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2013年9月30日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(40)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(14)

司法会の頂点に君臨した平沼騏一郎が政敵を攻撃するためにでっち上げたと言われる「帝人事件」だが、藤井五一郎以下東京刑事裁判所の判事らは、被告人全員無罪を言い渡し、検察側の主張を「空中楼閣」と断罪した。メンツを潰された検察官と司法省は、藤井五一郎判事らに対して、人事上の報復を行ったのだろうか。

昭和12年(1937年)1216日の判決から約2年後である昭和149月、藤井五一郎は、蒙古連合自治政府の司法部次長となり、昭和173月に東京控訴院部長に戻り、終戦直後の昭和2010月、依願退官した[1]

また、補充裁判官であった岸盛一判事も、昭和149月に蒙古連合自治政府の刑事科長に転出し、翌昭和1512月に司法省刑事局司法事務官に帰ってきている。

つまり、藤井五一郎裁判長と岸盛一補充判事は、同時に蒙古連合自治政府に派遣されたということである。

蒙古連合自治政府というのは、昭和14年(1939年)91日、蒙古聯盟・察南・晋北の3自治政府が統合され設立された政府であり、首都を帳家口市においた。帳家口市は北京の北西に位置する戦略上の要衝である。自治政府の設立は日中戦争(19371945)の最中であり、モンゴル族のデムチュクドンロブ(徳王)を主席に置いたものの、実態は日本の傀儡政権であった。内蒙古社会科学院歴史学教授の廬明輝氏は、「日本軍の内モンゴル占領と『蒙古連合自治政府』の本質」で、「つまるところ、『蒙古聯合自治政府』の本質は、完全に日本軍部の直接支配下に置かれた傀儡組織であり、その各級組織は完全に日本人顧問などの直接支配下にある御用機関であった。」と述べている。

蒙古連合自治政府は、1941年(昭和16年)に蒙古自治邦政府と改称するが、19458月、ソ連軍対日参戦によって崩壊した。政府としての存続期間は6年弱ということになる。

もっとも、本稿の関心は蒙古連合自治政府が傀儡政権か否かではなく、その司法部次長及び刑事科長として派遣された藤井五一郎と岸盛一の人事が左遷なのか否か、ということである。

思うに、日本陸軍(関東軍)の中国進出拠点を無理矢理統合して設立したばかりの植民政府である以上、治安は混乱していただろうし、ならず者が横行し、反政府分子の摘発も多かっただろう。司法部次長・刑事科長といえば聞こえはいいが、要は汚れ仕事である。藤井自身、「蒙古に行っていかに被圧迫民族が処遇されるかを見ていて同情していた」[2]と述べている。岸盛一が一年余りで帰国した理由は定かでないが、健康上の理由もありうる。

帝人事件で、無辜の被告人を「司法ファッショ」から救出した藤井を、植民地支配者として派遣する人事は、誰が差配したのか分からないが、ある種絶妙な嫌味が込められている、と考える。藤井自身、「私が蒙古に行くときは、帝人事件で無罪をやり、検事に排斥されたのだ、というウワサもあった」と述べており、この人事を左遷と見る人がいたことを認めている。

結論として、藤井五一郎と岸盛一は、左遷されたと見るべきだろう。

ちなみに、昭和42年の『司法大観』によれば、岸盛一の経歴は次のとおりである。

明治41年(1908年)714日生

昭和511月司法科試験

66月司法官試補(東京)

712月東京地裁予備判事

82月神戸地裁判事

106月東京刑事地裁兼民事地裁判事

138月司法省調査部司法事務官

14年蒙古連合自治政府刑事科長

1512月司法省刑事局司法事務官

172月司法省調査部第三課長

同年9月東京控訴院判事

昭和18年(1943年)6月東京刑事地裁判事

213月東京刑事地裁部長

2212月最高裁事務局刑事部長

246月東京高裁判事最高裁事務総局刑事局長

259月司法制度視察のため米国へ出張

2812月免最高裁事務総局刑事局長、東京地裁判事

3411月刑事訴訟法講義のため沖縄へ出張

3810月司法制度視察のため西ドイツへ出張

同年11月最高裁事務総局事務次長

406月最高裁事務総長

そして1971年(昭和46年)4月、岸盛一は最高裁判所判事に就任し、19787月に定年退官、翌1979年(昭和54年)725日に死去した。

経歴を見ると、まず、戦前と戦後の乖離が激しいことに驚く。昭和18年(35歳)にして東京地裁判事というのは、明らかに回り道をしているが、戦後はとんとん拍子の出世だ。また、経歴上は昭和28年から昭和38年まで、ほとんど空白となっているが、昭和36327日、最高裁判所から差し戻された砂川事件で、逆転有罪判決を下している。また、最高裁判事としては、昭和48年(1973年)425日、いわゆる全逓中郵事件大法廷判決で、公務員の労働基本権制限を認める多数意見を、石田和外裁判長とともに書いている。

この経歴を見ると、帝人事件とその後の人事上の報復措置が、岸盛一の思想に与えた影響は、極めて大きいと推測される。

では、陪席裁判官の岡咲恕一と石田和外はどうだろうか。


[1] 『法窓風雲録(下)』72ページ

[2] 『法窓風雲録(下)』72ページ

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2013年9月26日 (木)

安倍首相、法曹人口対策本部を視察 オリンピック招致の公約実現へ第一歩

安倍首相は25日、法曹人口対策本部(東京都千代田区)を視察し、既に廃校が決まっている大宮法科大学院など10校に加え、帝明大学法科大学院と産流大学法科大学院の廃校を公表した。視察後、同行した記者団に対し、法曹志望者の減少や質の低下等の問題に関しては、「(東京オリンピックが開催される)2020年までに解決する」との方針を明らかにした。

首相は2020年の東京オリンピックの招致に際し、国際的にも懸念を呼んでいるわが国の司法制度崩壊について、「状況はコントロールされている」と発言し、事実上の国際公約となっていた。今回の法曹人口対策本部視察は、司法制度崩壊を食い止める姿勢を国内外にアピールする狙いがあると見られる。

2000年にはじまった司法制度改革だが、最大の問題は、司法修習生の就職問題。司法試験に合格し、司法研修所を卒業したにもかかわらず就職先が見つからない就職浪人が、毎年500人以上発生しており、これが法曹志望者の激減と質の低下を招いているとされている。安倍首相を案内した日弁連幹部は、「就職できなかった司法修習生は港湾内で完全にブロックされており、外界への影響は全く無い」と説明していたが、同行した外国人記者から「就職浪人は毎年500人ずつ増えるのだから、(港湾内から)溢れるのは時間の問題ではないか」と問い詰められても答えられず、対策が後手に回る現状を裏付ける形となった。

政府としては、実績の上げられない法科大学院を廃校させることによって、就職浪人の減少を図る方針だが、「そもそも低迷校から司法試験合格者は出ないから、(合格者の)就職問題の解決にはならない」との指摘もあり、効果は未知数だ。

日弁連の山串憲司会長は、視察後首相と会談。首相に対して「凍土壁を設置して司法試験の合格者を年1500人以下に減らして欲しい」と要請したが、首相は現状の年2000人を維持する考えを示し、会談は物別れに終わった。

会談を終えた山串会長は、「政府と一致できなかったのは残念だが、今後も協力し合って司法制度改革を進め、社会のすみずみに法の支配を広げて、東京オリンピックの成功につなげたい」と語ったが、今後の具体策は?との記者の質問には一切答えず、会見を打ち切った。

日弁連評論家の小林正啓弁護士「滝川クリステル風にいうと、う・つ・て・な・し。なんまんだぶ、ってことですね」

注;このエントリはフィクションです。実在の個人や団体とは一切関係ありません。

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2013年9月24日 (火)

内藤頼博の理想と挫折(39)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(13)

司法会の頂点に登り詰め、その人事権を掌握して権勢をほしいままにし、政敵を葬るため検察権力を濫用し「司法ファッショ」という言葉を生んだ平沼騏一郎が黒幕にいたとされる帝人事件だが、藤井五一郎裁判長らは、被告人全員無罪を言い渡し、検察側は控訴を断念した。

つまり、検察のメンツ丸つぶれということであり、実際、平沼と司法省は、世論の批判を浴びることになった。

さて、本稿の目的は、戦前の司法省による裁判所支配を考察することにあった。戦前の司法省が人事権を通じて裁判所を支配していたとすれば、被告人全員無罪の判決を書いて、検察のメンツを潰した藤井五一郎裁判長以下は、司法省による峻烈な人事上の報復を受けていなければならない。

内藤頼博はこの頃を振り返って、次のように述べている[1]

「昭和12年に、僕が今の東京地裁刑事部にあたる東京刑事地方裁判所に居たとき、いわゆる『帝人事件』の裁判がありました。藤井五一郎裁判長のところの合議体で、陪席判事は岡咲恕一さん、石田和外さん、それに岸盛一君でしたが、予審終結決定をした裁判官を証人に呼んで調べるというような徹底した訴訟指揮をし、"空中楼閣とか"水中掬月とかという表現で検察官の起訴を徹底的に斥けて、全員無罪の判決をしたものでした。

当然検事局が控訴すべき事件なのですけれども、司法大臣がそれを控訴させないで、そしてどっちかというと不問に付したのです。そこで検事がそれに対して非常に不満をもったわけです。ただ、検事といってもこれは一部の検事ですが、その不満が裁判所に向かい、その時から裁判所何するものぞ、というような空気が一部に起きてきたわけです。これは大きなことだと思いました。

『帝人事件』というのは、そういういろいろな意味で私に裁判というものを考えさせてくれた事件でした。」

この証言によると、帝人事件の判決後、「検察官の一部」から、裁判所に対して、何らかの圧力が加わったように思われる。

家永三郎著『司法権独立の歴史的考察』52ページには、河本喜与之もと判事が昭和361021日に語った言葉として、「帝人事件に対し無罪の判決を下した東京地方裁判所判事藤井五一郎が左遷されそうになり、周囲の判事たちの強硬な反対の結果、わずかに阻止されたことなどがあった」との記述がある[2]

このように、証言としては、藤井五一郎以下の担当裁判官に、人事上の報復がなされ(ようとした)ことを窺わせるものがある。


[1] 『法の支配』199412月号「内藤頼博先生に聞く」71ページ

[2] もっとも、河本の著作物には、同様の記載は見当たらない。

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2013年9月19日 (木)

後期高齢弁護士責任賠償保険制度発足へ

日弁連は916日、後期高齢弁護士責任賠償保険制度の発足を公表した。

後期高齢弁護士責任賠償保険(略称「後高賠」)は、75歳以上の弁護士が依頼者に経済的損害を与えたときに賠償する保険。従来より、弁護士のミスなどで依頼者に与えた損害を賠償する保険があったが、加入は任意だった。これに対して「後高賠」は強制加入となる。

また、一般の弁護士賠償保険は、横領など故意や重大な過失により依頼者に損害を与えた場合の保険金支払いがないのに対して、「後高賠」は、故意による損害も補填するのが特徴。

「後高賠」発足の背景には、多発した高齢弁護士による不祥事がある。75歳以上の弁護士による預かり金の横領や事件放置は、ここ数年急増。1000万円以上の横領事件だけでも、過去1年間に10件起きており、日弁連の監督責任を問う世論が高まっていた。

「高齢弁護士による不祥事の特徴は、弁護士本人がボケていて、横領の認識すらない場合が多いこと。認知症の弁護士による依頼者の損害をカバーするため、(故意過失を問わず賠償する)保険が必要だった。『後高賠』の導入により、高齢の弁護士でも安心して事件を頼めるようになり、法の支配を社会のすみずみに、という司法改革の趣旨にも合致する」と日弁連幹部は背景を語った。

保険料は年齢を問わず、全会員が負担する。この措置には若手弁護士を中心に大きな反発が生じた。「そもそも認知症の弁護士賠償保険を作る前に、資格返上させるべきではないか」という声が高まり、「弁護士75歳定年制」を導入する動きもあったが、「定年制は結局自分の身にはねかえってくる。若手弁護士ほど将来に対する不安が大きく、75歳で資格を返上できる自信がない」(日弁連幹部)ため、尻すぼみに。それでも一部の若手弁護士は、日弁連総会で反対決議を提案したが、長老弁護士から「黙れ小僧!」と一喝され、腰砕けとなってしまった。

日弁連評論家の小林正啓弁護士 「『後高賠』って、もしかして『好々爺』とひっかけているのか?いずれにしろ、敬老の日にふさわしい、いいニュースだと思いますが、なにか?」

注;このエントリはフィクションです。実在の個人や団体とは一切案系ありません。

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2013年9月17日 (火)

内藤頼博の理想と挫折(38)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(12)

昭和121216日に全員無罪の判決がなされた帝人事件だが、同月23日の控訴期間満了日(ということは戦前の控訴期間は一週間だったということだ)、検察側は控訴断念を発表した。

24日の大阪朝日新聞は、「帝人事件大乗的見地から遂に"控訴せず"」と題し、「検察部としては数度これが対策を協議、検事控訴することに一決し昨二十二日午後法相官邸において司法部最高首脳部会議を開き塩野法相、泉二検事総長、吉益東京検事長の三巨頭鼎座協議したが検察側の断乎控訴説に対し塩野法相は政治的、社会的見地からさらに慎重を期し三巨頭間の意見の一致を見るにいたらなかったため当日はそのまま散会するのやむなきにいたったが控訴期間満了日の二十三日午前十時半から第三次首脳部会議を法相官邸に開き問題の案件について協議した結果ここに塩野法相の大乗的見地からの意見が有力となり

一、判決を反駁するに足る根拠が比較的薄弱であること

一、戦時下の国家相剋を除くこと

などの諸点から控訴せず一審判決に服することとなり、その旨塩野法相談話の形式で二十三日午前十一時半声明した」と報じた。また、「最後の土壇場において法相の主張に譲らねばならなかった泉二検事総長、吉益検事長は…悲壮な面持で法相官邸を出た」としている。

この「大乗的見地」という言葉は、仏教用語ではない。辞書によれば、「大局的見地」と同義であり、高度な政治的判断といいかえてもよい。

帝人事件は、時の齋藤実内閣を総辞職に追い込んだ。その被告人が全員無罪となれば、後継内閣の正統性に疑問符がつきかねない。また、この事件の黒幕が平沼騏一郎であることは公然の秘密だから、二審で再び無罪になろうものなら、当時首相の有力候補であった平沼の重大な汚点になる。検察の威信は地に落ち、国家総動員体制下、いかにも都合が悪い。「大乗的見地」とは、結局のところ、こういうことなのだろう。

藤井五一郎は、「塩野司法大臣が、大乗的見地に立って控訴しない、と声明しましたが、大乗的見地というのは一体何ですかね」と皮肉っている[1]。藤井五一郎からすれば、刑事手続に政治判断を持ち込むなど言語道断、ということなのだろう。


[1] 『法窓風雲録』下72ページ

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2013年9月13日 (金)

婚外子差別違憲判決と、司法の役割について

94日の婚外子差別違憲判決に対する4大紙の社説は、そろって判決を支持した。遅きに過ぎたと批判しているものすらある。見出しを並べると、「遅すぎた救済のつけ」(朝日)、「家族間の変化に沿う違憲判断」(読売)、「長かった平等への道」(毎日)、「国会は速やかに相続差別規定の撤廃を」(日経)だ。この違憲判決を批判する意見はほとんど聞こえてこないし、政府も早急な法改正を目指すという。

これは、奇妙な話である。

4大紙が社会の木鐸を自認し、真に国民の意思を代弁しているのなら、違憲判決を遅すぎたと批判する前に、国会を通じて相続法を改正すべきだろう。民主主義とは、本来、そういうものである。最高裁判決をきっかけとする法改正を、口を開けて待っているだけでは、主権者たる自覚に欠けるとのそしりを免れない。

とはいえ、現実問題として、現在の議会制民主主義制度だけで、婚外子差別条項の改正が実現できたとは思われない。議会や新聞社の仕事は多いし、優先順位もあるからだ。

ところで、「裁判所は少数者の人権を守る機関であり、自由主義に基づく。国会は多数者の利益を実現する機関であり、民主主義に基づく」という考え方がある。多くの法学部生がこう教えられるし、多くの法律家が、こう理解している。裁判所は少数者の人権を守る機関だというのが、司法に対する伝統的な理解なのだ。

だが、婚外子差別違憲判決が、世論から支持され、遅すぎたくらいだと批判される事態は、伝統的な考え方からは、理解できない。なぜなら、最高裁は、多数意思に沿った判断をしたことになるからだ。もし、少数者の人権を守ることが裁判所の使命なら、裁判所は、婚外子差別を支持すべきであり、違憲判決を出すのは間違い、ということになる。だが実際には、伝統的な司法観の持ち主に限って、今回の違憲判決を支持していたりする。彼らは、自らの矛盾に気づいていない。

そうだとすれば、改められるべきは、この伝統的な「司法の役割」観ではないだろうか。

妻の子には妻の子の正義があり、妻でない女性の子には妻でない女性の子の正義がある。この二つの正義は決して相容れないし、古今東西を通じて普遍的に、どちらの正義が正しい、ということもない。これは要するに、立場によって正義が違う、ということである。婚外子に限らず、日本中どこにだって、たくさんある問題だ。右利きには右利きの正義があり、左利きには左利きの正義がある。改札機が進行方向右側にあるのは、許されない差別だ、という考え方だって、あってよい。

自分の立場の正義を、法制度として実現する方法はいろいろある。行政に陳情するのも一つだし、立法府の議員を動かすのも一つの方法だ。そして、裁判所に訴えるのも、自分の立場の正義を実現する、一つの方法である。

肝心なことは、これらはすべて、国民の自己実現の方法だ、ということであり、同じ価値を持つ、ということだ。正義を実現する権利を国民自身に留保する制度を国民主権と呼ぶならば、裁判所に訴えることも、国民主権の表れにほかならない。そうだとすれば、司法の役割を、民主主義と対立させる理解のしかたは、間違いだということになる。

どんなに易しく書こうとしても難しくなってしまうが、要は、多数派か少数派かなんて、関係ないのである。国民一人一人が、正義と幸福を自ら求め続けること、これが民主主義であり、司法も民主主義を実現する一つの機関にすぎないのだ。

で、妻の子はどうすればよいかって?

妻の子は、妻の子の正義を、裁判所に訴えればよい。10年かかるかもしれないし、50年かかるかもしれないが、再び判例を変更させ、相続法を再改正させるまで、自分の正義を訴え続けるのだ。

それが民主主義ということであり、妻でない女性の子が、この50年間、たゆまず行使し続けてきた主権の行使なのである。

つまりは主権行使の順番が、妻の子側に巡ってきた、ということなのだ。頑張れ妻の子。

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2013年9月11日 (水)

弁護士の「経済的自立論」について

法律新聞の編集長氏が、拙著『こんな日弁連に誰がした?』に言及して下さっている。弁護士がお金にならない人権活動を全うするには、経済的基盤の確保が必要、という「経済的自立論」について、「わが国では弁護士が少ないために、人権救済が行き渡っていない」という批判に耐えられなかった、という私見を、「正しいと思う」と支持しつつも、弁護士急増政策は、人権救済がないがしろにされることによって、社会にツケを回すのではないか、今こそ「経済的自立論」の持つ意味を見直すべきではないか、といった内容である。

編集長氏が指摘するとおり、経済的自立論は、世論から総スカンを食った。若林誠一NHK解説委員が、「そんな人権だったら守ってほしくない。そういった思い上がった議論が行われている」(『こん日108頁』)と国会で証言したとおりだ。総スカンを受けて、日弁連は「経済的自立論」を封印した。

しかし他方、「弁護士が増えて困窮すれば人権が守れない」という考え方が間違っているとしても、その逆、すなわち「弁護士は増えれば増えるほど、国民の人権が守れる」という考え方が正しいとは限らない。辻公雄弁護士が「超人思想」と揶揄したこの考え方は、いわゆる主流派に属する左翼系人権派弁護士によって支持され、今日もしぶとく生き残っている。

だからこそ編集長氏は、「経済的自立論」の今日的意義を説くわけだし、弁護士以外の方に「経済的自立論」を説いていただくのは、大変ありがたいことである。

だが、私はやはり、今「経済的自立論」を説くべきだとは思わない。むしろ弁護士は、「経済的自立論」の前提をこそ、見直すべきだと思う。

「経済的自立論」は、弁護士の存在意義が経済的弱者救済にある、との信念を前提にしている。「弁護士の人権擁護活動がお金にならない」のは、擁護される人びとにお金がないことが前提になっているからだ。

私は、経済的弱者の救済が、弁護士業務の崇高な一部であることを否定しない。しかし、弁護士業務の本質ではないと思う。

たとえば、原発事故で故郷と職を奪われ、貧困にあえぐ避難民の代理人として、東京電力に対し訴訟を起こす弁護士は、尊敬に値する。だが、彼らから訴えられる東京電力の代理人だって弁護士だし、彼らの仕事が、弁護士として軽蔑に値するとは、私は思わない。

原発難民の代理人弁護士も、東電の代理人弁護士も、ともに弁護士として尊敬に値するなら、改められるべきは、「経済的弱者の救済こそ、弁護士の本質である」という考え方ではないのだろうか。

「なにを言う、弁護士法1条に、弁護士の使命は人権擁護と社会正義の実現と書いてある」という声が聞こえてきそうである。だが、その「人権」のところに「経済的弱者の人権」とは書いていない。それならば、「経済的弱者の人権」に限定して読み込む理由はない。

強者の人権も、弱者の人権も、あらゆる立場の人権を代理し、その主張を戦わせること、これが弁護士の存在意義であり、弁護士法1条の意味である。これが、『こんな日弁連に誰がした?』の最終頁に記した私の考えだ。つまり、「経済的自立論」の是非を論じるのではなく、弁護士が擁護すべき人権とは何か、を論じなければならない、と思うのである。

もっとも、こういう中学二年生レベルの青臭い議論をやらなければならないこと自体が、弁護士業界の終わりを象徴しているような気が、しなくもないのだが。

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2013年9月 9日 (月)

水は死、島は舞台、空は夢

宮崎駿監督の映画は全部見ているが、研究しているという程ではないし、研究した本もほとんど読んでいないから、以下に書くことは私のオリジナルな思いつきだけれども、誰かが既に指摘しているかもしれないことを、あらかじめお断りしておく(もし気づいた方がいたら、ご指摘下さい)。

 

さて、宮崎映画において、水は多くの場合、死のイメージとつながっていると思う。カリオストロ城の墓所へは、水中を通ってしか通行できないし、腐海と酸の海は、死と直結している。ラピュタの池は、死者の住む城の静謐そのものとして描かれ、「となりのトトロ」で死をイメージさせる場面、すなわちサツキが母の死に言及するのは井戸の水を汲んでいるときだし、行方不明になったメイのものと思われる靴は池に浮いていた。「もののけ姫」では、瀕死の牛飼い、アシタカ、モロはいずれも、水に半身を浸した姿で描かれ、千尋が「銭婆」に会いに行くため乗る電車は水面を走り、乗り込んでくる乗客は姿が透けていて、幽霊と見まがうほどだ。「崖の上のポニョ」で、老人ホームで暮らすおばあさんが、大洪水のあと、車椅子なしで走れるほど元気になったのは、彼女らが死んだからだし、堀越二郎と里見奈緖子が再会する場所は、泉のほとりであって、奈緖子が死と隣り合わせの人間であると暗示している。

もちろん、水は死だからといって、マイナスのイメージばかりではない。水は死と再生の象徴でもある。腐海は文字通り世界を再生させる「死の森」として描かれているし、アシタカとサンは、大量の水(シシ神の体液)に呑み込まれて、生き返る。その水と、人間世界である陸とが接するところ、それが島だ。

宮崎映画で島は、生と死の交錯する場所、すなわち映画の舞台として、繰り返し登場する。カリオストロ城、ラピュタ、ポルコ・ロッソのアジトとホテル・アドリアーノ、たたら場と、シシ神の降り立つ場所、湯屋そして宗介の家は、島だ。

サツキとメイの家も、外界とは川(水)によって隔てられていて、島のようになっている。サツキとメイは、実は死んでいるという都市伝説があるけれど、考えた人は、感性が鋭い。

宮崎監督にとって、空が夢の象徴であることに、多言は要しないだろう。ただ、「紅の豚」と「風立ちぬ」では、空高くにある飛行機の墓場が出てくる。成層圏に引かれた一筋の雲が、実は無数の飛行機と死んだパイロットなのだ。つまり、空の果てに死の世界がある。

穿った見方をすれば、空は夢であり、夢の彼方には死(水)があって、さらにその彼方には生(島)がある。奇しくもルパンは、時計塔(島)のてっぺんから空を飛び、湖に落ちて、古代ローマの遺跡とともに再生する。これが、宮崎映画の世界観なのかもしれない。

え?「魔女の宅急便」と「ハウルの動く城」はどうなんだって?うーむ。

 

 

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2013年9月 2日 (月)

内藤頼博の理想と挫折(37)

占領下の日本で、裁判所法起草の中心となり、給費制を創設するなど、現代司法制度の礎を創ったのは、内藤頼博(よりひろ)判事ら、戦後の日本人法曹である。彼らが描いた理想と挫折の軌跡を追う。

平沼騏一郎と内藤頼博(11)

野村正男著『法曹風雲録 あの人この人訪問記』には、帝人事件に関し、藤井五一郎と相容れない立場からの証言がもう一つある。担当予審判事、両角誠英氏である。

予審判事の主任として、予審有罪の決定を下した人物だから、立場が違うのは当然だが、同氏が司法史上に名を残したのは、帝人事件の公判廷に、3回にわたって証人として召喚され、証言拒否を貫いたからである。もと検事総長の佐藤藤佐が「(藤井五一郎裁判長らが)予審判事まで証人に呼んでね。…ずいぶんどうかと思った」と苦言を呈した、その予審判事の一人である。

刑事公判廷に予審判事が証人として召喚されるという、空前絶後の事態は、当時「信書問題」として、世間の注目を浴びていた。

これは、帝人事件の被告の一人が「自分は詳細に検事に自白したから君も自分の立場に考慮することなく一切自白されたい」という意味のいわゆる自白勧告書を書き、これが担当の枇杷田検事を仲介して他の被告に差し入れられたが、当時は既に予審判事以外接見禁止中だったから、予審判事の許可を得ず自白勧告書を差し入れたとすれば、違法となる。ところが、枇杷田検事は公判廷で、「『信書をみせるとき両角予審判事の許可を得ました、両角判事はいまになって意外にも許可を与えた覚えなしといっておられるが自分は責任をもって許可を得たことをお答えします』と明言したため、同判事が召還される事態となったものである。

『法窓風雲録』における両角氏の述懐によれば、同氏は旧刑事訴訟法1851項「公務員または公務員たりしものの知り得たる事実につき本人または当該公務所より職務上の秘密に関するものなることを申立てたるときは当該監督官庁の承諾あるにあらざれば証人としてこれを訊問することを得ず」を盾に証言拒否を貫いたという。この問題については、昭和1269日の朝日新聞大阪版が、「平沼騏一郎(現枢府議長)小山松吉(元法相)矢追秀作(元東京控訴院検事長)の諸氏は「適格性ならず(=証言拒否は適法)」との見解を持し、林頼三郎(元法相)小野清一郎(東大教授)宮本英修(京大教授)の諸氏は「適格なり(=証言拒否は違法)」とし」と紹介し、法解釈上も論争があることを解説している。両角氏は平沼騏一郎らの解釈にしたがったわけである。

もっとも両角氏の同述懐によれば、3回目の公判廷で「その件については一年前に図らずも鬼頭豊隆東京地方裁判所長宛に提出した報告書中に一寸触れて記載しておいた旨申し述べ」た結果、この報告書が証拠採用されて一件落着したという。この証言がなぜ守秘義務違反にならないのか、信書問題について証言拒否を貫く両角判事の証言となぜ一貫するのか、全く分からないが、何らかの「大人の決着」が図られたとみるべきなのだろう。この一件も、帝人事件が極めて政治色の強い事件であったことを示している。

ちなみに、『法窓風雲録』において両角誠英判事は、大正4年(1915年)の司法官「採用直後、大先輩の平沼騏一郎先生のところを訪ねまして、“今後司法官としての心構えについてお教えを願いたい”と言って教えを乞うたのです」と述べている。両角氏は明治24年長野県の生まれであり、慶応3年に岡山県に生まれた平沼騏一郎は、東京大学の先輩でしかなく、しかも両角氏が生まれたときには東大3年生であって、親子ほど年の離れた大先輩であるというほか、何の関係もない。つまりこの訪問は、当時、名実共に司法界の最高実力者の地位にあった平沼に対する表敬と帰順の意思表示である。そして、両角氏は、回顧録の最初に平沼の名を挙げることによって、自分が平沼人脈に属した人間であることを明らかにしたのである。

平沼騏一郎が没してから10年以上経ち、かつ、自らも現役を引退した後ですら、平沼騏一郎との関係性を明示したのは、両角氏の性格上のことなのか、それとも、他の理由があるのか、不明である。いずれにせよ、昭和10年頃の平沼騏一郎は、それほどの影響力の持主だった、ということなのだろう。

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