱えば良いか、分からなくなってしまうのです」(サルビーニ博士)

一方、ベルトリーニ博士にとって大きな問題の一つはプライバシーだ。「ロボットが家庭に入り、機能するためには、ロボットが私たちのプライバシー情報を受け取り、私たちが誰であるか、何をしているかを知る必要があります」。

ベルトリーニ博士が指摘するもう一つ問題は、「ロボットが従うべきルールをどうやって作ったらよいか」ということだ。「ロボットは人間と同等の権利を保障されるべきだという学説もあります。あなたはロボットをどう扱いますか?ペットと同じといっても良いですが、あなたのペットが他人に損害を与えたら、責任を負うのはあなたなのですよ」と、ベルトリーニ博士は言う。

「これは大変微妙な問題です」と彼はいう。「これらの議論の中から出てきた規律は、今後、新しい技術が採用され拡散する領域に、さまざまな影響を与えるでしょう。」

ベルトリーニ博士は、リスクに対処する各国法制度の違いについても言及した。「未知のリスクに直面するとき、欧州では伝統的に予防原則を採用し、しかも、その技術が害を及ぼすか否かについて科学的裏付けに乏しい場合、より厳しい規制を課す傾向にあります。他方、米国は異なる原則、事後救済としてよく知られた原則を採用しており、特に大企業に対する訴訟の場合には、多数の個別訴訟またはクラスアクションが起こされ、陪審による極めて高額の損害賠償が命じられることになります」という。

ベルトリーニ博士はこう付け加えた「ロボット技術は、訴訟の頻発を招きかねない未知のリスク問題を提起することは間違いありません。だからこそ、RoboLawプロジェクトの取組が正当であり、必要なのです。」

いずれにせよ、グーグルカーのような自律走行車に撮って最大の問題は、他のドライバー全てについて、その挙動を予測することが不可能である以上、完全な安全保障はあり得ない、ということだ。

ヴュルツブルク大学ロボット権利研究所のスザンヌ・ベック博士によると、ロボットによって惹き起こされるいくつかの問題は、既存の法律で解決可能だが、速やかに立法措置を講ずべき部分もあるという。たとえば、病院や老人宅で収集された個人データをどう扱うべきかという問題や、自律走行車が事故を起こした場合の法的責任に関する法規定は存在しない。

鍵となる問題は、これらの問題に対する国民的関心や議論がないことだ。「多くの国民が、私たちの仕事をSFの世界のことだと考えているが、実際にはわれわれの社会が今直面していることなのです」とベック博士は説明する。「現在、多くは密室で進行中の研究と、ロボット技術の持つ潜在的能力を社会に対して説明する必要があります。」

「結局のところ、法律家は社会に代わって決定することは出来ません。どのロボットを受け入れるか、どのリスクを取るか、ロボットがもたらした損害について、誰が責任を取るのかを最初に決定するのは、社会それ自身であるべきだからです」と彼女は警告する。

RoboLawプロジェクトは、新興ロボット技術に対する先制的な関わりとして、非常に意義があります」と、シェフィールド大学のノエル・シャーキー教授はいう。「インターネットが急激に発展したとき、私たちは不意を突かれた。インターネットは、余りにも急激に普及したので、われわれはその意味を考える時間すらなかった」

シャーキー教授によると、ロボットに対する規制は、既存の法律の解釈・運用の問題としての側面が強く、新しい法律の制定はできる限り避けるべきだという。彼は、自律走行車を規制する拙速な立法には批判的だ。

しかし、彼が考える最大の問題は、「このプロジェクトの限界を超えたところにある」。軍事や国家安全保障に関わるロボット技術の急速な発展だ。民生用ロボットに関する問題は、子どもと高齢者をケアするロボットについて生じるが、法制度はこれらの問題に対応していない。

「確かにプライバシーや法的責任論も重要ですが、個人の自由や人間の尊厳や精神的存在価値について、より検討されるべきです」と彼はいう。「規制は人間を保護や時に脆弱性のため必要だが、技術革新を妨げないよう注意しなければならない」

最後に、と彼は付け加え、「最新技術やその応用技術に対抗する規制を将来に亘って確立することは困難です。WWWで経験したように」

ベルトリーニ博士も、従来の規制はもはや適切ではないだろうということに同意しつつ、「イタリアの法律は1940年台に出来たのに、今日の問題を解決できる」と指摘した。

しかし、サルビーニ博士は、技術が先行して、その結果を前提に法律を作るという怠惰な態度で良いのかと心配している。

インターネットが発明されたわずか20年の間に、著作権や名誉毀損などに関して、多くの法律を適用してきたことを考えるなら、怠惰と非難されるべきは、少なくともロボット技術者ではないように思われる。

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2013年4月 8日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(24)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(3)

司法官僚から首相に上り詰めた男、平沼騏一郎は、司法省と裁判所に強大な人事権を獲得し、平沼閥ともいうべき支配網を張り巡らせるとともに、この力を背景に、政界に対して隠然たる影響力を保ち続けた。ちなみに、J.E.フーヴァーFBI長官に就任したのが1924年(大正13年)であり、期せずして東西の異能二人が同時期に登場し、同じような手法で政治的影響力を行使していることは、とても興味深い。

平沼が司法権力を背景に政界でのし上がった動機として、牧原出は、平沼が司法省入りしたのは、在学中に司法省より給費を得ていたためであって、「半ば不本意な入省は、平沼を既成の権威への反発へと駆り立て、日糖事件、シーメンス事件など汚職事件の容赦ない摘発による藩閥・政党・財閥への攣肘に遽進させた。[1]さらに、入省後制定・実施に参画した明治憲法下の数々の法律が、性急な西洋法の模倣であったことに対して、平沼は悔悟の念を募らせていく。その結果平沼は、司法官僚でありながら、法律よりも道徳を重視し、法律に没入しえない傾向を強くもった。自ら手がけた法律に依拠して司法省を主導しながら、その法律に対して飽き足らない思いを抱くというアンビバレントな法律観をもつにいたった(中略)ここから、平沼は、法律を道具とみて、それを外からとらえる政治感覚を育てていったといえるであろう[2]」と分析している。

平沼が司法官僚組織を背景に強大な政治権力を行使し得た背景には、平沼が愛し憎んだ明治憲法下の権力分立体制があった。明治憲法571項には、「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」とある。これによれば、司法権の行使は天皇の大権であり、立法府(政党)や軍は口を出せない。平沼は、この「司法権」を検察権力の行使と拡大解釈して定着させた。その結果、「司法部は…官僚閥・軍部・政党とならぶ、いわば第四の政治勢力となる。そしてそれに伴なって、『司法権の独立』は積極的な政治的意味をもつにいたる。平沼を先頭とする検察権の台頭は『司法権の独立』が『検察権の独立』を含むものとして観念せしめるに至る[3]」のである。

余談だが、現代の日本で政治腐敗の疑惑や重大事故が起き、マスコミが「司法は何をしている」と声を上げるときの「司法」は、警察や検察を意味する場合が多い。平沼騏一郎が定着させたという「司法」という言葉の用法は、現代日本に定着していることになる。

こうして、平沼が率いる司法省と検察権力は、当時の政党政治にとって、軍と並ぶ強敵となっていた[4]。どちらの権限も天皇大権に属するため、議会の力では倒せない強敵であった。軍部と司法省は必ずしも和せず、その意味で司法権の独立は保たれていたが、議会は、軍部と司法省とに挟撃され、その機能を失っていったのである。

戦後の昭和2010月、伊沢多喜男衆議院議員は岩田宙造司法大臣に対し、次の手紙を送っている。

「端的率直に言へは司法の革正は平沼(塩野)と闘ひ勝つにあり。山縣公も西園寺公も大正四年以来終生是を企図し遂に其目的を達成し得ずして死せり。拙生も大正四年以来今日まで悪戦苦闘を続け来れるも其効なし。拙生の親友等は『山県、西園寺両元老の力を以てしても成効せざりし難事を卿の微力を以てして如何ぞ是を達成し得べきぞ』と忠告するもの有之候。『予は成敗必しも顧みず君国の為には敢て蟷螂の斧を揮ふを辞せず』と答へて今日に至り候。此くて過去三十余年間に於て検事予審判事等の悪意の迫害を受けたること一再に止まらず又右翼暴力団、暴力軍人(例之ハマご二二六事件等〉の襲撃目標となれこと幾回なるを知らず。今日まで未決拘置を受けず又暗殺を免れたるは真に天祐神助と言ふの外なし。

予は加藤伯と苦節十年を共にせる間終始司法の革正を説き同伯は全然同意見なりしも護憲三派内閣成立の際には横田千之助を法相となすことを余儀なくせられ第二次加藤内閣に於て江木翼法相たりしも例の朴烈事件等にて傷けられ、浜口内閣に於ては渡辺千冬法相となり小原直次官たりしも小橋文相の越後鉄道問題、松島遊廓問題等続出し常に平沼、鈴木(喜三郎)等の司法部内の悪勢力の為メに苦められ爾来彼等の魔力は牢として抜くべからず。寔に痛嘆に堪えず候。(後欠)[5]

平沼は「最後の元老」西園寺公望に嫌われており、首相候補者すらなれずにいた。そこで、西園寺の支持母体である立憲政友会を潰すため、平沼が国策捜査をさせたとされるのが、帝人事件であった。


[1]「平沼回顧録」には、「この事件で初めて司法部は世に憚られるようになった」とある。

[2] 『宰相たちのデッサン』より

[3] 三谷太一郎著『近代日本の司法権と政党』

[4] 児島惟謙没後100年記念シンポジウムにおける三谷太一郎氏の発言

[5] 国立国会図書館 伊沢多喜男書簡より

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2013年4月 5日 (金)

日弁連は、沈黙すべきである(3/3)

 本稿は、大阪弁護士会月報の本年3月号「法科大学院についての私の考え(連載6回)」の第6回掲載記事に、若干の加除をして転載したものです。

 

われわれの為すべきこと

 

帝国憲法が施行され、近代司法制度が導入された明治24年当時、弁護士志望者は判検事志望者と別の国家試験を受け、帝大法科卒は試験を免除された。大正12年に統一試験となるが、修習は判検事のみだった。弁護士修習は昭和8年に制度化されるが、判検事と別で、給費もなかった。統一修習と給費制が実現するのは、占領下である。

その給費制は、60余年の生涯を終えた。司法研修所は、事実上の分離修習となり、廃止に向かうだろう。戦後の法曹養成制度は崩壊し、明治初期に向かって巻き戻りつつある。法科大学院問題は、その一場面にすぎない。混乱が収まったとき、予備試験は事実上、判検事と大手法律事務所の採用試験になり、上位法科大学院卒業生は、帝大法科卒と同様、弁護士資格を事実上約束されているだろう。

敗戦後、国家財政が破綻した中で、なぜ民間人の弁護士養成費まで国が出すのか、と抵抗する大蔵省[1]を、「弁護士は国家事務を行う国家機関だから」と説得して、給費制を実現させたのは、GHQでも弁護士会でもなく、内藤頼博を中心とする日本人判事だった。戦前政党政治の勃興と崩壊を目の当たりにした内藤らが目指したのは、健全な民主主義の担い手にふさわしい政治的実力を備えた司法であり、政治的実力の源泉となる法曹一元であり、法曹一元を体現する統一修習と給費制であった。

しかし、統一修習と給費制を終焉に導いたのは、皮肉にも戦後修習を受けた先輩弁護士だった。彼らは、冷戦後も、臨司路線とイデオロギーの頚木に囚われ、法曹三者内部のいがみ合いに終始し、「国家機関」としての無自覚と無能力を露呈したため、司法改革の当事者から放逐されたのだ。しかも、この屈辱的な敗北の歴史を封印し、書き換えて[2]、勝った勝ったと喧伝している。焼け跡の中で先達が未来に託した悲願が、踏みにじられているというのに。

 

われわれが為すべきなのは、非現実的な政策論を闘わせることではない。封印を剥がして歴史を学び、次代の法曹に語り継ぎ、ともに考えることだ。司法が民主主義を担うことの意味と、国家機関としての弁護士の役割とは何か。その答えに到達しない限り、法曹養成問題の解は見つからないし、日弁連が司法改革の当事者となる日は二度と来ないだろう。

 

 


[1] 給費制は当時の政府に「当然のこととして受け入れら れ、誰も異論を唱えていない」という『日弁連二十年』の記述は誤りである。

[2]『日弁連五十年史』では、平成6 12 21 日総会の「800 人決議」の事実が抹消されている。

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2013年4月 4日 (木)

日弁連は、沈黙すべきである(2/3)

 本稿は、大阪弁護士会月報の本年3月号「法科大学院についての私の考え(連載6回)」の第6回掲載記事に、若干の加除をして転載したものです。

 

法曹養成制度の未来

 

注目すべきは予備試験だ。昨年度予備試験合格者中、現役大学生の最終合格率ほぼ100%という事実は、登竜門としての存在を知らしめた。今後、日本のトップエリートを目指す大学生は、在学中に予備試験を受けるし、もし落ちても法科大学院に行かない。行っても二番手止りだからだ。法科大学院から優秀者が消えるため、予備試験合格者への、熾烈な青田刈り競争が始まる。司法試験を所轄する法務省は、人材確保のため、最高裁の支持を得て、予備試験枠を拡大するだろう。司法研修所では、予備試験組しか判検事になれないから、教官らも、その前提で処遇する。事実上の分離修習である。

予備試験枠が200名になれば、最高裁にとって、司法研修所は不要になる。予備試験組の最高裁事務総局付判事が「デキの悪い1800人に出す予算があるなら、判事補100人の養成に使うべきだ」と言い出すのは、時間の問題だ。下位合格者は弁護士以外に職を求め、研修所にすら行かない者も増えて、不要論に拍車をかけるだろう。すでに、裁判所と検察庁は、立派な研修施設を擁している。

他方、法科大学院組も、上位合格なら厚遇が期待できるから、「司法試験」より「合格順位」が重要になる。上位校では、合格率の高さが優秀な学生を集め、さらに合格率を高める好循環となり、修了一年目の合格率が89割に達する。優秀者が上位校に集中する結果、合格率7割以上を保つ法科大学院は30校以下、そのうち、上位者輩出校は10校以下になるだろう。その他の多くは廃校するだろうが、もともと合格率ゼロだから、法曹養成と無関係である。

つまり、日弁連が発言しても沈黙しても、法科大学院は、実質、半数以下に減る。優秀な学生と教員が集中することにより、教育の質は向上するし、奨学金等の支援も集中するから、人材の多様性(南[1])も確保できる。最優秀の学生が来ない点を除けば、当初の理念が実現するわけである。

めでたし、めでたし。

 


[1] 南和行弁護士 本連載第3回(12月号)執筆者

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2013年4月 3日 (水)

日弁連は、沈黙すべきである(1/3)

 本稿は、大阪弁護士会月報の本年3月号「法科大学院についての私の考え(連載6回)」の第6回掲載記事に、若干の加除をして転載したものです。

 

問題の所在と私見

 

法科大学院制度は、次代の司法を支える優秀な法曹を多数養成する目的で構想された。

しかし、法曹志望者は減少の一途を辿っている。法科大学院の今年の入学者総数は、司法試験合格者数目標値の3000人を下回るだろう。 2000人割れも時間の問題だ。法科大学院の大半が定員割れで、廃校も出ている。大学入試でも、法学部の人気低下と志望者の学力低下が顕著(河合塾の分析)だ。

つまり法曹は、優秀な学生から見放されつつある。理念(宮本[1]、平野[2])や利点(広瀬[3])を並べても、教育内容をどれほど工夫しても、優秀な人材なくして優秀な法曹は生まれない。法科大学院は明らかに、その目的に背馳している。

そこで日弁連内には、法科大学院全廃説と、校数・定員数削減説が対立している。

しかし、私はどちらも支持しない。日弁連は、沈黙すべきである。

 

全廃説と削減説に対する批判

 

全廃説最大の欠点は、分かりにくさだ。法曹志望者激減の主要因は、弁護士の経済環境悪化と就職難にある。法科大学院教育に罪はない。それにもかかわらず、全廃説がことさら教育内容を攻撃するのは、司法試験合格者数を減らしたいからであり、ここに飛躍がある。その結果、ためにする批判になりがちで、法科大学院出身者の反発(広瀬)による会の分裂を招いている。大学院修了を司法試験受験要件から外せとの主張(正木[4]、岸本[5])も、法科大学院制度を瓦解させ、司法試験合格者数を減らす狙いにおいて同じだし、法曹人口問題という本題をあえて避ける議論のやりかたは、ずるいと思う。また、欠点をいくら指摘しても(坂野[6])、制度の出自や支持者を貶めても(藤井[7])、だから全廃というのは、明らかに飛躍している。

一方の削減説も、非現実性では全廃説と五十歩百歩だ。半減(高橋[8])のため廃止校選定作業に入った途端、日弁連は「適正配置」を掲げて、真っ先に潰すべき地方下位校を擁護し、その矛盾した有様が嘲笑を買うだろう。ましてや34校だけ残す(木村[9])なんて、全廃の方がよほど現実的だ。

また、「適正な法曹人口に応じて定員を設ける」(森下[10])というが、誰が「適正」を決めるのか。少なくとも日弁連ではないが、それでよいのか。

司法試験合格者数の決定権限は、かつて法曹三者にあったが、今は剥奪されている。法曹養成検討会議でも、日弁連はオブザーバーにすぎない。日弁連が司法改革の当事者から排除され、法曹人口決定権限を剥奪された現実と理由を、われわれは学ばなければならない。

日弁連は法曹養成問題の当事者でもなければ、何かを決定する権限もない。発言するほど、分裂を露呈して嘲笑されるだろう。会内一致を見た給費制すら復活させられないのに、法科大学院の半減や全廃が、なぜ可能なのか。

だから、日弁連は沈黙すべきである。

 


[1] 宮本亜紀弁護士 本連載第3 回(12月号)執筆者

[2] 平野惠稔弁護士 本連載第6回(3月号)執筆者

[3] 広瀬元太郎弁護士 本連載第4 回(1月号)執筆者

[4] 正木みどり弁護士 本連載第1 回(10月号)執筆者

[5] 岸本由起子 本連載第4 回(1月号)執筆者

[6] 坂野真一弁護士 本連載第2 回(11月号)執筆者

[7] 藤井薫弁護士 本連載第5 回(2月号)執筆者

[8] 高橋司弁護士 本連載第1 回(10月号)執筆者

[9] 木村圭二郎弁護士 本連載第5 回(2月号)執筆者

[10] 森下弘弁護士 本連載第2回11月号)執筆者

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2013年4月 1日 (月)

外国人弁護士、合格率微増 定着へなお日本語の壁

法務省は1日、今年度司法試験を受験したインドネシア人とフィリピン人の合格率が39.8%だったと発表した。前年度に比べ1.9ポイントの微増。日本人の合格率(84.4 %)に迫ってきたとはいえ、まだ差がある。

司法試験は、裁判官や検事、弁護士になる法曹資格を付与するため毎年実施されている国家試験。裁判官や検事になるためには日本国籍を要するが、弁護士資格に国籍要件はないため、もともと、外国人でも受験できた。とはいえ、かつては、日本最難関といわれたほど高度な読解力や論述力を要したため、受験する外国人は事実上、在日外国人に限られてきた。

しかし、2000年以降実施された司法制度改革の結果、10年で弁護士は倍増したが、訴訟件数は増えず、就職難が深刻化。司法試験を受験するためには、原則として、法科大学院を修了する必要があるが、「3年の時間と500万円の学費を費やして、司法試験に受かっても、就職できないし、就職できても年収300万円では引き合わない」(法科大学院生)ため、受験生が激減し、「このまま行けば(受験生)全員合格になってしまう」(最高裁関係者)状況となった。学力の低下も顕著となり、「『労動法』『製像物責任』『拳法』程度の漢字の間違いは普通。いまや日本人受験生の日本語力は外国人以下」(司法試験委員)ともいわれる。

発足時74校だった法科大学院も、半数以上が廃校。存続校も9割以上が定員割れして、制度崩壊の危機感が募っていた。

他方、弁護士不足に悲鳴を上げたのが地方自治体や裁判所。以前は生活困窮者の法的サポートや、外国人の刑事事件など、経済的にペイしない事件を引き受ける弁護士が激減したためだ。「これほど仕事が減ってしまっては、やるほど赤字になる事件は引き受けられない。私にだって家族と従業員がいる」と、ある人権派弁護士は唇を噛む。

そこで昨年度からスタートしたのが司法試験の外国人枠。FPA(経済連携協定)に基づき、インドネシア人とフィリピン人に就学ビザを発行して法科大学院で養成。修了して司法試験に合格すれば、日本の弁護士資格と就労ビザが与えられる。受任できる事件は、日弁連が強く抵抗したため、要介護老人や生活困窮者などの法的トラブルの処理や後見人、生活保護申請などの代行、同国人が被告人となった刑事事件の弁護人などに限られるが、「年収200万円でも母国では高給」(インドネシア人受験生)であることから、出稼ぎ目的の受験生が殺到。「日本人より優秀な学生も多い」(法科大学院教授)。

合格率が伸び悩むのは外国人にとって日本語の習得が難しいためだ。政府は、外国人法科大学院生の養成期間を3年から5年に延ばし、日本語の授業数を増やすなど、今後の定着に向けて法科大学院の整備を強化する方針だ。

日弁連評論家の小林正啓弁護士「最近老眼で、細かい字が読めないんだけど、なんて書いてあるの?弁護士?介護士?」

 

本エントリはフィクションです。実在の個人や団体、条約等とは一切関係ありません。

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