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2013年6月26日 (水)

SURVIVE!

帝明学院大学法科大学院(丼上正仁学長)は25日、来年度から英語を公用語とし、全ての授業及び試験を英語で行うと発表した。

帝明法科大学院は、「多様な人材から法曹を養成する」との司法制度改革の理念に基づき、平成16年に設立。平成24年までに150人を超える卒業生を送り出したが、このうち司法試験合格者は12名と低迷。平成25年度の入学者数は、定員30名に対して8名となっていた。

文科省は、入学者数及び合格者・合格率の低迷する法科大学院に対して統廃合を勧告する一方、独自の取り組みを見せる法科大学院に対しては補助金を増額し、法科大学院の生き残り競争を加速させる構えだ。

英語の公用語化は、独自の教育方針をいち早く打ち出し、生き残りを図る起死回生の策だ。「グローバル化が進み、海外で働く日本人法曹へのニーズは、今後飛躍的に高まる。法科大学院における英語の公用語化は時代を先取りするものであり、多様な人材から法曹を養成するという司法制度改革の趣旨にも合致する。当学院は、英語に強い法曹の養成校として、法曹界に認知されるだろう」と丼上学長は胸を張った。

「英語は米国のロースクールレベル。授業は全て英語、試験問題も英語なら、回答も英語で書いてもらう」という。学生食堂をのぞいてみると”UDON””SOBA””ONIGIRI”など、メニューも全て英語表記と徹底していた。

日弁連評論家の小林正啓弁護士「私は英検3級ですが、何か?」

注;このエントリは全てフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係がありません。

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2013年6月24日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(32)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(11)

帝人事件は、大臣・官僚・商工会の大物を巻き込んだ大疑獄事件であり、これを演出したのは、政財界の癒着に義憤を燃やす検察官僚であって、その背後には、政敵西園寺公望と立憲政友会とに打撃を与えようとする平沼騏一郎の思惑があった。

その起訴を受けた東京地裁の所長三宅正太郎は、裁判所のエリートコースを驀進しており、かつ、戦後公職追放を受けているから、当時の裁判所を平沼が支配していたという前提に立つ以上は、その意を体した人物であったとの見方もできる。

しかし実際には、三宅が担当裁判長に指名した藤井五一郎は全員無罪の判決を出しており、検察と平沼は、世論の批判に晒されることになった。

このことは、三宅は必ずしも、平沼の意思に適うとして藤井を異動させたわけではないし、藤井自身、平沼の意図を忖度するつもりがなかったことを示唆している。

そこで、三宅は何故、藤井を担当裁判長に指名したのかが問われることになるが、ここで一点、気になる記述に触れておかなければならない。

それは、帝人事件の被告人の一人である河合良成が、著書『三十年目の証言 帝人事件』の66頁において、当時の拘置所の悪環境について述べた後、「私どもの友人東京地方裁判所長三宅正太郎君が、私どもが出た後、この豚箱や南京虫の巣窟を焼却した」と書いている点だ。

河合良成と三宅正太郎は友人だったのだろうか。もしそうだとしたら、三宅が河合のために何らかの便宜を図った可能性は,検討しておかなければならない。

河合良成は明治195月富山県生まれであり、三宅正太郎は明治206月東京府生まれだから、学年と故郷は異なるが、東京帝国大学で知り合っていた可能性はある。しかし、三宅は戦後最後の貴族院議員だった時期があり、このとき河合と知り合っていた可能性もある。河合は自伝を多数著しているが、このうち『私の履歴書』と『明治の一青年像』を通読した限りでは、河合と三宅の関係を示唆する記述には接しなかった。

以上からすると、帝人事件当時、被告人の一人であった河合と三宅が知人であった可能性はあるが、当時、友情で結ばれていたか否かは分からない、といわざるを得ない。

ただし、仮に三宅が河合の友人であったとしても、あるいは、河合を通じて帝人事件の真相について知見していたとしても、無罪判決を出させることが目的で藤井五一郎を裁判長に指名したとは、およそ思えないのである。これについては、帝人事件の裁判長、藤井五一郎の実像に迫ってみなければならない。

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2013年6月19日 (水)

大動脈解離顛末記(6)  〈食事中は読まないでください〉

「結石は発見されませんでした。腎臓か膵臓の炎症を疑っています。」超美人の女医に代わって登場した若い男性医師にこう告げられ、私は造影剤を投与されて再びCTスキャンを受けた。こちらが激痛にのたうち回っているにもかかわらず、造影剤投与には本人の同意がいるとかで、医師は同意書を読み上げサインを求める。私は激痛に唸りながら震える手でサインし、頭の中でこんなサインに法的効力があるのかと疑っていた。

大動脈解離は、血管内膜が破れたところ(エントリ)から、血流が中膜に進入し、血圧の力で中膜を切り裂いて隙間を広げていく。私の場合、腰の内膜が破れ、下から上に、解離部分が広がっていった。痛みが腰から始まり上昇したのはそのためだ。この解離部分は、そのまま行き止まりになることもあるが、多くの場合、再び内膜の弱いところを破って(リエントリ)血流の本流と合流する。この破れ目が頸動脈との分岐点を越えて心臓に近づいた場合、命の危険が切迫する。破れた血管の破片が頸動脈を通って脳に運ばれ、脳梗塞の原因になるからだ。そこで、リエントリが心臓の近くに達した場合には、直ちに身体を20度前後に冷やして冬眠状態にした上、心肺を停止して心臓付近の大動脈をそっくり全部、人工血管に取り替える大手術が必要になる。もちろん手術が間に合わなくて死亡する人もいるし、解離が心臓に到達すれば死に直結する。

CT画像の判定を待つ間、私の背中で異変が起きた。肩甲骨の間、つまり心臓の真後ろに、痛みの中心が上がったのだ。ある意味で痛みに慣れていた私にも、それはとても不吉な痛みに思えた。たとえるなら、悪魔のよだれが背骨に落ち、まるでロールシャッハテストのコウモリに似た絵のように、左右に広がった、そんな感触だったからだ。そして、このコウモリからは、今までにも増して、激烈な痛みが発生した。巨大な鷲に背中にのしかかられ、両足のかぎ爪で両肩甲骨をつかまれて引き裂かれ、鋭いくちばしでその間の筋肉を食いちぎられるような痛みだ。

もはや大声を上げるしか、痛みに耐える手段はない。私は悲鳴を上げながら、ベッドの金具を両手でつかんで体を揺すり続けた。同時に、「もしかしてこれ、ヤバイんじゃないか?動物みたいに叫んでいないで、妻の名前とか娘の名前とか、叫んだ方がサマになるのではないか?」と考えていた。どんなときでも、脳への血流は最優先で維持されるので、思考はまともだし、非常事態でも常識的なことを考えるものだ。太平洋戦争時、瀕死の状態で「天皇陛下万歳!」と叫んで死ぬ兵士の気持ちが分かるなあ、などと暢気なことを考えていた。人間、死の間際でも、どう行動したら社会的に評価されるか、考えずにはいられないのだ。

そうは言っても、何時間もうなっていたので、声は嗄れかけていたし、意識は失われかけていた。昼食後、退屈な授業を受けているときのように、意識がぶつ切れになって、まるで映画の回想シーンのように飛び飛びになっていた。きっと死ぬときはこうなのだろう、と他人事のように考えていた。

気がつくと、初顔の医師が二人、私をのぞき込んでいた。20歳代で白衣を着ていたそれまでの医師と違い、40歳前後で青い半袖の手術着。浅黒い肌と短い頭髪、明るい眼光、何より修羅場を踏んできた者だけが持つオーラを目にしたとたん、私は「助かった」と思った。二人は心臓外科と循環器の外科担当と自己紹介した。

「病名が分かりました。大動脈解離です。」「それは確定ですか」「確定です。さっき撮影したCTで、偶然発見されました。」「これからどうなりますか」「あなたの場合、解離が頸動脈に及んでいません。ギリセーフです(医師はなぜか嬉しそうに「ギリセーフ」と繰り返した)。内科的措置を執ります。何かあったら、私たち外科医が対応します。我々が来た以上、もう大丈夫です。とりあえず救急救命センターに入っていただきます。」「何日くらい入院ですか?」「最低1ヶ月と思ってください。」「い、いっかげつですか?」

全く効かなかったそれまでの痛み止め(美人の女性看護婦に座薬まで入れてもらったのに)に代わり、モルヒネが打たれ、痛みは嘘のように消えた。戦争映画で撃たれた兵士がモルヒネを注射したとたん穏やかな顔になり、恋人への遺言とか、いろいろしゃべってから絶命するのは嘘ではないと実感した。様々な点滴薬が手際よく装着され、私はチューブだらけになりながらも、叫ばずに済むことにほっとしていた。異常発生から、4時間が経過していた。

実際のところ、予約した飛行機に乗っていれば、あるいは、病名の判明が1時間遅ければ、私の命はなかったかもしれない。少なくとも、心肺停止の大手術は避けられなかっただろう。それどころか、痛い痛いと叫びながら命を落とすという、戦場の兵士のような最期を遂げていたかもしれない。大動脈解離で亡くなられた方の報道を見るにつけ、私は本当に幸運だったと思う。

しかし、そのとき私の頭を占めていたのは、命が助かったという実感ではなかった。入院期間最低1ヶ月という医師の言葉に、それまで冷静だった頭がパニックを起こしかけていた。いくつかの裁判や進行中の事件、4つの講演、そして10日後に迫った原稿の締め切りは、一体、どうしたらよいのだ?

 

 

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2013年6月17日 (月)

「飛ぶ弁護士バッジ」隠蔽「不祥事ではない」

日弁連が、今年度から弁護士バッジを極秘裏に飛びやすく変更していた問題で、13日、日弁連の山串会長が記者会見を行い、「結果として(変更が無かったかのような)説明をしていたことは大変遺憾であり、お詫びしたい」と述べた。しかし、「隠蔽か」との質問に対しては、「私が知ったのは二日前であり、隠蔽はしていない」と答え、「不祥事と思うか」との質問に対しては、「不祥事とは思わない」と、開き直りともとれる発言に終始した。

弁護士バッジは、正式名称を弁護士記章といい、従来は純銀製で金メッキが施されていた。しかし、司法制度改革の結果、弁護士数が激増したため、バッジに使用する銀が不足し、純銀から銀合金に変更。弁護士バッジの重量が約10%軽量化することとなった。

ところが、弁護士数の増加したものの、事件数が増えず、弁護士の経済的困窮が進み、金目当てで依頼者を食い物にする「悪徳弁護士」が増加。懲戒事例も多発し、除名や退会命令によって資格を失う弁護士が激増し、「バッジが飛ぶ」事態が頻発した。

これを問題視した日弁連は2011年、「懲戒により弁護士資格を失う弁護士が増えたのは、弁護士が増えたためではなく、弁護士バッジが軽くなったため」であるとして、弁護士バッジをもとの純銀製に戻すと宣言。そのせいか否か不明だが、一時的に懲戒を受ける弁護士数が減少していた。

ところが今年度より再び懲戒される弁護士数が増加。昨年同日比で2倍近い懲戒数に達した。弁護士業界では、「弁護士バッジが再び飛びやすくなったのではないか」との噂が出ており、調査したところ、極秘裏に合金化され、軽くなっていたことが判明した。

日弁連の山串会長は、「合金率の変更はあくまで事務方の問題。私は一切知らされていなかった」として沈静化に必死だが、「弁護士バッジが極秘裏に飛びやすく変更されたのは、懲戒事案の減少で新聞記事が面白くなくなった、という某新聞社オーナーの『鶴の一声』があったから」だという噂もあり、予断を許さない。

日弁連評論家の小林正啓氏「知らないことはないでしょう。てか知らない方が問題でしょ」

 

注;本エントリは全部フィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。また、弁護士バッジは今も昔も純銀製であり、合金に変更された事実は(たぶん)ありません。

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2013年6月10日 (月)

ロイヤーズ・インターンシップのご案内

(お知り合いの司法試験受験生にご転送下さい)

司法試験受験生の皆様

6月7日の朝日新聞にも掲載されましたが、NPO法人ドットジェイピー(代表佐藤大吾)は、この秋より、「ロイヤーズ・インターンシップ」を開始します。

ロイヤーズ・インターンシップとは、司法試験合格者を対象に、合格発表から司法修習開始までの間、国会議員や大使館、一般企業でインターンシップを受けていただく制度です。一般企業のインターンシップについては、人材派遣大手であるインテリジェンス株式会社のご協力を得ています。参加費は15750円です。

これは、今まで無かった企画です。法科大学院在学生や卒業生がエクスターンシップを経験したり、司法試験受験生や合格者が法律事務所でサマークラークを経験したりすることは、従来行われていましたが、司法試験合格者が修習前に、法曹以外のインターンシップを受ける制度はありませんでした。

ロイヤーズ・インターンシップの目的は、法曹となる皆様に、法曹以外への視野を広めていただくことにあります。その経験は、司法修習を経て法曹になった後も、必ず役に立つことでしょう。

また、司法修習を受けずに就職する、という選択肢も増えます。いま、弁護士業界は不況で、仕事がなく、就職難です。1年間の司法修習を受け(その間あなたは12歳年を取ります)、貸与金として300万円の借金を増やし、その間就職活動に奔走して、それでも就職先が決まらない、というリスクを背負うくらいなら、司法修習を受けずに就職する、という選択肢は、十分考慮に値するはずです。司法試験合格という資格は一生ものですから、まず企業に就職し、経験を積み、貯金が増えたあとに司法修習を受け、弁護士資格を取って戻る、という選択肢だってあるのです。

企業の採用担当者にも申し上げたいと思います。弁護士への採用ニーズは増えてきていますが、司法試験合格者は、弁護士と比べて、年齢は確実に若く、能力レベルは同じです。司法研修所は、法廷実務の教育機関であり、企業法務はほとんど教えません。企業からみれば、1年目の弁護士を採用するなら、司法試験合格者を採用して教育した方が、はるかに合理的です。

採用コストの問題も見逃せません。弁護士は、司法試験合格者に比べ、司法修習中の貸与金として300万円もの借金を抱えています(もちろん、経済的に恵まれ、貸与金を受けない者もいますが)。また、弁護士資格を取得するためには数十万円の入会金のほか、年60万円(東京の場合)もの会費を負担しなければなりません。企業が弁護士を雇用するためには、これらのコストを企業か、弁護士のどちらかが負担しなければなりませんが、企業が負担すれば、その分コスト高になりますし、弁護士が負担すれば、その分待遇が悪くなるので、人材獲得の妨げになります。このような採用コストを負うことに比べれば、司法試験に合格した有意の若者を採用する方が、絶対に合理的です。繰り返しますが、司法試験合格者は、弁護士より必ず若く、基礎的な能力レベル(法的知識やセンス、事務処理能力など)は、弁護士と同じです。それならば、一度、司法試験合格者のインターンシップの受け入れをご検討下さい。インターンシップにご参加いただいた企業様には、インテリジェンス社より、弁護士や司法修習生の就職斡旋を優先して行います。

613日、東京にて、説明会を行います。興味のある方は、NPO法人ドットジェイピーのホームページから申し込んで下さい。行けない方も、資料請求できます。司法試験の合格発表前に仮受付を行い、合格発表後に正式受付を行います。不幸にして合格しなかった方に対しても、就職斡旋などを行う予定です。司法試験の合格発表までの間は、継続的に参加募集を行いますので、興味のある方は、NPO法人ドットジェイピーまでご連絡下さい。

最後になりますが、このエントリでロイヤーズ・インターンシップのご案内をするのは、私が発案者だからです。昨秋の思いつきに社会的意義を認め、短期間に準備を進めていただいた佐藤大吾ドットジェイピー代表、原野司郎インテリジェンス社執行役員をはじめとする皆様に、この場を借りてお礼を申し上げます。

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2013年6月 7日 (金)

憲法96条改正のメリットとデメリットについて

憲法96条改正論議が盛んである。

いろいろな意見が出されているが、理論的な検討は学者さんにお任せするとして、憲法96条を改正して国会の発議要件を緩和した場合のメリットとデメリットについて、一点ずつ指摘してみたい。

まず、メリットとしては、現行憲法が真に、国民の制定した憲法になる、という点が指摘できる。

反対論の中には、96条が改正されると、時の多数党の思うままに憲法改正が可能になるとの主張もあるようだが、そんなことはない。憲法改正には、国民投票が必要だからだ。国民は、国会によって憲法改正が発議されるたび、国家運営の基本的あり方を自ら考える機会を得る。その結果、改正され、あるいは改正が阻止された日本国憲法は、真に、国民自らが制定したという正統性を獲得するだろう。もちろん、憲法96条を改正しなくても、いつの日か、国民が憲法改正投票を行うときが来るかもしれない。だが、この70年間近く、その機会がただの一回も来なかったというのは、いささか長すぎやしないだろうか。

ところで、国民自身が憲法を制定するというと、まるで「押しつけ憲法論」のようだが、私は、これに与するわけではない。

現行憲法が占領下で制定されたことは事実だけれど、多種多様な憲法草案が日本国民から自主的に提案されたことも事実だし、その中で、「憲法研究会案」がGHQの大いに参考にするところとなったことも事実である。なにより、新憲法は当時の国民の多数に、熱烈に支持された。「押しつけ憲法論」は、歴史認識として間違っているか、あるいは、一種の陰謀論だと、私は考えている。

しかし、戦後の憲法が当時の国民の支持を受けたと言っても、その当時、自らの問題として憲法を考え、支持した人たちは、ほぼ全員鬼籍に入ってしまった。乱暴にたとえるなら、現行憲法は、お爺ちゃんまたは曾お爺ちゃんが若いとき、諸般の事情で下宿していた理想家肌の外国人宣教師と合作した「家訓」のようなものである。現在それは、先祖が作ったものであるというだけで、正統性を保っている。立派なおじいちゃんがつくった家訓だから守るのだ、という意見もあっていいけれど、少なくとも国民主権の原理に照らすと、よろしくないのである。なぜなら、国民主権の「国民」とは、今生きている我々のことだし、「権」とは、究極的かつ具体的には、憲法を制定改廃する権利を意味するからである。先祖がつくったから守るのと、改廃の権利を敢えて行使せず守るのとは、全然違うのだ。

わたしは「押しつけ憲法論」には与しないけれども、現行憲法は出生時から、一種の宿痾を背負っていることも事実である。今後、憲法が民主主義的正統性を獲得するには、我々現役世代が、自ら改正し、または、自ら改正を阻止したという経験が必要ではないだろうか。

他方、デメリットとしては、政治の混乱または停滞が指摘される。衆参両院で過半数を制することが憲法改正発議の条件になるとすれば、最短で6年ごと、つまり参議院選挙が2回行われるたびに、憲法改正発議が可能になる。選挙は憲法改正だけを争点に行われるわけではないし、政権政党の支持率は、選挙後右肩下がりになるのが通常だから、政権政党が本気で憲法を改正しようと思ったら、国会の過半数を制したら直ちに国会に憲法改正案を上程する必要がある。そうなればおそらく、他の法案の審議は全部ストップして、さながら憲法改正国会となるだろう。

もちろん、憲法改正という大仕事のためには、他の政策が全部ストップするのも仕方ない、という意見はあって当然だが、6年に1度は多すぎてちょっと疲れる。私の感覚としては、わが国が憲法改正論議一色に染まるのは、国民一人の一生に二度、つまり30年に一度くらいで、ちょうどではないかと思う。

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2013年6月 3日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(31)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(10)

三宅正太郎の著した『裁判の書』は、永く裁判官の座右におかれた名著とされている。今でも新刊が販売されているようだが、大阪弁護士会図書室にあるそれは、茶色に焼けていた。表題を揮毫したのは三淵忠彦。最高裁判所初代長官である。

『裁判の書』は「裁判の精神」の項で始まる。

「裁判の精神は正義の実現にある。このことは古今に通じ、東西に亘って政道の大本をなすものと認められてきたものであるのに、何故かそれが現代の政治の上に、自分の期待する程に高く昂揚され(ないことが)…不思議でならなかった。それは裁判の学問が法律学の奴となっていたからだ、と私は思うのである。」と続く。

三宅によれば、法律学は西洋に学んだけれども、裁判を西洋に学ぶことはできない。日本人を裁けるのは日本人だけであり、日本独特の考え方をもって裁判に臨まなければならない、裁判の道に於いては、日本古来の学問の伝統が(裁判官の)身について完全にその人自体となることを目的とするべきであり、(裁判官は)常に一歩たりとも修身齊家の道から踏み外してはならず、それで初めて正義の実現という言葉が許される、と説く。

「三宅さんの法廷は修身の教室みたい」という内藤の言葉を彷彿とさせる表現であり、現代の法感覚からすると何とも微妙な感じもあるが、三宅が当時の法曹界の雄として尊敬を集めていたことからすれば、これこそ当時の裁判官の主流をなす考え方であったとみて間違いないだろう。

現代風に平たく言い直すならば、日本における裁判は日本人としての正義感に合致しなければならないし、そうでなければ、統治機構としての裁判所の地位は獲得できない、ということになろうか。

ところで、「裁判の精神」の項において非常に興味深いのは、僅か4頁の中に2箇所も、内藤頼博と関係のある記述が含まれていることだ。

第一は、江戸「幕府の奥女中、江島の後記紊乱事件」に触れている点である。これは正徳4年(1714年)、江戸城大奥御年寄の江島が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となって、関係者多数が斬首をはじめとする粛正にあった綱紀(ご指摘により訂正しました)紊乱事件であり、江島自身は高遠藩にお預けとなって生涯を終えたが、このとき江島を預かった内藤清清枚は、高遠藩内藤家初代藩主であって、内藤頼博の家系上の祖先に当たる。

第二は、三宅が「最も端的にわれわれに裁判の精神を伝えるもの」として紹介する板倉周防守重宗である。板倉重宗は名奉行として知られる板倉勝重の長男として駿府で生まれ、自身も名判事として後世に名を残した人物であるが、内藤頼博との関係では、血縁上の祖先に当たる。

当時の裁判所きっての知性と謳われた三宅であり、内藤頼博を自宅に呼ぶ程の親交があった以上、この二つの文章が内藤を意識して記された可能性は高いと思う。

内藤の三宅に対する、何とも表現しがたい評価ぶりといい、『裁判の書』冒頭の内藤に関連する記述といい、おそらくこの二人の間には、愛憎ともいうべき、曰く言いがたい関係があったと推測せざるを得ない。

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