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2013年5月31日 (金)

弁護士手帳、配布見送り「余計なお世話」

日弁連は30日、弁護士を目指す高校生、大学生向けに法曹界の知識を広めるため導入を検討していた「弁護士手帳」(仮称)の配布を見送る方針を固めた。

手帳は、激減する法曹志望者対策を議論している「法曹養成制度危機突破タスクフォース」において、法科大学院離れや司法試験合格率の低下が続く中、早い時期に司法試験や弁護士としての心得を持ってもらうのが有効として、来年度からの配布を目指していた。

手帳の内容は、社会的弱者の人権救済に熱心に取り組むあまり、自分も生活保護を受けている弁護士や、過疎地域で活躍しようと、無人島に事務所を構えた弁護士を紹介しているほか、弁護士になるための心得や、弁護士として望ましい人生設計のありかたに言及している。

たとえば、「弁護士として成仏するには」の章には、「人々のお役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはないであろう。飢え死にさえしなければ、人間、まずはそれでよいのではないか。その上に、人々から感謝されることがあるのであれば、喜んで成仏できる」として、弁護士としてあるべき死に方が記載されている。

また、女性向けには、「弁護士の仕事は過酷であるうえ、法科大学院を卒業して司法試験に合格した場合、28歳ころから40歳ころまでが修行の期間になる。したがって、26歳までには結婚し、27歳までに第1子を出産しておくことが望ましい」と記載され、婚活の方法や、妊娠に関する情報が掲載されている。

これに対しては、女性弁護士を中心に、「結婚や出産をいつするのか、しないのかは個人が決めることだ。26歳までに結婚しろなんて、余計なお世話」との非難が日弁連に殺到。日弁連担当副会長の森弁護士は、「女性弁護士の出産が、どれほどの負担になるか、事前に知識として知ってもらった方がよいと思った」と弁明したが、「何のための弁護士手帳か。ますます志望者が減るだけではないか」との反論が噴出し、それに屈した格好だ。

日弁連の山串会長は、「弁護士志望者を少しでも増やそうとの思いが理解されず残念。今後も、一人でも多くの弁護士を社会のすみずみに行き渡らせるため努力したい」とコメントした。

日弁連評論家の小林正啓弁護士「日弁連のやりかたは本末転倒。26歳までに結婚しろなんて論外。昔はクリスマスイブといって、24歳までと言われたものだ」

注;このエントリは完全なフィクションです。実在の団体や個人とは一切関係ありません。

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2013年5月29日 (水)

Google Car は日本の公道を走れるか?

Google Carのような自律走行型ロボットカーが実用化の段階を迎えつつある。

交通規則を遵守し、自動車内外の安全を確保しつつ任意の地点まで自律走行する機能を備えたロボットカーは、日本の公道を走れるだろうか。

問題となるのは、道路運送車両法と道路交通法だ。

道路運送車両法上、「自動車」とは、「原動機により陸上を移動させることを目的として製作した用具で軌条若しくは架線を用いないもの又はこれにより牽引して陸上を移動させることを目的として製作した用具」であって、原動機付き自転車以外のものをいうとされている(22項)。Google Carは、既存の自動車に自律運転装置を備え付けたものであり、それによって自動車が自動車でなくなった、とはいえないから、道路運送車両法場の「自動車」に該当すると思われる。したがって、所定の登録等を行えば,問題ないようだ。

他方、道路交通法は、自動車を「自動車 原動機を用い、かつ、レール又は架線によらないで運転する車であって、原動機付自転車、自転車及び身体障害者用の車いす並びに歩行補助車その他の小型の車で政令で定めるもの(以下「歩行補助車等」という。)以外の」車両をいう、と定めている(29号)。Google Carが、既存の自動車に自律運転装置を備え付けたものである限り、道交法上の「自動車」に該当することは明らかと思われる。

しかも、道路交通法の第3章「車両…の交通方法」の条文はどれも、「車両は…しなければならない」と書いてある。それならば、自律的に交通法規を守る能力を備えたGoogle Carは、何の問題も無く公道を走れそうだが、おそらく、そうではない。なぜなら、法律は「人」を名宛人としているからである。

例えば、道路交通法1711号は、「車両は…車道を通行しなければならない」と定めている。これは一見、「車両」に法的義務を課しているようによめるが、もちろん、そんなことはない。その違反について定める11912号の2は、「第17条…の違反のなるような行為をした者…は、3月以上の懲役又は5万円以下の罰金に処す」と定めている。この「者」とは人間を指す。だって、Google Carを刑務所に入れても処罰にならないし、罰金も取れないからね。だかと言ってGoogle Carが交通違反を犯す度にGoogleの社長から罰金を取ることもできない。要するに、法はGoogle Carの出現を予定して規定されていないのだ。結局のところ、Google Carは、道路交通法の定める「車両」にはあたるが、人間が運転しない限り、同法の適用を受けない、ということになる。

では、Google Carに日本の公道を走らせることは、道路交通法上、どうなるのだろう。これはおそらく、人の乗っていない牛や馬が勝手に公道をうろついている場合と、同じ取り扱いを受けるのだろう。つまり、道路の管理者(警察)は、道路管理権に基づいて、所有者の承諾無く、Google Carを実力で捕獲できる、ということになる。

なんだか変だが、もともと法が予定していない以上、まあ、しかたがないのかもしれない。

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2013年5月27日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(30)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(9)

三宅正太郎は昭和11年(1936年)東京地裁所長の地位にあったが、このとき、内藤頼博は東京地裁にいた。三宅正太郎は49歳、内藤頼博は28歳である。

平成6年(1994年)818日に行われたインタビューにおいて、当時86歳の内藤頼博は、「帝人事件が審理されている昭和12年頃、三宅さんは、東京地裁の所長をしておられました」という切り口で、三宅正太郎に関するいくつかのエピソードを語った。全14頁のうちほぼ1頁を費やしているが、これが、妙につかみ所のない記事である。

第一は、三宅が被告人の人相を云々したところ、内藤ら若手裁判官が非科学的だと反論したため、三宅の自宅に呼ばれたというエピソードだ。三宅は自宅に「銀座ハゲ天」の主人を呼んで天ぷらをごちそうした上、高名な人相見に一人ひとり人相を見させたという。

第二は、ある「死体無き殺人事件」の審理中、死体の場所を占い師に占わせて、川の底だと卦が出たので、ポケットマネーで潜水夫を雇い捜索したというエピソードだ。現代の実務家感覚からすると仰天だが、内藤は「三宅さんという人は、手続法を無視してというと悪いけれども、それ以上に真実の発見の方へ行きますね。例えば、仮処分の申請があると、(請求がなくても)必ず現場へいったものです」という。

内藤の描写する三宅は、人智を超えたところにある真実を発見しようとする宗教的求道者のようだ。刑事被告人の人間性に迫ろうという気迫が強く、被告人が納得するまで審理を尽くしたため、法廷が朝から晩まで続くことがあり、「(公判立会)検事には評判が悪かった」。「三宅さんの法廷というのは本当に修身の教室みたいだって(ママ)といわれていましたね」と内藤はいう。

このインタビューで、内藤が直接薫陶を受けた裁判官として紹介しているのは岩松三郎と三宅正太郎の2人しかいない。しかも、三宅を帝人事件の関係で紹介したのは、それなりの意図があるというべきだろう。

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2013年5月22日 (水)

『近代日本の右翼思想』片山杜秀

信じてもらえないかもしれないが、『こんな日弁連に誰がした』を執筆するにあたり、一番勉強したのは、戦後左翼思想の系譜だった。なぜなら、司法制度改革を推進した弁護士にも、反対した弁護士にも、その中間にいた弁護士にも、それぞれ左翼弁護士がいて、彼らなりの左翼理論を主張し、対立していたからだ。だから、戦後左翼思想の系譜を勉強すれば、彼らの対立軸が多少理解できるかと思ったのである。

だが、さんざん勉強したあげくたどり着いたのは、「左翼思想を分類しても意味がない」という結論だった。教典(例えば『資本論』)や理想(革命)を共有するのに、理論的一貫性や整合性にこだわるあまり、細かい分裂を重ね、近親憎悪的にいがみ合う人たち。十把一絡げに「サヨク」という感覚は、案外直感的に正しいのだろう。

一方の「右翼」は、定義としては「左翼」ではなく「保守」と対立する概念だと、筆者の片山杜秀は言う。言い換えれば、「保守」の反対語である点においては、「右翼」も「左翼」も同類なのだ。

すなわち、現状を肯定するのが「保守」であり、現状を否定するのが「左翼」と「右翼」である。現状を否定する点では「左翼」も「右翼」も同じであり、ただ、否定の根拠となる理想を「未来」に求めるのが「左翼」、「過去」に求めるのが「右翼」であるという。

しかし、日本の右翼思想は、このような理念的分類になじまない。日露戦争に勝利し、第一次世界大戦では戦勝国側に名を連ねた日本は、急激な近代化、工業化、都市化が進み、旧来の価値観が崩れてしまった。この現状を否定する左翼は、理想をプロレタリア革命に求めたが、右翼は、理想を過去に求め、その中心に農業司祭であり記紀神話の中心であった天皇を据えた。

しかし天皇を神格化するほど、その天皇が現存する現状を肯定せざるを得なくなる。この矛盾の前ににっちもさっちも行かなくなった右翼は、合理的科学的な発想を放棄し、全人格的に天皇に帰依することを理想とするようになる。こうなると、日本の右翼は一種の宗教と変わらなくなるが、宗教と違うのは、教典がないところだ。その結果、右翼が理想とする天皇は、昭和天皇や今上天皇といった生身の肉体を持つ天皇ではなく、個々人の中で理想とされた天皇であり、想念としての天皇となる。個々人が忖度する天皇の意思はバラバラであり、実在する天皇の意思とすら一致しない。この考え方によれば、天皇の意思を体現すると信じて226事件を起こした青年将校など、日本の右翼思想の典型ということになるのだろう。こうして日本の右翼思想は、現状否定と天皇制肯定の狭間で「頭脳」を失い、「からだ」だけが残るのだ。

論旨は明快であり、明快すぎて眉唾な部分もあるが、日本人の思想体系を読み解く視点ないし補助線としては、とても有意義ではないかと思う。

内田樹によれば、「辺境の民」である日本人は、「日本人とはなにか」を規定する原理を持たない。それでは不安なので、いつも「きょろきょろ」しているという。片山杜秀によれば、きょろきょろしたあげく、千年以上にわたり、一つの家系が、程度の差こそあれ「元首」でありつづけたという、特異な歴史に「原理」を見いだしたのが、近代日本の右翼思想なのかもしれない。しかしその中心にいる天皇すなわち「ミカド」は「空虚」であり、「からっぽ」であると喝破したのが猪瀬直樹であった。

教典を持たず想念だけ共有する右翼は、左翼のような理論的分裂の契機を持たないから、団結力は一見強いけれども、その共有する想念が巨大な空虚であるため、結局は左翼よりもバラバラ、ということなのかもしれない。

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2013年5月20日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(29)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(8)

海軍中将の子として生まれ、学習院・東大から裁判官になり、エリートコースを歩んだ三宅正太郎は、司法行政官としては「体制側」のエピソードが目立つ。

しかし、後世に伝わる三宅正太郎は文人肌の優秀な裁判官として知られる。内藤頼博は「三宅の随筆は玄人のもの」という、昭和初期の俳人、久保田万太郎の言葉を紹介している[1]。裁判官の心得を記した『裁判の書』は名著として、内藤ら多数の裁判官に愛読された。

日本大学の新井勉教授は、『大正・昭和前期における司法省の裁判所支配』において、統計的手法を用い、平沼騏一郎による裁判所の支配を人事面から照明しようと試みている。ここでも三宅は「体制側」に分類されて登場しているのだが、他の裁判官とは、扱いが違っている。

新井教授によれば、「(三宅)自身は裁判実務を好み、司法行政を好まなかった。三宅の文章をよむと、判事の中には司法省入りして本省に迎合する人があったらしいことが、行間からよみとれる(傍線部)。」として、次の文章を引用している。

「判事の仲間には昔から二つの潮流がある。一方では判事たる以上は行政官の仕事と判事の仕事とは相容れないと言って、その意味で行政官たることを極端に嫌ふ人があるし、他方では行政官になることは判事としての才能を豊富にする所以だと言って、それになることを奨励する人がある。自分はそれは各人の性格傾向によることで一概には言へない、ことと考える。実際に見ても、判事から行政官になって司法官としての魂を見失ったと思はれる人もあるし、行政官となったゝめに司法官としての仕事が幅と奥行を増したと思はれる人もある。で、行政官になりたいものはなればよいし、司法官として止つてゐたい者はさうすればよいのである。」

三宅正太郎が残した判決として有名なものは、翼賛選挙における演説により不敬罪で起訴されていた尾崎行雄に対する無罪判決である。これは一審では有罪だったのだが、当時大審院判事だった三宅正太郎は、「被告人(尾崎)は謹厳の士、明治大正昭和の三代に仕える老臣なり。その憲政上における功績は世人の周知のところ、この功臣にして至尊に対し奉り不敬を加える意図のもとに前記演説をなしたりとは軽々に断じ得ざるところとす」とし、「不忠の意図なき者のなした行為までも不敬罪に数えてこれを律するは、けだし(不敬)罪を規定した法の精神にあらず」と記して、無罪判決を言い渡した。『気骨の判決』の作者清永聡は、三宅の判決を、吉田久判事による翼賛選挙無効判決と並べ讃えている。

三宅が「体制側」一辺倒の人物でなかったことは、この判決から明白と言うべきだろう。


[1] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」

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2013年5月13日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(28)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(7)

三宅正太郎は、明治20年(1887年)、海軍中将の父のもと東京府に生まれ、学習院初等科から一中、一高を経て東京帝国大学から司法官試補となった。大正8年には司法省に入って検事兼司法省参事官・民事局兼務になり、昭和9年に東京地裁所長に就任している。海軍エリートの子に生まれ学習院に入学するという「毛並みの良さ」と、典型的なエリートコースを歩んでいることが分かる。

平沼騏一郎による「司法支配」の文脈で観察するなら、この時期にエリートコースを歩んでいるということは、平沼の眼鏡にかなう人物だったという推測も成り立つ。

戦後は昭和2010月に大阪控訴院長に就任するが、翌年2月に退官して弁護士になった。同年7月には公職追放の対象になっている。公職追放については、GHQ内に異論もあったようだが、基本的には、A級戦犯として逮捕された平沼騏一郎の系譜に属するとみられたのかもしれない。

三宅が「体制派」に属することを示すエピソードとしては、丁野暁春判事(東條演説事件に対抗する対談『戦時下の司法道』を行った裁判官)が『司法権独立運動の歴史』に、次のとおり記している。

「昭和15年の終わりごろか、あるいは16年の初めごろか、当時勇名を馳せた柳川平助将軍が法相となり、これまた司法界のホープとして名声噴々たる三宅正太郎氏が(司法省)次官となり、裁判所の空気一新が喧伝されはじめた。そのころ、東京民事地裁・区裁の主だった者が、大臣就任の披露の趣旨で昼食に招宴されたことがあった。そのときの三宅氏は、詰め襟カーキ色の軍服様の国民服に、紫色の組紐の襟章をつけ、威風あたりを掃う大将軍の傍らに颯爽たる威厳を見せ、軍国司法の総指揮官とはまさにかくのごときものかと思わせるほどであった。わたくしは三宅氏までちがってきた、 裁判所にとってはただごとではないぞと思ったのだが、はたして氏は劈頭一番、皇国未曾有の非常時に際し、現在の民事裁判所はいったいなにをしているかと叱咤し、熊谷直実が武士を捨てたのは鎌倉幕府の裁判ゆえでもあるぞ、と説き、自分は現在の民事裁判所を信頼しない、もし自分の親戚に民事訴訟を起こそうとする者があったら断じてこれを止める、とまで言明した。

柳川法相は、この後間もなく昭和165月の司法官会同で、『…若し司直の府に在る者、仍ほ旧套を墨守して社会の推移に順応するの用意なくば、司法官としてその職責を尽すこと能わざるは勿論逆に司法の威信を失墜するの虞ありと謂はねばなりませぬ』と訓示しているのである。

これは三宅次官の作文と思われるのであるが、この訓示の前駆をなすものが、すなわち本件三宅次官の言明であったのである。そして右柳川法相の訓示は、昭和19年の内閣総理大臣東条英機の司法権弾圧の訓示に連なるのである。」

昭和165月の司法官会同における三宅次官の発言については、家永三郎著『司法権独立の歴史的考察』にも、「殊に現在の時局下、あらゆる官吏が国家施政の正しく行はるるために有機的に協力すべきことを求められておる際、判検事が自己の持ち場を消極的に固守するだけでは、その任を尽したりとは申せないと考へます。」と記されているところである。

また、「さつき会」のメンバーであった松本冬樹判事は、同じく「さつき会」に所属していた古川正俊判事が、司法省入りを三宅によって勧誘されたこと、「その勧誘の執拗であったことをよく知っている」と記している。三宅自身が「判事を強ひて司法省に入らしめやうと努める必要ありと思ってゐなかったし、又ことはる古川君の態度にも好感を持ち得たので、更に執拗にすすめることはしなかった」[1]と述べたことをわざわざ引用して否定していることからして、三宅に対する相当の反感が窺われる。


[1] 『裁判今昔』31

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2013年5月10日 (金)

敗因を「やる気のなさ」に求める指導者について

本年56日発行の商事法務『法と実務』9巻(日弁連法務研究財団)に、拙著『こんな日弁連に誰がした?』が引用されていた。

引用したのは菊地裕太郎弁護士。東弁の現会長が引用してくださるとは、名誉なことであるが、その文脈にとても違和感があったので、一言申し上げておきたい。

まず、引用してくださったのは、次の箇所である。

「日本は、弁護士過剰時代を迎えつつある。かといって、訴訟社会化しているわけではない。過払い金事件を除いた実質的な民事訴訟件数は、ここ数年で半減したといわれている。裁判という市場が縮小しているのに、パイを奪い合う弁護士が大幅に増やされたのだ。

そのしわ寄せは若手弁護士に及び、新人が就職難に陥っている。『ノキ弁』「即独』「ケータイ弁』という言葉がマスコミを賑わせる。加えて、法科大学院の乱立は、400万円以上ともいわれる多額の費用にもかかわらず、司法試験の合格率を2割台に落としつつある。

こういった就職難や合格率の低下は、法曹界からの人材離れを招き、新人弁護士の学力低下を表面化させている。また、若手弁護士は、先輩たちが大増員のツケを若手に押しつけ、逃げを決め込んでいることに気づき始めている。日弁連は世代間で分裂するだろう。」(11頁)

この引用に続けて菊地会長は、「ここに象徴されている『反』ないし『嫌』司法改革の気分は、著者の思惑いかんに拘らず今後の司法改革運動ひいては日弁連のあり方に、以下のような大きな暗雲をもたらす」として、①改革意欲の減退、②内向きの消極的な議論、③日弁連の求心力低下、を「暗雲」として列挙している(『法と実務』9143頁)。

菊地会長の指摘する「暗雲」について、特に異論はない。①から③まで列挙されているとおりの事象が起きていることに間違いない。

だが、その「暗雲」をもたらすものが、「ここに象徴されている『反』ないし『嫌』司法改革の気分」だという下りには、大いに異論がある。この「暗雲」をもたらしているのは「気分」などという、ふわふわしたものではない。現在の弁護士業界に存在し、実体のある「事実」そのものだ。その「事実」をどうにかしない限り、「暗雲」がなくならないと知るべきである。

ところが、菊地会長の論考は、諸悪の根源が「気分」にあるとの前提だから、対応策は当然、精神論だ。曰く、「第一に、司法改革の歴史的意義に対する認識を伝承し、共有化し、前進の糧としていく作業が不可欠」だそうな。でも、精神論で「事実」は変えられないよ。大和魂でB29は落とせなかったでしょう。悪いけど。

東弁は会長選挙があり、司法改革反対派の候補者がいたそうだから(惨敗したとは聞いているけれど)、菊地会長の論考が、対立候補の主張を念頭に置いたものである点は、やや甘く見てあげないといけないかもしれない。しかし、晴れて日本最大会派の会長になった以上、言うべきことはほかにあるはずだ。戦争にしろスポーツにしろ、負けそうなときに、原因を部下の「やる気」に求めたり、「精神論」を振り回したりする指導者は、あまり尊敬されないと、相場は決まっている。

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2013年5月 9日 (木)

筋電義手で夢つかむには

5月5日の毎日新聞大阪朝刊は、「筋電義手が夢つかむ」との見出しで、先天的に片手の肘から先のない2歳児が装着するロボット義手を紹介していた。

解説によれば、筋電義手とは、脳からの指令を受けた筋肉が実際に収縮するときに発生する微弱な電気(筋電)を利用し、ロボットハンドを操作するシステムであり、習熟すれば卵を割るなど人の手に近い微細な動作も可能という。一台約150万円だが、医師の意見書があれば市町村判断で補助金が支給され、上限37200円の自己負担で購入できるとのこと。

この種の技術は、障がいを持つ人にとって朗報だろうが、普及させるには法整備が欠かせないと思う。

たとえば、筋電義手を装着して自動車を運転していた人が事故を起こした場合、義手の不具合を主張して責任を免れうるか、という問題がある。装着者がハンドルを切ろうと思った途端、義手が思い通りに動かなくなって衝突事故を起こしてしまった場合、装着者は義手の不具合を主張立証して責任を免れることができるのだろうか。

この問題については、おそらく、事故の被害者を最も保護するべきなのだろう。事故の真の原因が筋電義手にあるにせよ、ないにせよ、ドライバーが筋電義手を装着しているという、被害者のあずかり知らぬ事情によって、不利に扱われるべき理由はないからだ。したがって、この設問のドライバーは、事故の被害者との関係では、筋電義手の不具合を理由に責任を免れることはできないと考えるべきであろう。いうなれば、義足ではない、生身の足の持主が、「ブレーキを踏もうと思ったら足がつって、踏めませんでした」と弁解しても、事故の責任を免れないのと同じである。

但し、筋電義手の装着者は、義手に不具合があったことの立証に成功すれば、筋電義手のメーカーや貸与者に対して、被害者に支払った賠償金を求償することができる。

もっとも、筋電義手の欠陥を証明することは困難と思われる。従って、筋電義手のユーザーは、事前に損害賠償責任保険に入って、リスク分散を図るべきことになる。強制保険制度も検討の対象になろう。

筋電義手が、障がい者の夢をつかむには、技術の進歩だけでなく、法整備もまた、不可欠なのである。

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2013年5月 7日 (火)

中坊公平氏死去

もと弁護士の中坊公平(以下、歴史上の人物とみなし敬称を省略する)が3日、死去した。

戦後日本を代表する弁護士の一人であるとともに、彼ほど毀誉褒貶の相半ばする弁護士は、ほかにいないだろう。

批判の多くは、司法改革の「失敗」の責任を問うものであり、具体的には、弁護士激増政策「失敗」の責任を問うものだ。「死者に鞭打つな」との声もあるが、中坊公平は、死してなお批判にさらされるべき公人であろう。だが、だからといって何を言ってよいわけではない。「中坊のせいで(司法試験合格者年)3000人政策が決まった」とか、「司法改革のA級戦犯」といった薄っぺらな批判なら、しない方がマシだ。

弁護士激増政策に至った最大の原因は、日弁連が、高度経済成長にもかかわらず、60年代以降30年にわたって、増員に抵抗し続けてきたことにある。ただ、この30年間は、冷戦下の高度経済成長という世界・経済情勢が、「小さな司法」を必要とし、日弁連のワガママを許容していた時代でもあった。だから、冷戦終結による社会変動に柔軟に対応していれば、弁護士増員政策についても、ソフトランディングの可能性は残されていた。しかし、「最低でも年1000人」の要請を真っ向から無視し、「800人の5年間据え置き」を決議した平成71221日の日弁連臨時総会決議が、全てをブチ壊したのである。これにより日弁連は、「ギルド社会の既得権擁護の思い上がり」という非難にさらされ、国民から支持されなくなり、発言力を失って、当事者の椅子から引きずり下ろされることになり、その後1000人→1500人と続く法曹増員政策に歯止めをかけることができなくなる。中坊公平が3000人を提唱した平成11年(1999年)当時、経済界や法曹界の一部には、5000人、6000人を主張する勢力がいたことも忘れてはならない。中坊公平が3000人で収めなければ、6000人になっていたかもしれないという議論も、あながち嘘ではない。

このような事態に至った「A級戦犯」は、800人案を提案した故辻誠もと日弁連会長であり、これを受け入れた故土屋公献日弁連会長(当時)、辻誠弁護士とともに800人決議案を提案した前田知克弁護士、そして、800人決議をめぐる「陰謀」(『こんな日弁連に誰がした?』94頁)に関わった全ての弁護士である。

多少の想像を交えて言うと、冷徹なリアリストであった中坊公平は、司法改革問題に再登板した平成10年、「日弁連が主導権を回復できるギリギリの線」として「3000人」を見極めたのだと思う。「3000人」は法科大学院制度を導入できる最低限の数字であるから、文科省や大学とも共闘できるし、「法曹一元」とセットにすることによって、矢口洪一もと最高裁長官とも手を組めるし、戦前からの悲願を目標とすることによって、分裂寸前の日弁連を糾合することができるからだ。1990年(平成2年)の日弁連会長選挙で「司法改革」を掲げ、分裂していた左右両派の圧倒的多数票を集めた中坊公平は、「法曹一元」によって、日弁連は再び団結すると考えたのだ。そして実際その通りになった。

おそらく中坊公平にとって最大の誤算は、日弁連が持つ「法曹一元」のトラウマなり怨念なりが、予想以上に大きかったことだろう。司法制度改革審議会で法曹一元が露と消え、法曹大増員だけが残ったとき、中坊に対する憧憬は憎悪に豹変した。中坊は、「法曹一元」に代わる糾合策として、「政府と連携した不良債権回収業務」(RCC)や「弁護士費用敗訴者負担制度」を実践し提案するが、もはや支持を集めることはなかった。敗訴者負担制度は、日弁連自身によって葬られたし、中坊自身がRCC時代の不正を追及されたとき、日弁連は全く援護しなかった。弁護士バッヂを外した中坊が再び弁護士登録申請をしたとき、大阪弁護士会内で復帰を歓迎する声はほぼ皆無だった。かつて、熱狂的に中坊を支持した弁護士も多いはずなのに。

中坊公平に対して、型どおり「ご冥福をお祈りします」と述べるのは、相応しくないと思う。弁護士中坊公平の魂が、安らぐことはないからだ。日弁連は、中坊公平を賞賛し、そしてたたき落としたのだから。

われわれはむしろ、中坊公平を批判し続けるべきだと思う。ただし、その目的は、死者を鞭打つことではない。中坊の思想と行動の探求を通じ、彼を支え、踏みつけた人びとの「今」を明らかにすることにある。

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