弁護士の「経済的自立論」について
法律新聞の編集長氏が、拙著『こんな日弁連に誰がした?』に言及して下さっている。弁護士がお金にならない人権活動を全うするには、経済的基盤の確保が必要、という「経済的自立論」について、「わが国では弁護士が少ないために、人権救済が行き渡っていない」という批判に耐えられなかった、という私見を、「正しいと思う」と支持しつつも、弁護士急増政策は、人権救済がないがしろにされることによって、社会にツケを回すのではないか、今こそ「経済的自立論」の持つ意味を見直すべきではないか、といった内容である。
編集長氏が指摘するとおり、経済的自立論は、世論から総スカンを食った。若林誠一NHK解説委員が、「そんな人権だったら守ってほしくない。そういった思い上がった議論が行われている」(『こん日108頁』)と国会で証言したとおりだ。総スカンを受けて、日弁連は「経済的自立論」を封印した。
しかし他方、「弁護士が増えて困窮すれば人権が守れない」という考え方が間違っているとしても、その逆、すなわち「弁護士は増えれば増えるほど、国民の人権が守れる」という考え方が正しいとは限らない。辻公雄弁護士が「超人思想」と揶揄したこの考え方は、いわゆる主流派に属する左翼系人権派弁護士によって支持され、今日もしぶとく生き残っている。
だからこそ編集長氏は、「経済的自立論」の今日的意義を説くわけだし、弁護士以外の方に「経済的自立論」を説いていただくのは、大変ありがたいことである。
だが、私はやはり、今「経済的自立論」を説くべきだとは思わない。むしろ弁護士は、「経済的自立論」の前提をこそ、見直すべきだと思う。
「経済的自立論」は、弁護士の存在意義が経済的弱者救済にある、との信念を前提にしている。「弁護士の人権擁護活動がお金にならない」のは、擁護される人びとにお金がないことが前提になっているからだ。
私は、経済的弱者の救済が、弁護士業務の崇高な一部であることを否定しない。しかし、弁護士業務の本質ではないと思う。
たとえば、原発事故で故郷と職を奪われ、貧困にあえぐ避難民の代理人として、東京電力に対し訴訟を起こす弁護士は、尊敬に値する。だが、彼らから訴えられる東京電力の代理人だって弁護士だし、彼らの仕事が、弁護士として軽蔑に値するとは、私は思わない。
原発難民の代理人弁護士も、東電の代理人弁護士も、ともに弁護士として尊敬に値するなら、改められるべきは、「経済的弱者の救済こそ、弁護士の本質である」という考え方ではないのだろうか。
「なにを言う、弁護士法1条に、弁護士の使命は人権擁護と社会正義の実現と書いてある」という声が聞こえてきそうである。だが、その「人権」のところに「経済的弱者の人権」とは書いていない。それならば、「経済的弱者の人権」に限定して読み込む理由はない。
強者の人権も、弱者の人権も、あらゆる立場の人権を代理し、その主張を戦わせること、これが弁護士の存在意義であり、弁護士法1条の意味である。これが、『こんな日弁連に誰がした?』の最終頁に記した私の考えだ。つまり、「経済的自立論」の是非を論じるのではなく、弁護士が擁護すべき人権とは何か、を論じなければならない、と思うのである。
もっとも、こういう中学二年生レベルの青臭い議論をやらなければならないこと自体が、弁護士業界の終わりを象徴しているような気が、しなくもないのだが。
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