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2013年9月30日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(40)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(14)

司法会の頂点に君臨した平沼騏一郎が政敵を攻撃するためにでっち上げたと言われる「帝人事件」だが、藤井五一郎以下東京刑事裁判所の判事らは、被告人全員無罪を言い渡し、検察側の主張を「空中楼閣」と断罪した。メンツを潰された検察官と司法省は、藤井五一郎判事らに対して、人事上の報復を行ったのだろうか。

昭和12年(1937年)1216日の判決から約2年後である昭和149月、藤井五一郎は、蒙古連合自治政府の司法部次長となり、昭和173月に東京控訴院部長に戻り、終戦直後の昭和2010月、依願退官した[1]

また、補充裁判官であった岸盛一判事も、昭和149月に蒙古連合自治政府の刑事科長に転出し、翌昭和1512月に司法省刑事局司法事務官に帰ってきている。

つまり、藤井五一郎裁判長と岸盛一補充判事は、同時に蒙古連合自治政府に派遣されたということである。

蒙古連合自治政府というのは、昭和14年(1939年)91日、蒙古聯盟・察南・晋北の3自治政府が統合され設立された政府であり、首都を帳家口市においた。帳家口市は北京の北西に位置する戦略上の要衝である。自治政府の設立は日中戦争(19371945)の最中であり、モンゴル族のデムチュクドンロブ(徳王)を主席に置いたものの、実態は日本の傀儡政権であった。内蒙古社会科学院歴史学教授の廬明輝氏は、「日本軍の内モンゴル占領と『蒙古連合自治政府』の本質」で、「つまるところ、『蒙古聯合自治政府』の本質は、完全に日本軍部の直接支配下に置かれた傀儡組織であり、その各級組織は完全に日本人顧問などの直接支配下にある御用機関であった。」と述べている。

蒙古連合自治政府は、1941年(昭和16年)に蒙古自治邦政府と改称するが、19458月、ソ連軍対日参戦によって崩壊した。政府としての存続期間は6年弱ということになる。

もっとも、本稿の関心は蒙古連合自治政府が傀儡政権か否かではなく、その司法部次長及び刑事科長として派遣された藤井五一郎と岸盛一の人事が左遷なのか否か、ということである。

思うに、日本陸軍(関東軍)の中国進出拠点を無理矢理統合して設立したばかりの植民政府である以上、治安は混乱していただろうし、ならず者が横行し、反政府分子の摘発も多かっただろう。司法部次長・刑事科長といえば聞こえはいいが、要は汚れ仕事である。藤井自身、「蒙古に行っていかに被圧迫民族が処遇されるかを見ていて同情していた」[2]と述べている。岸盛一が一年余りで帰国した理由は定かでないが、健康上の理由もありうる。

帝人事件で、無辜の被告人を「司法ファッショ」から救出した藤井を、植民地支配者として派遣する人事は、誰が差配したのか分からないが、ある種絶妙な嫌味が込められている、と考える。藤井自身、「私が蒙古に行くときは、帝人事件で無罪をやり、検事に排斥されたのだ、というウワサもあった」と述べており、この人事を左遷と見る人がいたことを認めている。

結論として、藤井五一郎と岸盛一は、左遷されたと見るべきだろう。

ちなみに、昭和42年の『司法大観』によれば、岸盛一の経歴は次のとおりである。

明治41年(1908年)714日生

昭和511月司法科試験

66月司法官試補(東京)

712月東京地裁予備判事

82月神戸地裁判事

106月東京刑事地裁兼民事地裁判事

138月司法省調査部司法事務官

14年蒙古連合自治政府刑事科長

1512月司法省刑事局司法事務官

172月司法省調査部第三課長

同年9月東京控訴院判事

昭和18年(1943年)6月東京刑事地裁判事

213月東京刑事地裁部長

2212月最高裁事務局刑事部長

246月東京高裁判事最高裁事務総局刑事局長

259月司法制度視察のため米国へ出張

2812月免最高裁事務総局刑事局長、東京地裁判事

3411月刑事訴訟法講義のため沖縄へ出張

3810月司法制度視察のため西ドイツへ出張

同年11月最高裁事務総局事務次長

406月最高裁事務総長

そして1971年(昭和46年)4月、岸盛一は最高裁判所判事に就任し、19787月に定年退官、翌1979年(昭和54年)725日に死去した。

経歴を見ると、まず、戦前と戦後の乖離が激しいことに驚く。昭和18年(35歳)にして東京地裁判事というのは、明らかに回り道をしているが、戦後はとんとん拍子の出世だ。また、経歴上は昭和28年から昭和38年まで、ほとんど空白となっているが、昭和36327日、最高裁判所から差し戻された砂川事件で、逆転有罪判決を下している。また、最高裁判事としては、昭和48年(1973年)425日、いわゆる全逓中郵事件大法廷判決で、公務員の労働基本権制限を認める多数意見を、石田和外裁判長とともに書いている。

この経歴を見ると、帝人事件とその後の人事上の報復措置が、岸盛一の思想に与えた影響は、極めて大きいと推測される。

では、陪席裁判官の岡咲恕一と石田和外はどうだろうか。


[1] 『法窓風雲録(下)』72ページ

[2] 『法窓風雲録(下)』72ページ

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