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2013年4月 5日 (金)

日弁連は、沈黙すべきである(3/3)

 本稿は、大阪弁護士会月報の本年3月号「法科大学院についての私の考え(連載6回)」の第6回掲載記事に、若干の加除をして転載したものです。

 

われわれの為すべきこと

 

帝国憲法が施行され、近代司法制度が導入された明治24年当時、弁護士志望者は判検事志望者と別の国家試験を受け、帝大法科卒は試験を免除された。大正12年に統一試験となるが、修習は判検事のみだった。弁護士修習は昭和8年に制度化されるが、判検事と別で、給費もなかった。統一修習と給費制が実現するのは、占領下である。

その給費制は、60余年の生涯を終えた。司法研修所は、事実上の分離修習となり、廃止に向かうだろう。戦後の法曹養成制度は崩壊し、明治初期に向かって巻き戻りつつある。法科大学院問題は、その一場面にすぎない。混乱が収まったとき、予備試験は事実上、判検事と大手法律事務所の採用試験になり、上位法科大学院卒業生は、帝大法科卒と同様、弁護士資格を事実上約束されているだろう。

敗戦後、国家財政が破綻した中で、なぜ民間人の弁護士養成費まで国が出すのか、と抵抗する大蔵省[1]を、「弁護士は国家事務を行う国家機関だから」と説得して、給費制を実現させたのは、GHQでも弁護士会でもなく、内藤頼博を中心とする日本人判事だった。戦前政党政治の勃興と崩壊を目の当たりにした内藤らが目指したのは、健全な民主主義の担い手にふさわしい政治的実力を備えた司法であり、政治的実力の源泉となる法曹一元であり、法曹一元を体現する統一修習と給費制であった。

しかし、統一修習と給費制を終焉に導いたのは、皮肉にも戦後修習を受けた先輩弁護士だった。彼らは、冷戦後も、臨司路線とイデオロギーの頚木に囚われ、法曹三者内部のいがみ合いに終始し、「国家機関」としての無自覚と無能力を露呈したため、司法改革の当事者から放逐されたのだ。しかも、この屈辱的な敗北の歴史を封印し、書き換えて[2]、勝った勝ったと喧伝している。焼け跡の中で先達が未来に託した悲願が、踏みにじられているというのに。

 

われわれが為すべきなのは、非現実的な政策論を闘わせることではない。封印を剥がして歴史を学び、次代の法曹に語り継ぎ、ともに考えることだ。司法が民主主義を担うことの意味と、国家機関としての弁護士の役割とは何か。その答えに到達しない限り、法曹養成問題の解は見つからないし、日弁連が司法改革の当事者となる日は二度と来ないだろう。

 

 


[1] 給費制は当時の政府に「当然のこととして受け入れら れ、誰も異論を唱えていない」という『日弁連二十年』の記述は誤りである。

[2]『日弁連五十年史』では、平成6 12 21 日総会の「800 人決議」の事実が抹消されている。

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