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2013年6月24日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(32)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(11)

帝人事件は、大臣・官僚・商工会の大物を巻き込んだ大疑獄事件であり、これを演出したのは、政財界の癒着に義憤を燃やす検察官僚であって、その背後には、政敵西園寺公望と立憲政友会とに打撃を与えようとする平沼騏一郎の思惑があった。

その起訴を受けた東京地裁の所長三宅正太郎は、裁判所のエリートコースを驀進しており、かつ、戦後公職追放を受けているから、当時の裁判所を平沼が支配していたという前提に立つ以上は、その意を体した人物であったとの見方もできる。

しかし実際には、三宅が担当裁判長に指名した藤井五一郎は全員無罪の判決を出しており、検察と平沼は、世論の批判に晒されることになった。

このことは、三宅は必ずしも、平沼の意思に適うとして藤井を異動させたわけではないし、藤井自身、平沼の意図を忖度するつもりがなかったことを示唆している。

そこで、三宅は何故、藤井を担当裁判長に指名したのかが問われることになるが、ここで一点、気になる記述に触れておかなければならない。

それは、帝人事件の被告人の一人である河合良成が、著書『三十年目の証言 帝人事件』の66頁において、当時の拘置所の悪環境について述べた後、「私どもの友人東京地方裁判所長三宅正太郎君が、私どもが出た後、この豚箱や南京虫の巣窟を焼却した」と書いている点だ。

河合良成と三宅正太郎は友人だったのだろうか。もしそうだとしたら、三宅が河合のために何らかの便宜を図った可能性は,検討しておかなければならない。

河合良成は明治195月富山県生まれであり、三宅正太郎は明治206月東京府生まれだから、学年と故郷は異なるが、東京帝国大学で知り合っていた可能性はある。しかし、三宅は戦後最後の貴族院議員だった時期があり、このとき河合と知り合っていた可能性もある。河合は自伝を多数著しているが、このうち『私の履歴書』と『明治の一青年像』を通読した限りでは、河合と三宅の関係を示唆する記述には接しなかった。

以上からすると、帝人事件当時、被告人の一人であった河合と三宅が知人であった可能性はあるが、当時、友情で結ばれていたか否かは分からない、といわざるを得ない。

ただし、仮に三宅が河合の友人であったとしても、あるいは、河合を通じて帝人事件の真相について知見していたとしても、無罪判決を出させることが目的で藤井五一郎を裁判長に指名したとは、およそ思えないのである。これについては、帝人事件の裁判長、藤井五一郎の実像に迫ってみなければならない。

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