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2013年5月20日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(29)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(8)

海軍中将の子として生まれ、学習院・東大から裁判官になり、エリートコースを歩んだ三宅正太郎は、司法行政官としては「体制側」のエピソードが目立つ。

しかし、後世に伝わる三宅正太郎は文人肌の優秀な裁判官として知られる。内藤頼博は「三宅の随筆は玄人のもの」という、昭和初期の俳人、久保田万太郎の言葉を紹介している[1]。裁判官の心得を記した『裁判の書』は名著として、内藤ら多数の裁判官に愛読された。

日本大学の新井勉教授は、『大正・昭和前期における司法省の裁判所支配』において、統計的手法を用い、平沼騏一郎による裁判所の支配を人事面から照明しようと試みている。ここでも三宅は「体制側」に分類されて登場しているのだが、他の裁判官とは、扱いが違っている。

新井教授によれば、「(三宅)自身は裁判実務を好み、司法行政を好まなかった。三宅の文章をよむと、判事の中には司法省入りして本省に迎合する人があったらしいことが、行間からよみとれる(傍線部)。」として、次の文章を引用している。

「判事の仲間には昔から二つの潮流がある。一方では判事たる以上は行政官の仕事と判事の仕事とは相容れないと言って、その意味で行政官たることを極端に嫌ふ人があるし、他方では行政官になることは判事としての才能を豊富にする所以だと言って、それになることを奨励する人がある。自分はそれは各人の性格傾向によることで一概には言へない、ことと考える。実際に見ても、判事から行政官になって司法官としての魂を見失ったと思はれる人もあるし、行政官となったゝめに司法官としての仕事が幅と奥行を増したと思はれる人もある。で、行政官になりたいものはなればよいし、司法官として止つてゐたい者はさうすればよいのである。」

三宅正太郎が残した判決として有名なものは、翼賛選挙における演説により不敬罪で起訴されていた尾崎行雄に対する無罪判決である。これは一審では有罪だったのだが、当時大審院判事だった三宅正太郎は、「被告人(尾崎)は謹厳の士、明治大正昭和の三代に仕える老臣なり。その憲政上における功績は世人の周知のところ、この功臣にして至尊に対し奉り不敬を加える意図のもとに前記演説をなしたりとは軽々に断じ得ざるところとす」とし、「不忠の意図なき者のなした行為までも不敬罪に数えてこれを律するは、けだし(不敬)罪を規定した法の精神にあらず」と記して、無罪判決を言い渡した。『気骨の判決』の作者清永聡は、三宅の判決を、吉田久判事による翼賛選挙無効判決と並べ讃えている。

三宅が「体制側」一辺倒の人物でなかったことは、この判決から明白と言うべきだろう。


[1] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」

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