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2013年9月 2日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(37)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(11)

野村正男著『法曹風雲録 あの人この人訪問記』には、帝人事件に関し、藤井五一郎と相容れない立場からの証言がもう一つある。担当予審判事、両角誠英氏である。

予審判事の主任として、予審有罪の決定を下した人物だから、立場が違うのは当然だが、同氏が司法史上に名を残したのは、帝人事件の公判廷に、3回にわたって証人として召喚され、証言拒否を貫いたからである。もと検事総長の佐藤藤佐が「(藤井五一郎裁判長らが)予審判事まで証人に呼んでね。…ずいぶんどうかと思った」と苦言を呈した、その予審判事の一人である。

刑事公判廷に予審判事が証人として召喚されるという、空前絶後の事態は、当時「信書問題」として、世間の注目を浴びていた。

これは、帝人事件の被告の一人が「自分は詳細に検事に自白したから君も自分の立場に考慮することなく一切自白されたい」という意味のいわゆる自白勧告書を書き、これが担当の枇杷田検事を仲介して他の被告に差し入れられたが、当時は既に予審判事以外接見禁止中だったから、予審判事の許可を得ず自白勧告書を差し入れたとすれば、違法となる。ところが、枇杷田検事は公判廷で、「『信書をみせるとき両角予審判事の許可を得ました、両角判事はいまになって意外にも許可を与えた覚えなしといっておられるが自分は責任をもって許可を得たことをお答えします』と明言したため、同判事が召還される事態となったものである。

『法窓風雲録』における両角氏の述懐によれば、同氏は旧刑事訴訟法1851項「公務員または公務員たりしものの知り得たる事実につき本人または当該公務所より職務上の秘密に関するものなることを申立てたるときは当該監督官庁の承諾あるにあらざれば証人としてこれを訊問することを得ず」を盾に証言拒否を貫いたという。この問題については、昭和1269日の朝日新聞大阪版が、「平沼騏一郎(現枢府議長)小山松吉(元法相)矢追秀作(元東京控訴院検事長)の諸氏は「適格性ならず(=証言拒否は適法)」との見解を持し、林頼三郎(元法相)小野清一郎(東大教授)宮本英修(京大教授)の諸氏は「適格なり(=証言拒否は違法)」とし」と紹介し、法解釈上も論争があることを解説している。両角氏は平沼騏一郎らの解釈にしたがったわけである。

もっとも両角氏の同述懐によれば、3回目の公判廷で「その件については一年前に図らずも鬼頭豊隆東京地方裁判所長宛に提出した報告書中に一寸触れて記載しておいた旨申し述べ」た結果、この報告書が証拠採用されて一件落着したという。この証言がなぜ守秘義務違反にならないのか、信書問題について証言拒否を貫く両角判事の証言となぜ一貫するのか、全く分からないが、何らかの「大人の決着」が図られたとみるべきなのだろう。この一件も、帝人事件が極めて政治色の強い事件であったことを示している。

ちなみに、『法窓風雲録』において両角誠英判事は、大正4年(1915年)の司法官「採用直後、大先輩の平沼騏一郎先生のところを訪ねまして、“今後司法官としての心構えについてお教えを願いたい”と言って教えを乞うたのです」と述べている。両角氏は明治24年長野県の生まれであり、慶応3年に岡山県に生まれた平沼騏一郎は、東京大学の先輩でしかなく、しかも両角氏が生まれたときには東大3年生であって、親子ほど年の離れた大先輩であるというほか、何の関係もない。つまりこの訪問は、当時、名実共に司法界の最高実力者の地位にあった平沼に対する表敬と帰順の意思表示である。そして、両角氏は、回顧録の最初に平沼の名を挙げることによって、自分が平沼人脈に属した人間であることを明らかにしたのである。

平沼騏一郎が没してから10年以上経ち、かつ、自らも現役を引退した後ですら、平沼騏一郎との関係性を明示したのは、両角氏の性格上のことなのか、それとも、他の理由があるのか、不明である。いずれにせよ、昭和10年頃の平沼騏一郎は、それほどの影響力の持主だった、ということなのだろう。

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