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2013年7月22日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(35)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(9)

司法省編『司法沿革誌』昭和121216日には、帝人事件の判決に関し、次の記述がある(文字は現代仮名に置き換えた)。

「所謂帝人事件(株式会社台湾銀行の取締役等は其の有に属する帝国人造絹糸株式会社株式十万株を不当の廉価を以て売却し同銀行に損害を被らしめ且其の売却を為すに付監督の地位に在る官吏に贈賄したる等の公訴事実)に付東京刑事地方裁判所に於て無罪の判決あり(該事件の公判開廷回数昭和10622日の第1回公判より昭和12105日の結審迄265回)

『司法沿革誌』は、当時の裁判所を中心に、国内外の出来事を記録したものだが、特定の判決が記載されるのは、異例である(大津事件には流石に1頁を割いているが、藤井五一郎判事による血盟団事件については、昭和91122日「血盟団事件に付東京地方裁判所に於て判決あり」の一行だけである)。また、公判開廷回数を敢えて記したのも、異例に多数であり、かつ集中していたからであろう。単純計算すれば、第1回公判日から結審まで837日であり、その間公判が265回開かれたことは、ほぼ三日に1回、週二日ペースだったことになる。今日の裁判員裁判ほどの集中審理ではないが、1個の事件で二年半続くとなれば、相当名ものだ。

判決書も、「一行おきに裏表書いて600頁、…読むのに6時間かかった」[1]という。アナウンサーが原稿を読む速度が1分間300字と言われているから、この速度で読んで6時間では10万字を超える。新書版1冊以上の分量を持つ判決だったわけである。

この長大な判決文をたった二ヶ月で書き上げた理由について、藤井は、「当時は暮の15日が仕事の締めくくりをつける日で、開廷日によっては16日なんです。じっくり書けば翌年2月まではかかった。しかし結論は出ているから被告人の皆さんに気持ちよく正月を迎えてもらおうということで12月の16日に言い渡したんです」と述べている。

いずれも大事件だったことを示すエピソードだが、現在からは、別な見方もできる。「結審するころ、所長が君達も疲れたろうから一夜湯河原へでもいって静義したら、というので小田原刑務所見学ということで、骨休めに出かけた」というのは、明らかな「カラ出張」だし、1216日が仕事納めというのも、28日を仕事納めとする現代の裁判所から見れば、ノンビリしたお話である。なにより、当時の東京地裁きってのエリート判事4人を2年半、1個の事件に貼り付けておくことができた、ということ自体、当時の裁判所の体制に、相当余裕があったことを示している。


[1] 血盟団・帝人事件などの想い出(藤井五一郎 談)

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