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2013年5月27日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(30)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(9)

三宅正太郎は昭和11年(1936年)東京地裁所長の地位にあったが、このとき、内藤頼博は東京地裁にいた。三宅正太郎は49歳、内藤頼博は28歳である。

平成6年(1994年)818日に行われたインタビューにおいて、当時86歳の内藤頼博は、「帝人事件が審理されている昭和12年頃、三宅さんは、東京地裁の所長をしておられました」という切り口で、三宅正太郎に関するいくつかのエピソードを語った。全14頁のうちほぼ1頁を費やしているが、これが、妙につかみ所のない記事である。

第一は、三宅が被告人の人相を云々したところ、内藤ら若手裁判官が非科学的だと反論したため、三宅の自宅に呼ばれたというエピソードだ。三宅は自宅に「銀座ハゲ天」の主人を呼んで天ぷらをごちそうした上、高名な人相見に一人ひとり人相を見させたという。

第二は、ある「死体無き殺人事件」の審理中、死体の場所を占い師に占わせて、川の底だと卦が出たので、ポケットマネーで潜水夫を雇い捜索したというエピソードだ。現代の実務家感覚からすると仰天だが、内藤は「三宅さんという人は、手続法を無視してというと悪いけれども、それ以上に真実の発見の方へ行きますね。例えば、仮処分の申請があると、(請求がなくても)必ず現場へいったものです」という。

内藤の描写する三宅は、人智を超えたところにある真実を発見しようとする宗教的求道者のようだ。刑事被告人の人間性に迫ろうという気迫が強く、被告人が納得するまで審理を尽くしたため、法廷が朝から晩まで続くことがあり、「(公判立会)検事には評判が悪かった」。「三宅さんの法廷というのは本当に修身の教室みたいだって(ママ)といわれていましたね」と内藤はいう。

このインタビューで、内藤が直接薫陶を受けた裁判官として紹介しているのは岩松三郎と三宅正太郎の2人しかいない。しかも、三宅を帝人事件の関係で紹介したのは、それなりの意図があるというべきだろう。

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