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2013年7月 8日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(34)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(8)

帝人事件の判決が、被告人全員無罪であったことについて、裁判長の藤井五一郎は、こう述べている。

「玄峰老師の話ではないが、担当検事の間に“和”がなかった、十分打合わせているように見えなかった。また、予蕃判事の間にも、互いに横の連絡がとれていなかった。所長に報告しないで、院長に報告するというような風であったようです。謀議にしても、某日、どこそこの待合で会合したとなっており、待合の帳面もあるが、本人の日記ではその日は、広島へ行って結婚の媒酌をやっているという具合で、十分調べがついていない。経済間題たとえば人絹の将来性などについても、組織的研究は何一つ出来ていない。株屋の外交員から話をきいたりしていた。台湾銀行の背任の問題でも、これは石田君が気がついて調べてみたんですが、台湾銀行の株の消長は、帝人株の動きに左右されているんですね。そして、その株を処分したことで損をかけたどころか銀行に貢献していたのです。まァ、そんな風にいろいろ根本的なミスがあったんです。

裁判中、われわれは一週間に二日ずつくらい泊りこんでいたのですが、結審するころ、所長が君達も疲れたろうから一夜湯河原へでもいって静養したら、というので小田原刑務所見学ということで、骨休めに出かけたのです。岸君は足が悪いもんだから、伊豆山の方からバスで来てもらって行き会って散歩していたのですが、そのとき、私が、君達はどう思う、ときいたら、全員が言下にダメ、という意見で、それで結論が出てしまったわけです。あとは、いかに無罪なるかの理由を書くか、ということで相談して、三人で分担して判決を書いてもらったのです。私が書いたのは、全員無罪という主文だけです」

引用文の冒頭に出てくる「玄峰老師」というのは、龍沢寺の住職として知られた山本玄峰のことである。山本は、血盟団事件の主犯とされた右翼のテロリストである井上日召の特別弁護人を務めた関係で、事件後も藤井と親しくしたらしい。

昭和18年(1943年)6月、藤井が海軍に入隊する長男を連れて山本に面会したところ、山本は、「ズバリ、この戦争は敗けるぞ、といわれました。そして、息子の顔をつくづく眺めて、どうも気の毒だが、といわれた。そこで私が、なぜ敗けるのでしょうか、と勢いこんで聞返しますと、人心に和がない、功名心に焦っている、思い上がっていると国情を批判された」という。「どうも気の毒だが」と言われたのが、前述したとおり、海軍軍人として戦死した長男である。

藤井にかぎらず、山本を慕う著名人は多く、太平洋戦争末期の首相であった鈴木貫太郎に無条件降伏を進言し、終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」との文言を進言し、また、象徴天皇制を発案するなどしたという。

山本自身は、昭和36年(1961年)63日、静岡県三島市の龍沢寺自坊で96歳をもって断食、遷化した。葬儀には大平正芳官房長官(当時)らが参列したという。

昭和の豪傑のひとり、というべき人なのだろう。

血盟団の領袖であった井上日召は、山本に座禅の薫陶を受けたことがあったという。また、昭和45年(1970年)ころには、「盾の会」のメンバー数人が、数週間身を寄せていたことがあったという[1]。これらの事実は、山本の思想的な立ち位置を示唆するとともに、藤井自身のそれを示唆するともいえる。


[1] http://www.geocities.jp/pycbb333/index_016.htm

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