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2013年7月29日 (月)

Schlze氏のご意見について

前エントリ「法曹養成関連閣僚会議の決定について」について、Schulze氏が基本的に同意を表明されつつ、一部異見を留保しておられるのでコメントしたい。とはいえ、反論というより、摺り合わせ程度の意見であることを、あらかじめお断りしておく。

さて、Schulze氏は、前エントリについて、「政府は法科大学院制度を見直す考えは微塵もなく、適正な数、すなわち『定評ある』法科大学院のみを残そうとしている」等とまとめたうえ、「このストーリーどおりに事が進むかどうかは、微妙」であるとして、法科大学院制度そのものが破綻する可能性を示唆しておられるように思う。だが、このまとめが間違っているという程ではないけれど、私は「定評ある法科大学院」という言葉は使っていない。また、法科大学院がいくつ潰れようが、法科大学院「制度」は破綻しない。極端な話、東大法科大学院1校だけ生き残っても、法科大学院「制度」は残る。文科省と井上教授は、それでも最低ラインは確保した、と考えるだろう。

1校だけ残すならいっそ法科大学院「制度」を廃止してしまえって?文科省の発想では、そうはならない。一校だけでも残すことは、とても大事である。なぜなら、将来、司法試験合格者を増やす方向に政策転換したとき、一校だけでも残しておけば、法科大学院制度を前提にした制度設計が当然になるからである。「将来、司法試験合格者を増やす方向に政策転換」なんてありえないって?そうかもしれないが、くどいようだけれど、文部官僚はそうは考えない。TPPの結果、国内のリーガルリスクが飛躍的に高まり、法律専門家への需要が増える可能性だってある。そう考えている。可能性がある以上、手がかりとなる所轄を手放すことは絶対にしない。官僚的発想とは、そういうものである。

もちろん、政府文科省は、一校だけ残ることを望んでいるわけではない。おそらく旧帝大プラスα、全部で10校から20校が理想と考えている。しかし、現在なお60校以上あるから、最低でも30校は退場してもらわなければならない。文科省はかつて、23年あれば20校以上潰れると予測した筈だが、下位校が案外しぶとかったため、この予測は外れた。これからの5年というのは、30校を潰すため与えられた猶予期間である。文科省はおそらく、下位校の退場と、「看板の掛け替え」(『こんな日弁連に誰がした?』231ページ)を促すために、相当ドラスティックな手を打つと思う。

Schulze氏が予測するとおり、今後も法曹志望者は減少する可能性が高い。法科大学院の定員数が減り続ければ、法科大学院数削減とのいたちごっこになってしまう。政府はもちろん、こうなる事態を予測している。そのため、政府の下に「有識者会議」を置き、「法曹有資格者の活動領域の拡大を図る」こととしているのだ。なんとしてでも「出口」を増やし、法曹志望者数を確保しよう、というわけである。

そんな苦労をするくらいなら、2000人を諦めて、1500人とか、1000人にすればよい、という意見もあろう。だが、くどいけれど、官僚的発想ではない。もともと、法科大学院制度が発想される以前に、1500人までは決定されていた。法科大学院制度は、歴史的に、司法試験合格者数が年1500人を超えることを前提に構想された制度である(『こんな日弁連に誰がした?』133ページ)。だから、法科大学院制度を残す以上、司法試験合格者数が1500人以下になることは、あり得ないのである。1500人以下にすることは、法科大学院制度の必要性を決定した政府の誤りを認めることになってしまうからである。政府にとって、自らの無謬性を守ることは、何より大事なことの一つだ。

この歴史的事実と、政府の無謬性との整合性を保つには、ぎりぎり、1750人だが、いかにも収まりが悪い。政府文科省は必死で、2000人の維持を図るだろう。

とはいえ、Schulze氏の指摘を待つまでもなく、司法試験受験生が2000人を割れば、合格者数2000人の維持は、物理的に不可能だ。そして、法科大学院の入学者数が数年後に2000人を割ることもありうる。政府文科省も、当然、その可能性は予測している。だが、司法試験受験界には、まだ、滞留した受験資格保持者が1万人以上いる。念のため、受験資格制限も3回から5回に緩和して、滞留受験生数を増やすことにした。その結果として、今後5年間は、司法試験合格者数年2000人を維持できる数的基盤は確保された、と文科省は考えている(余談だが、司法試験合格者数の削減を主張しつつ、受験資格制限の緩和にだけは賛成、と言っている弁護士もいるが、その脳みその構造は理解できない。きっとお花畑なのだろう)。もちろん、受験資格制限緩和の意味するところは、このまま法曹志望者が減れば、今後5年間、物凄い勢いで受験生の質の低下が進む、ということだが、文科省にとっては、そんなことは、基本的にどうでもいいのである。

言うまでもないことだが、5年という数字は、法科大学院制度の永続を望む文科省と、「なんとかせい」という文科省外の声との妥協の産物だから、5年経てば、ことが収まるかどうか、それは当の官僚を含め、誰にも分からない。共通到達度確認試験が5年後に実施されるか否か、それすら不明である。文科省にとって、最も大事なことは、法科大学院制度の維持であり、「5年後の共通到達度確認試験試行」は、その手段にすぎない。だが、その手段を目標に、様々な施策をちりばめた政府決定を行った以上、この5年間は、おいそれと政策変更はできないだろう。前述したとおり、政府とは、無謬性をとても大事にする組織だからである。

確実なことは、政府が5年間の現状維持を決定したこと、この1点である。

そして、この1点だけでも、絶望するに十分である。

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2013年7月22日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(35)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(9)

司法省編『司法沿革誌』昭和121216日には、帝人事件の判決に関し、次の記述がある(文字は現代仮名に置き換えた)。

「所謂帝人事件(株式会社台湾銀行の取締役等は其の有に属する帝国人造絹糸株式会社株式十万株を不当の廉価を以て売却し同銀行に損害を被らしめ且其の売却を為すに付監督の地位に在る官吏に贈賄したる等の公訴事実)に付東京刑事地方裁判所に於て無罪の判決あり(該事件の公判開廷回数昭和10622日の第1回公判より昭和12105日の結審迄265回)

『司法沿革誌』は、当時の裁判所を中心に、国内外の出来事を記録したものだが、特定の判決が記載されるのは、異例である(大津事件には流石に1頁を割いているが、藤井五一郎判事による血盟団事件については、昭和91122日「血盟団事件に付東京地方裁判所に於て判決あり」の一行だけである)。また、公判開廷回数を敢えて記したのも、異例に多数であり、かつ集中していたからであろう。単純計算すれば、第1回公判日から結審まで837日であり、その間公判が265回開かれたことは、ほぼ三日に1回、週二日ペースだったことになる。今日の裁判員裁判ほどの集中審理ではないが、1個の事件で二年半続くとなれば、相当名ものだ。

判決書も、「一行おきに裏表書いて600頁、…読むのに6時間かかった」[1]という。アナウンサーが原稿を読む速度が1分間300字と言われているから、この速度で読んで6時間では10万字を超える。新書版1冊以上の分量を持つ判決だったわけである。

この長大な判決文をたった二ヶ月で書き上げた理由について、藤井は、「当時は暮の15日が仕事の締めくくりをつける日で、開廷日によっては16日なんです。じっくり書けば翌年2月まではかかった。しかし結論は出ているから被告人の皆さんに気持ちよく正月を迎えてもらおうということで12月の16日に言い渡したんです」と述べている。

いずれも大事件だったことを示すエピソードだが、現在からは、別な見方もできる。「結審するころ、所長が君達も疲れたろうから一夜湯河原へでもいって静義したら、というので小田原刑務所見学ということで、骨休めに出かけた」というのは、明らかな「カラ出張」だし、1216日が仕事納めというのも、28日を仕事納めとする現代の裁判所から見れば、ノンビリしたお話である。なにより、当時の東京地裁きってのエリート判事4人を2年半、1個の事件に貼り付けておくことができた、ということ自体、当時の裁判所の体制に、相当余裕があったことを示している。


[1] 血盟団・帝人事件などの想い出(藤井五一郎 談)

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2013年7月19日 (金)

法曹養成関連閣僚会議の決定について

7月16日の時事通信は、「『合格3000人』撤回を決定=司法試験見直し-閣僚会議」と題する記事で、次のように報じた。

「政府の「『法曹養成制度関係閣僚会議』(議長・菅義偉官房長官)は16日午前、首相官邸で会合を開き、司法試験や法科大学院の在り方に関して先に下部組織がまとめた最終報告の内容を、政府の改革方針として決定した。司法試験合格者を年間3000人程度とする政府目標を撤回し、実績が乏しい法科大学院に定員削減や統廃合を促すことが柱だ。…改革方針を具体化するため、政府は8月に内閣官房に担当室を設置する。日本社会にふさわしい法曹人口を提言するための調査や、統廃合などが進まない法科大学院に対する強制的な『法的措置』の検討を2年かけて行う。」

この記事には、正しいところと間違ったところがある、と思う。

まず、正しいところは、司法試験合格者数年3000人を目指すとした閣議決定の撤回を報じた点だ。この閣議決定は2001年だから、撤回まで12年かかったことになる。

間違っている点は、「実績が乏しい法科大学院に定員削減や統廃合を促すことが柱」でもなければ、「強制的な『法的措置』の検討を2年かけて行う」点も、重要な点ではないことだ。大事なことはほかにある。

確かに、「法曹養成制度改革の推進について(案)」は官僚型作文の典型であり、分かりにくいこと甚だしい。そこで、この文章を読み解くため、「組織」と「タイムスケジュール」の観点から分かち書きして、表にしてみたのが添付のPDFファイルだ。

すると、この閣僚会議決定の柱が、「①5年後、②文科省による③『共通到達度確認試験』の試行」であること、他の施策は、この「共通到達度確認試験」実施のための布石であることが分かる。報道を早とちりして、「2年間の問題先送り」と受け取った人も多いが、これは誤解だ。閣僚会議は、現状の5年維持を決定したのである。

5年後までに試行される「共通到達度確認試験」とは、文科省が実施し、合格者には短答式試験の免除が予定されている。つまり、戦後70年近く、法務省が実施してきた司法試験のうち短答式試験を、事実上、文科省の管轄に移す、ということだ。その意味するところは、法科大学院教育内容に合わせた試験問題を作成することにある。

もっとも、法務省から短答式試験実施権限を事実上剥奪し、文科省実施の「共通到達度確認試験」に置き換えたところで、合格者の大半が法務省実施の論文式試験に落第してしまうのでは、意味がない。そこで、これは想像だが、文科省としては、共通到達度確認試験合格者の5割ないし7割は論文式試験に合格(=最終合格)するものとして、制度設計を行うつもりだろう。そのためには、論文式試験合格者(=司法試験最終合格者)の人数を見極めると同時に、共通到達度確認試験の受験者(=法科大学院の定員数)を調整する必要がある。調整とはすなわち、下位法科大学院に退場してもらうことを意味する。

その調整に要する期間、すなわち、法科大学院数が適正な数にまで減少するための期間として、最低5年を要する、と政府は考えたのだ。

そして、これは現役受験生に対する不利な制度変更になりうるから、受験チャンスを55回に緩和して、「合格できるものならこの5年のうちに受かりなさい」と告知した。

また、5年経ってもまだ潰れない、しぶとい下位法科大学院については、5年後から強制排除措置を取る、と脅しておく。

文科省の考えとしては、これから5年間、法科大学院の総定員数減少によって、司法試験受験者数も減るから、合格率は上昇する。この「受験者数減少曲線」と「司法試験合格率上昇曲線」のクロスしたところが、適正な司法試験合格者数であり、法科大学院の総定員数である。従って、年2000人という合格者数は、当面(おそらくこの5年間)は減少しないことが前提となる。なぜなら、合格者数を減らすことは、合格率を低下させるので、いつまで経っても、適正な人数が分からなくなる(=二つの曲線がクロスしない)からである。法科大学院総定員数の減少程度によっては、4年目ないし5年目に、多少減るかもしれないが、その程度と予想される。

以上をまとめると、第一に、試補試験合格者数年3000人という政府目標は撤回されたとはいえ、年2000人という現状は、当面(おそらく5年間)、変更されない。第二に、政府は、法科大学院数の減少を望んでいるものの、法科大学院制度そのものを廃止する意思は全く無い。第三に、司法試験の管轄が、事実上、法務省から文科省に移動していく。というより、法曹養成制度改革の重心が、明らかに文科省にシフトしている。もっとも、法務省と裁判所が、この体たらくを甘受するとは思えないので、今後波乱があるかもしれない。これも想像だが、波乱があるとすれば、予備試験枠の拡大ではなかろうか。この部分は、法務省と最高裁判所の管轄であり、文科省は手出しできないからである。

その他気づいた点を付け加えると、第一に、財政措置に関する文言が全く見られない点からして、この閣僚会議決定には、財務省の厳しいチェックが入ったことが分かる。第二に、第一の点とも関わるが、最高裁判所の財政出動が極めて限定的であることからして、給費制の復活など、夢のまた夢である。

一生懸命パブコメを書いた弁護士諸氏には大変気の毒だが、給費制復活、司法試験合格者数大幅減などを主張したパブコメは、予想通り、一顧だにされなかった、ということになる。

これから5年間も2000人を維持して、弁護士会はどうなるかって?政府は、そんなことを知っちゃいないのである。政府は、日弁連に対して、「必要な取組を積極的に行うことを期待する」だけなのだ。

これが、法曹人口決定権限を失った日弁連の末路なのである。

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2013年7月17日 (水)

亡国の司法改革

国民生活センターは16日、全国の消費者センターで、弁護士報酬をめぐる苦情が急増していると発表した。この種の苦情は昨年比3倍に達しているという。

東京都のAさん(61歳)は、社会人になったばかりの長男が大麻取締法違反で逮捕・起訴されたため、インターネットで探した弁護士に依頼し、執行猶予判決を取れたが、請求された報酬は税抜きで500万円だった。「いかにも正義の味方で、馬力のありそうな名前の法律事務所だから信用したのですが、たまたま知り合った別の弁護士から、『前科前歴がなければ執行猶予は普通。弁護士費用も500万円は法外。せいぜい50万円の事件ですよ』と言われ、騙されたのではないかと心配になった」と語る。また、大阪府のBさん(48歳)は、街頭で配られたチラシを頼りに、弁護士に債務整理を依頼したが、「債権者1人あたり20万円の着手金を払ったうえ、債務免除を受けた金額の2割を請求されました。弁護士費用だけで300万円になります。これなら、消費者金融に払い続けていた方が楽でした」と話す。

一方、問題とされた法律事務所は、法外な請求との主張を真っ向から否定した。「当事務所は弁護士会の指導に基づき、お客さまとの間で詳細な契約書を作成し、オプション料金も丁寧に説明しています。契約書通りに請求しているのに、法外とは、心外です」。

国民生活センターによると、「弁護士報酬をめぐるトラブルが様変わりしている」という。「昔は、寿司屋型。契約書はなく、店主の言い値を払うしかなかったが、多くは良心的。今は、回転寿司型。明朗会計だが、勧められるままに食べていると、皿がとんでもない枚数になっている」

正確な統計はないが、近年、事件あたりの弁護士報酬は高額化している、と経済評論家の森永宅郎氏は指摘する。「日本は2000年以降、弁護士を急激に増やす政策をとりました。その理由には、弁護士を増やして競争原理を導入すれば、費用が安くなるという考えもあったと思われます。しかし、弁護士費用が安くなるのは、十分に市場が広く、薄利多売の成り立つ環境が前提。十分な市場がないまま弁護士だけ増えれば、1人あたりの事件数が減る以上、事件単価が上がるのは当然です。弁護士だって、家族や従業員を養う必要がありますから」と語る。

「法外な弁護士報酬額を規制する考えはないのか」という本紙記者の問いに対し、弁護士会は及び腰だ。もともと、弁護士報酬は全国一律の報酬基準が定められていたが、公正取引委員会から価格カルテルではないかと指摘を受け、平成16年に廃止した経緯がある。「今や弁護士報酬は、顧客と弁護士との自由契約。相場に照らせば10倍かもしれないが、契約書まで作っている以上、規制する理由は見あたらない」。契約書の締結を指導してきたこともあり、これを逆手に取った高額請求には、お手上げのようだ。

日弁連評論家の小林正啓弁護士「見たか日本人。これが司法改革だ。」

注;このエントリはフィクションです。実在の個人や団体には、一切関係ありません。

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2013年7月 8日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(34)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(8)

帝人事件の判決が、被告人全員無罪であったことについて、裁判長の藤井五一郎は、こう述べている。

「玄峰老師の話ではないが、担当検事の間に“和”がなかった、十分打合わせているように見えなかった。また、予蕃判事の間にも、互いに横の連絡がとれていなかった。所長に報告しないで、院長に報告するというような風であったようです。謀議にしても、某日、どこそこの待合で会合したとなっており、待合の帳面もあるが、本人の日記ではその日は、広島へ行って結婚の媒酌をやっているという具合で、十分調べがついていない。経済間題たとえば人絹の将来性などについても、組織的研究は何一つ出来ていない。株屋の外交員から話をきいたりしていた。台湾銀行の背任の問題でも、これは石田君が気がついて調べてみたんですが、台湾銀行の株の消長は、帝人株の動きに左右されているんですね。そして、その株を処分したことで損をかけたどころか銀行に貢献していたのです。まァ、そんな風にいろいろ根本的なミスがあったんです。

裁判中、われわれは一週間に二日ずつくらい泊りこんでいたのですが、結審するころ、所長が君達も疲れたろうから一夜湯河原へでもいって静養したら、というので小田原刑務所見学ということで、骨休めに出かけたのです。岸君は足が悪いもんだから、伊豆山の方からバスで来てもらって行き会って散歩していたのですが、そのとき、私が、君達はどう思う、ときいたら、全員が言下にダメ、という意見で、それで結論が出てしまったわけです。あとは、いかに無罪なるかの理由を書くか、ということで相談して、三人で分担して判決を書いてもらったのです。私が書いたのは、全員無罪という主文だけです」

引用文の冒頭に出てくる「玄峰老師」というのは、龍沢寺の住職として知られた山本玄峰のことである。山本は、血盟団事件の主犯とされた右翼のテロリストである井上日召の特別弁護人を務めた関係で、事件後も藤井と親しくしたらしい。

昭和18年(1943年)6月、藤井が海軍に入隊する長男を連れて山本に面会したところ、山本は、「ズバリ、この戦争は敗けるぞ、といわれました。そして、息子の顔をつくづく眺めて、どうも気の毒だが、といわれた。そこで私が、なぜ敗けるのでしょうか、と勢いこんで聞返しますと、人心に和がない、功名心に焦っている、思い上がっていると国情を批判された」という。「どうも気の毒だが」と言われたのが、前述したとおり、海軍軍人として戦死した長男である。

藤井にかぎらず、山本を慕う著名人は多く、太平洋戦争末期の首相であった鈴木貫太郎に無条件降伏を進言し、終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」との文言を進言し、また、象徴天皇制を発案するなどしたという。

山本自身は、昭和36年(1961年)63日、静岡県三島市の龍沢寺自坊で96歳をもって断食、遷化した。葬儀には大平正芳官房長官(当時)らが参列したという。

昭和の豪傑のひとり、というべき人なのだろう。

血盟団の領袖であった井上日召は、山本に座禅の薫陶を受けたことがあったという。また、昭和45年(1970年)ころには、「盾の会」のメンバー数人が、数週間身を寄せていたことがあったという[1]。これらの事実は、山本の思想的な立ち位置を示唆するとともに、藤井自身のそれを示唆するともいえる。


[1] http://www.geocities.jp/pycbb333/index_016.htm

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2013年7月 1日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(33)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

 

平沼騏一郎と内藤頼博(12)

 

平沼騏一郎を黒幕とした「検察ファッショ」であり、時の齋藤内閣を瓦解させた疑獄事件である帝人事件を担当した藤井五一郎判事は、明治25年、山口県に生まれた長州男児で、三宅正太郎東京地裁所長(当時)の5歳年下にあたる。祖父は造り酒屋、父は弁護士で、裕福な家庭に育ったようだ。

大正7年に東京帝大を卒業して司法官試補となり、東京地方裁判所に勤務した後、大正12年に私費でドイツに留学し、陪審員選任に関する実情調査を命じられている。2年後に帰国した後も東京勤務が続く。相当のエリートだ。

昭和7年(1932年)3月に関係者が逮捕された血盟団事件では、法廷が荒れて担当裁判長が病に倒れたため、ピンチヒッターとして裁判長を務め、毅然とした訴訟指揮で対応した上、被告人らも納得する判決を下したとして、名裁判官と讃えられている。被告人の一人で、血盟団のメンバーであった四元義隆は、昭和15年に出獄した後、近衛文麿や鈴木貫太郎に重用されたほか、戦後も歴代総理の相談役として知られた人物だが、藤井の死後刊行された『藤井五一郎の生涯』に追悼文を寄せている。刑事事件の被告人が担当判事に追悼文を寄せるなど、こんにち考えられないし、当時としても異例だったのではないか。後の経歴と照らし、戦後も親交があったと思われる。

『藤井五一郎の生涯』によれば、藤井は明治神宮への参拝を毎日欠かさなかった。長男は東京帝国大学を卒業するが、藤井は海軍入隊を勧めた。戦時中、勤務した軍艦が撃沈され、九死に一生を得て帰ってきた長男に対して、藤井は「駆逐艦に乗ったらどうか」と言い、その駆逐艦は米潜水艦に沈められて長男も死亡した。「私が殺したようなものです」と藤井は述懐し、同時に「国を恨む気は全く無い」とも述べている。藤井の性格や思想的な立ち位置があらわれている。

昭和20年(1945年)10月、大審院判事を辞職して弁護士になるが、昭和27年(1952年)7月、公安調査庁長官となり、昭和37年(1962年)まで務める。つまり、60年安保闘争当時の公安調査庁長官だったということだ。公安調査庁長官に任命したのは、戦後初の検事総長で、内藤らと厳しく対立することになる木村篤太郎である。

また、『藤井五一郎の生涯』の賛同者リストは下記のとおりだ。生前、相当慕われていたことが窺われる。リストを見ると、政財界の著名人のほか、公安警察関係者と軍人、著名なヤクザまでいて、もと裁判官としては尋常でない人脈が垣間見える。多くは公安調査庁長官時代に培われた人脈だろうが、旧陸軍関係者により創立されたとされる公安調査庁初代長官に就任したこと自体、藤井が長州出身であることと無縁ではなかろう。

余談になるが、藤井によれば、ドイツ留学中、日本人に騙されたというドイツ人女性歯科医の訴えを聞いているうちに深い仲になり(ちなみに留学前に結婚していた)、旅費の1500円を彼女に進呈して船では帰れなくなり、シベリア鉄道で自炊しながらの貧乏旅行。中国では奉天で豪遊し、下関に帰ってきたときには15銭しか持っていなかったという。帝人事件の後、満州に勤務した際、クラブの女性と深い仲になり、昭和21年に妻が病死した後、この女性と再婚している。後妻の恵子氏が『藤井五一郎の生涯』に藤井との交際と結婚生活について記しており、本の性質上、相当オブラートに包んだ書き方をしているものの、再婚後の藤井の女性遍歴は直らず、恵子氏は相当焼餅に悩まされたようである。

これらもまた、藤井五一郎という人物の人となりを示すエピソードとして、とても興味深い。

 

『藤井五一郎の生涯』賛助者名簿

 

裁判官

安倍恕(裁判官、司法研修所所長)

石田和外(最高裁長官)

岡咲恕一(裁判官)

岸盛一(裁判官)

下村三郎(最高裁判事)

本間喜一(最高裁初代事務総長)

前沢忠成(判事、司法研修所所長)

 

政治家・実業家

愛知揆一、(政治家)

荒木万寿夫(政治家、国家公安委員会委員長)

池田秀雄(政治家)

石井光次郎(政治家)

植木庚子郎(昭和期の政治家、財務官僚。元法務大臣・大蔵大臣)

太田政明(日本の内務官僚、政治家。警視総監、台湾総督、貴族院議員)

岸信介(政治家)

鈴木昇(気仙沼市長)

千葉三郎(衆議院議員、宮城県知事)

徳永笹市(政治家?)

徳永正利(政治家)

中川以良、(四国電力社長、参議院議員)

柳田誠二郎(日本航空社長)

 

 

 

弁護士

猪俣浩三、(弁護士、社会党衆議院議員)

岩田春之助(弁護士)

富田康次(弁護士?)

 

 

軍人

烏古廷(中華民国の軍人)烏藻瑞、

高橋節雄(海軍軍人)

甲谷悦雄(軍人)

松崎陽(陸軍軍医)

登東洋夫(陸軍参謀本部)

 

検事・警察官・公安調査庁

荒井道三(中部公安局長)

臼田彦太郎(検事)

大泉重道(検事)

柏村信雄(警察庁長官)

梶川俊吉

川口光太郎(検察官)

木内曽益(検事 血盟団事件担当)

関之(検事、公安調査庁)

木村篤太郎(検事総長、政治家)

竹内寿平(検事)

竹原精太郎(検事?)

土田義一郎(検事)

長山頼正(公安警察官?)

沼田喜三雄(警察官)

野村佐太男(検事)

長谷川瀏(検事)

馬場義續(検事総長)

畠中達夫(警視庁)

弘津恭輔(公安警察?)

深沢保二郎(検事)

正木亮(検察官)

丸物彰(検事)

吉橋敏雄(公安調査庁長官)

 

 

 

 

ジャーナリスト

梅原一雄(東京新聞主筆)

水島毅(雑誌編集長)

萱原宏一(ジャーナリスト)

 

 

担当刑事事件被告等

小沼広晃(血盟団事件被告)

大久保偵次(大蔵官僚。帝人事件被告)

古内栄司、(血盟団事件被告)

町井久之(ヤクザ・実業家)

四元義隆(血盟団事件被告)

 

 

 

 

学者、その他

大塚喜一郎(法学者)

佐々木実義(学者)

佐藤和男(法学者)、

常盤敏太(法学者)

白井烟嵓(日本画家)

伊達巽(神社本庁主事)

 

その他(検索できなかったもの)

阿部裕、青本敏彦、秋山次郎、天野厚、有村秀夫、安西辰二、井口弘、井出忠夫、井上芳男、井ノロ易男、五十川和、伊藤清、伊藤広治、石井治助、石塚長治郎、石原一彦、市原感一、市村隆吉、今村幸雄、笛吹亨三、上原晃、梅沢正男、小関正二、尾崎米一、大内逸郎、大川梅太郎、大川貞雄、大沢一郎、大沢鎌次郎、大森義一、岡崎勲、甲藤楠喜、金田耕作、鐘尾儀蔵、川邨留治、木原憲爾、菊池長晴、菊地喜作、金藤一郎、工藤芳四郎、楠木光雄、鞍谷良行、栗坂諭、小島卓俊、小島芳雄、粉川正、後藤富男、国分則夫、近堂義雄、近藤松久、金野三郎、佐久間幾雄、佐久間一明、佐藤寅佐武朗、佐藤直吉、斉藤三郎、坂井改造、酒井茂登栄、定宗美義、清水信蔵、柴岡浩、島田純一郎、島田忠次、下村亮一、菅原晋、鈴木二郎、鈴木末男、鈴木富来、住安国雄、妹尾勊、田中健次、田中征次郎、田中政応、田中清馬、田中孝、田渕一夫、田村隆治、高岡直寿、高橋一郎、高橋善見、高橋直、高橋真清、立花正三郎、橘源治、谷村正二、茶原義雄、津崎稔、月ヶ瀬利雄、土橋強、土岐龍雄、泊正徳、

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