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2013年9月24日 (火)

内藤頼博の理想と挫折(39)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(13)

司法会の頂点に登り詰め、その人事権を掌握して権勢をほしいままにし、政敵を葬るため検察権力を濫用し「司法ファッショ」という言葉を生んだ平沼騏一郎が黒幕にいたとされる帝人事件だが、藤井五一郎裁判長らは、被告人全員無罪を言い渡し、検察側は控訴を断念した。

つまり、検察のメンツ丸つぶれということであり、実際、平沼と司法省は、世論の批判を浴びることになった。

さて、本稿の目的は、戦前の司法省による裁判所支配を考察することにあった。戦前の司法省が人事権を通じて裁判所を支配していたとすれば、被告人全員無罪の判決を書いて、検察のメンツを潰した藤井五一郎裁判長以下は、司法省による峻烈な人事上の報復を受けていなければならない。

内藤頼博はこの頃を振り返って、次のように述べている[1]

「昭和12年に、僕が今の東京地裁刑事部にあたる東京刑事地方裁判所に居たとき、いわゆる『帝人事件』の裁判がありました。藤井五一郎裁判長のところの合議体で、陪席判事は岡咲恕一さん、石田和外さん、それに岸盛一君でしたが、予審終結決定をした裁判官を証人に呼んで調べるというような徹底した訴訟指揮をし、"空中楼閣とか"水中掬月とかという表現で検察官の起訴を徹底的に斥けて、全員無罪の判決をしたものでした。

当然検事局が控訴すべき事件なのですけれども、司法大臣がそれを控訴させないで、そしてどっちかというと不問に付したのです。そこで検事がそれに対して非常に不満をもったわけです。ただ、検事といってもこれは一部の検事ですが、その不満が裁判所に向かい、その時から裁判所何するものぞ、というような空気が一部に起きてきたわけです。これは大きなことだと思いました。

『帝人事件』というのは、そういういろいろな意味で私に裁判というものを考えさせてくれた事件でした。」

この証言によると、帝人事件の判決後、「検察官の一部」から、裁判所に対して、何らかの圧力が加わったように思われる。

家永三郎著『司法権独立の歴史的考察』52ページには、河本喜与之もと判事が昭和361021日に語った言葉として、「帝人事件に対し無罪の判決を下した東京地方裁判所判事藤井五一郎が左遷されそうになり、周囲の判事たちの強硬な反対の結果、わずかに阻止されたことなどがあった」との記述がある[2]

このように、証言としては、藤井五一郎以下の担当裁判官に、人事上の報復がなされ(ようとした)ことを窺わせるものがある。


[1] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」71ページ

[2] もっとも、河本の著作物には、同様の記載は見当たらない。

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