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2013年8月 5日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(36)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(10)

ところで、藤井五一郎の言葉だけ聞いていると、帝人事件は無罪で当然、という「誤解」が生じかねないから、異説も紹介しておこう。

例えばもと検事総長の佐藤藤佐(さとう・とうすけ)氏は、「帝人事件というのがありまして、一審で無罪になりました。これはいまから見てもずいぶんどうか、と思ったけれどもね。予審判事まで証人に呼んでね。それで、予審で自白したことを公判のときにみんな否認した。それで否認のとおり検察や予審が空中楼閣を作ったというような判決を下したのですが、ずいぶん思い切った判決を下したものだと思うのです。当然控訴するところを、あのときの検事正は岩村通世さんで、塩野さんが大臣でしたが、塩野さんが大乗的見地に立って“控訴するな”という命令をしたわけで、検事正はそれに従って控訴しなかった。あのときは、やはり岩村(検事正)さんの人柄がいいから国会でも問題にならなかったのでしょう。ただ、むしろ、塩野(司法大臣)さんの決済が政治的な決済ではないかという批判をする人もありましたけれども。そういうように検察は一種の行政だから、大臣の指揮権に従うのは当然だという考えがあったから、大臣の方でもやすやすと指揮したわけです。」[1]と述べている。

佐藤藤佐氏の経歴は下記のとおりであり、帝人事件に直接関与したわけではないから、事実関係をどれほど知っていたかは分からない。また、上記の独白は、自身が検事総長時代、造船疑獄事件で当時の佐藤栄作自民党幹事長の逮捕を企図したが犬養健法務大臣による指揮権発動のため果たせなかったことと対比する文脈で述べている。したがって、判決そのものを批判する趣旨とまでは断言できないが、検察として当然控訴すべき事案と考えていることは明らかであり、その限りでは完全な冤罪とは考えていないことが分かる。

また、戦前のもと検事で、岡田啓介内閣(昭和978日~昭和1139日)の司法大臣であった小原直(明治10124日―昭和4298日)は、『小原直回顧録』256ページで、次のように述べている。

「この大疑獄事件については、世間に、いろいろと批判がある。無論司法部としては、大いに反省すべきであるが、一面において、検事の捜査に幾多の欠点があったことを想察し得ると同時に、他面、裁判所が釈放後における被告人の供述や手記に捉われて、判断の適正を欠いた結果、事ここにいたったものと思われ、本判決に対しては、断然控訴の上、公正なる上級審の判断を受けるべきであったにも拘わらず、それをなさず、悔を千歳に残したことは、遺憾千万といわなければならない」

佐藤藤佐の昭和10年までの経歴

明治2717日生

秋田県由利郡小出村

大正144月東京帝国大学法学部卒業

同年5月司法官試補 横浜地方裁判所詰

大正113月東京地方裁判所詰

大正123月判事東京地方裁判所予備判事

大正125月東京地方裁判所判事

大正153月刑事局事務嘱託

昭和62月東京控訴院判事

昭和71月検事兼司法書記官

昭和71月刑事局勤務

昭和85月刑法並監獄法改正委員会幹事

昭和105月独逸伯林第11回国際刑法並監獄会議帝国委員


[1] 『法窓風雲録 あの人この人訪問記(下)』野村正男244

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