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2013年9月 9日 (月)

水は死、島は舞台、空は夢

宮崎駿監督の映画は全部見ているが、研究しているという程ではないし、研究した本もほとんど読んでいないから、以下に書くことは私のオリジナルな思いつきだけれども、誰かが既に指摘しているかもしれないことを、あらかじめお断りしておく(もし気づいた方がいたら、ご指摘下さい)。

 

さて、宮崎映画において、水は多くの場合、死のイメージとつながっていると思う。カリオストロ城の墓所へは、水中を通ってしか通行できないし、腐海と酸の海は、死と直結している。ラピュタの池は、死者の住む城の静謐そのものとして描かれ、「となりのトトロ」で死をイメージさせる場面、すなわちサツキが母の死に言及するのは井戸の水を汲んでいるときだし、行方不明になったメイのものと思われる靴は池に浮いていた。「もののけ姫」では、瀕死の牛飼い、アシタカ、モロはいずれも、水に半身を浸した姿で描かれ、千尋が「銭婆」に会いに行くため乗る電車は水面を走り、乗り込んでくる乗客は姿が透けていて、幽霊と見まがうほどだ。「崖の上のポニョ」で、老人ホームで暮らすおばあさんが、大洪水のあと、車椅子なしで走れるほど元気になったのは、彼女らが死んだからだし、堀越二郎と里見奈緖子が再会する場所は、泉のほとりであって、奈緖子が死と隣り合わせの人間であると暗示している。

もちろん、水は死だからといって、マイナスのイメージばかりではない。水は死と再生の象徴でもある。腐海は文字通り世界を再生させる「死の森」として描かれているし、アシタカとサンは、大量の水(シシ神の体液)に呑み込まれて、生き返る。その水と、人間世界である陸とが接するところ、それが島だ。

宮崎映画で島は、生と死の交錯する場所、すなわち映画の舞台として、繰り返し登場する。カリオストロ城、ラピュタ、ポルコ・ロッソのアジトとホテル・アドリアーノ、たたら場と、シシ神の降り立つ場所、湯屋そして宗介の家は、島だ。

サツキとメイの家も、外界とは川(水)によって隔てられていて、島のようになっている。サツキとメイは、実は死んでいるという都市伝説があるけれど、考えた人は、感性が鋭い。

宮崎監督にとって、空が夢の象徴であることに、多言は要しないだろう。ただ、「紅の豚」と「風立ちぬ」では、空高くにある飛行機の墓場が出てくる。成層圏に引かれた一筋の雲が、実は無数の飛行機と死んだパイロットなのだ。つまり、空の果てに死の世界がある。

穿った見方をすれば、空は夢であり、夢の彼方には死(水)があって、さらにその彼方には生(島)がある。奇しくもルパンは、時計塔(島)のてっぺんから空を飛び、湖に落ちて、古代ローマの遺跡とともに再生する。これが、宮崎映画の世界観なのかもしれない。

え?「魔女の宅急便」と「ハウルの動く城」はどうなんだって?うーむ。

 

 

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