内藤頼博の理想と挫折(38)
占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。
平沼騏一郎と内藤頼博(12)
昭和12年12月16日に全員無罪の判決がなされた帝人事件だが、同月23日の控訴期間満了日(ということは戦前の控訴期間は一週間だったということだ)、検察側は控訴断念を発表した。
翌24日の大阪朝日新聞は、「帝人事件大乗的見地から遂に"控訴せず"」と題し、「検察部としては数度これが対策を協議、検事控訴することに一決し昨二十二日午後法相官邸において司法部最高首脳部会議を開き塩野法相、泉二検事総長、吉益東京検事長の三巨頭鼎座協議したが検察側の断乎控訴説に対し塩野法相は政治的、社会的見地からさらに慎重を期し三巨頭間の意見の一致を見るにいたらなかったため当日はそのまま散会するのやむなきにいたったが控訴期間満了日の二十三日午前十時半から第三次首脳部会議を法相官邸に開き問題の案件について協議した結果ここに塩野法相の大乗的見地からの意見が有力となり
一、判決を反駁するに足る根拠が比較的薄弱であること
一、戦時下の国家相剋を除くこと
などの諸点から控訴せず一審判決に服することとなり、その旨塩野法相談話の形式で二十三日午前十一時半声明した」と報じた。また、「最後の土壇場において法相の主張に譲らねばならなかった泉二検事総長、吉益検事長は…悲壮な面持で法相官邸を出た」としている。
この「大乗的見地」という言葉は、仏教用語ではない。辞書によれば、「大局的見地」と同義であり、高度な政治的判断といいかえてもよい。
帝人事件は、時の齋藤実内閣を総辞職に追い込んだ。その被告人が全員無罪となれば、後継内閣の正統性に疑問符がつきかねない。また、この事件の黒幕が平沼騏一郎であることは公然の秘密だから、二審で再び無罪になろうものなら、当時首相の有力候補であった平沼の重大な汚点になる。検察の威信は地に落ち、国家総動員体制下、いかにも都合が悪い。「大乗的見地」とは、結局のところ、こういうことなのだろう。
藤井五一郎は、「塩野司法大臣が、大乗的見地に立って控訴しない、と声明しましたが、大乗的見地というのは一体何ですかね」と皮肉っている[1]。藤井五一郎からすれば、刑事手続に政治判断を持ち込むなど言語道断、ということなのだろう。
[1] 『法窓風雲録』下72ページ
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