婚外子差別違憲判決と、司法の役割について
9月4日の婚外子差別違憲判決に対する4大紙の社説は、そろって判決を支持した。遅きに過ぎたと批判しているものすらある。見出しを並べると、「遅すぎた救済のつけ」(朝日)、「家族間の変化に沿う違憲判断」(読売)、「長かった平等への道」(毎日)、「国会は速やかに相続差別規定の撤廃を」(日経)だ。この違憲判決を批判する意見はほとんど聞こえてこないし、政府も早急な法改正を目指すという。
これは、奇妙な話である。
4大紙が社会の木鐸を自認し、真に国民の意思を代弁しているのなら、違憲判決を遅すぎたと批判する前に、国会を通じて相続法を改正すべきだろう。民主主義とは、本来、そういうものである。最高裁判決をきっかけとする法改正を、口を開けて待っているだけでは、主権者たる自覚に欠けるとのそしりを免れない。
とはいえ、現実問題として、現在の議会制民主主義制度だけで、婚外子差別条項の改正が実現できたとは思われない。議会や新聞社の仕事は多いし、優先順位もあるからだ。
ところで、「裁判所は少数者の人権を守る機関であり、自由主義に基づく。国会は多数者の利益を実現する機関であり、民主主義に基づく」という考え方がある。多くの法学部生がこう教えられるし、多くの法律家が、こう理解している。裁判所は少数者の人権を守る機関だというのが、司法に対する伝統的な理解なのだ。
だが、婚外子差別違憲判決が、世論から支持され、遅すぎたくらいだと批判される事態は、伝統的な考え方からは、理解できない。なぜなら、最高裁は、多数意思に沿った判断をしたことになるからだ。もし、少数者の人権を守ることが裁判所の使命なら、裁判所は、婚外子差別を支持すべきであり、違憲判決を出すのは間違い、ということになる。だが実際には、伝統的な司法観の持ち主に限って、今回の違憲判決を支持していたりする。彼らは、自らの矛盾に気づいていない。
そうだとすれば、改められるべきは、この伝統的な「司法の役割」観ではないだろうか。
妻の子には妻の子の正義があり、妻でない女性の子には妻でない女性の子の正義がある。この二つの正義は決して相容れないし、古今東西を通じて普遍的に、どちらの正義が正しい、ということもない。これは要するに、立場によって正義が違う、ということである。婚外子に限らず、日本中どこにだって、たくさんある問題だ。右利きには右利きの正義があり、左利きには左利きの正義がある。改札機が進行方向右側にあるのは、許されない差別だ、という考え方だって、あってよい。
自分の立場の正義を、法制度として実現する方法はいろいろある。行政に陳情するのも一つだし、立法府の議員を動かすのも一つの方法だ。そして、裁判所に訴えるのも、自分の立場の正義を実現する、一つの方法である。
肝心なことは、これらはすべて、国民の自己実現の方法だ、ということであり、同じ価値を持つ、ということだ。正義を実現する権利を国民自身に留保する制度を国民主権と呼ぶならば、裁判所に訴えることも、国民主権の表れにほかならない。そうだとすれば、司法の役割を、民主主義と対立させる理解のしかたは、間違いだということになる。
どんなに易しく書こうとしても難しくなってしまうが、要は、多数派か少数派かなんて、関係ないのである。国民一人一人が、正義と幸福を自ら求め続けること、これが民主主義であり、司法も民主主義を実現する一つの機関にすぎないのだ。
で、妻の子はどうすればよいかって?
妻の子は、妻の子の正義を、裁判所に訴えればよい。10年かかるかもしれないし、50年かかるかもしれないが、再び判例を変更させ、相続法を再改正させるまで、自分の正義を訴え続けるのだ。
それが民主主義ということであり、妻でない女性の子が、この50年間、たゆまず行使し続けてきた主権の行使なのである。
つまりは主権行使の順番が、妻の子側に巡ってきた、ということなのだ。頑張れ妻の子。
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